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ずっと残り続ける言葉と、見守り続けるこれから

 前回のnote記事で、cakesでの幡野広志さんの記事に批判が相次いだ件について、「もうcakes編集部からも、幡野さんご本人からも丁寧な謝罪がなされてるし、もう良くね?」という旨の記事を挙げた。

 この記事を上げることにより、この件について考えることに区切りをつけたかったのだが、実際はそうもいかなかった。
 今日、ある本を読んでいる最中、自分の過去を思い出したのだが、それは「自分の辛い体験を勇気を出してしかるべき方に相談したのに、軽くあしらわれて終わった」ということだった。
 それだけでも上記の幡野さんの一件を思い出してしまった。
 そして、どれだけ冷静かつ客観的に自分の過去をネット上に書いたところで、必ずどこかに嘘だの、大げさだのみなして軽視する人はいるんだろうな、と思ったら、その本の読書感想文を書いてネットに上げる予定だったが「別に書かなくてもいいんじゃないか」とも思ってしまった。

 幡野さんが公然の場で、悩み苦しんでいる人に対して嘘だの大げさだの言ってしまったことは消えない。
 これから幡野さんも、cakesも、信頼を取り戻していくにはかなりの時間と労力がかかるのかもしれない。

 そして、私個人も幡野さんやcakesを許せていないことに気づいた。
 冒頭で挙げた自分のnote記事は、むりやり自分を納得させるために書いたようなもので、そりゃ誰からもスキ!はつかないだろうし、むしろ今は誰からもつけてほしくないと思う。

 この問題は、誰にとっても被害者にも、加害者にもなりうる危険性がある。
 ずっと引きずって、考え続ける問題かもしれない。

 先ほど、とある方のnote記事を読んで、なぜ私は幡野さんとcakes編集部からの謝罪で、この件について区切りをつけようと決めたのか、そしてどうして今日になっても頭の中ではついていないのか、わかった気がする。

 彼女は徹底的に当事者の目線から、冷静に今回の件について、幡野さんやcakes編集部の方々に伝えたいことを語っていらっしゃる。
 読んでいて、私も自分の過去を思い出した。
 子供のころからずっとずっと、誰からも言っていることを信じてもらえず、しまいには黙るしかなくなったことばかりで、誰にも助けてもらえなかったり、馬鹿にされたりした。だからもう黙っていよう、と思うどころか、他人を遠ざけて生きていた時期もあった。
 その理由の根っこにある過去に、今回の件はストレートに当たるのだ。
 でも私は直視しないようにした。「まぁまぁ、幡野さんも大熊さんもこうやって謝ってるんだし、もういいんじゃね?」って、頭の中で正論を語る私が、心の中でいつまでも泣いている私をなだめすかせていた。

 彼女の記事を読んで、今の正直な気持ちに気づいた。
 信頼していた方が、悩み苦しんでその状況を切々と語る方に対して「嘘」だの「大げさ」だの公然と言い放つのを見てしまったら、自分も過去の苦しみや悲しみを人に語るのが怖くなる。
 どれだけ冷静に語ろうとしても、「嘘でしょ?」とか「また盛っちゃって(笑)」とか言われる恐怖を考えると、「黙っておいたほうがいいや」とまた口をつぐんでしまう。
 公の場できちんと謝罪されたからと言って、頭では許そうとしても心ではどうにもできないことが分かった。

 幡野さんとcakesがこれからどうやってこの問題に向き合い、歩んでいくのか、それはきちんと見届けたいと思う。
 そして彼らのこれからの行動が、いつか、cakes編集部からの文章にある「多様性を重視して、特に弱い立場の方が声をあげて届けられるような社会」への促進にもなっていくことを祈っている。

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