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「心穏やかに過ごすこと」を選ぶ勇気

 先日、「『死にたい』『消えたい』と思ったことがあるあなたへ」という本を読んだ。
(だからといって私が現在、そのような思いを抱いているわけではない。念のため)

 この本の中で、写真家の齋藤陽道さんは以下のようにおっしゃっている。

 十四歳のとき、ぼくの孤独は極まっていました。
 クラスメイトに陰口を言われたり、無視されたり、ものを盗まれたり。いじめともいうべき状況です。
 本当なら、人間の尊厳を踏みにじられたことに対して、毅然として怒ったり、悲しむべきです。ですが、そのとき、ぼくは怒ったり悲しんだりするよりも、「自分を見てくれている」という喜びを感じていました。
 今振り返ってみても、自分の感情のいびつさにゾッとします。

p.154

 この部分を読んで、「私も同じだった」と気づいた。

 十四歳のときだけでない。
 その前も、その後も。
 例えば、そんなに親しくもない人が私に近づいてきて、根掘り葉掘りこっちのプライベートを、まるでインタビューのように一方的に聞いてくるなんてことが、やたらとあった。
 最初のうちは「私に興味を持ってくれている!」と嬉しくなって、いろいろ答えた。
 しかし、その質問はほとんどの場合、掘り下げられることはなく、まるでネット上のアンケートに延々と答えているような感じだった。
 しかも、相手からのフィードバックもなければ、そのぶん自分のプライベートを私に教えてくれることもほとんどなかった。
 そもそも、別にそんなことをこっちから聞きたいほど興味のある相手でもなかったし。

 その後、なぜかその人ひとりだけに伝えた私の情報が他の人たちにまで広く知れ渡っていることもあった。また、顔を合わせるたびに全く同じ質問をする人もいれば(多分、答えを忘れていたんだと思う)、よりプライベートな情報を聞き出そうと失礼な質問をしてくる人もいた。
 そして、だんだん自分が「雑に扱われているだけ」だと気づき、憤慨して終わることばかりだった。

 しかし悲しいかな、振り返ってみれば、私も話しかけられることが嬉しかったのだ。
 そんなことでも「自分の存在を認めてもらっている」と実感できたから。

 最近、人づきあいを意図的にセーブして、ひとりの時間を作るようになった。
 最初は寂しいと感じていたが、慣れてきたら「今の方が楽」と思うようになった。
 「友達は多ければ多いほど楽しい」と言う人もいるだろうが、それは人それぞれの話であり、誰にでも当てはまるわけではない。

 一度知り合った人とはずっと仲良くしなければならない、とか。誰からも好かれるように振る舞わなくてはならない、とか。
 そんな思い込みを子供の頃から持っていて、そのおかげで「人づきあいがうまくできないコンプレックス」に苦しんできたような気がする。
 それゆえに、そんなに親しくない人からでも話しかけられて、次々と質問されるのが嬉しかったのだ。

 「あえてひとりでいること」を選んでから、自分に寄り添ってくれる存在を、わざわざ「人」に限定する必要はない、と気づいた。

 冒頭で紹介した齋藤さんの文章では、その後に以下のこともおっしゃっている。

 人間関係に疲れたなら、身の周りにあるせせこましいことばから、逃げてください。勇気を持って、時間をかけて、逃げていってください。
 逃げたと思った先で、きっと、あなたにとってふさわしい形で語りかけてくれることばをもつ存在が必ずいます。それは人間に限らず、本や、芸術、映画、動物、自然……想像もしたことがない未知のもの……であるかもしれません。
 どうか、自分のなかにある「ことば」を大切にしてください。

p.162

 傍から見たら、私は「淋しい人」かもしれない。
 だけど、今の私は「『心穏やかに過ごすこと』を選ぶ勇気を持った」と思うことにしている。
 あえて、ひとりの時間を作ること。それは、本を読むこと、運動すること、家事をすること、など。
 自分が少しでも心地よく過ごせるように、自分をもてなす勇気を出したのだ。

 もしその先に、信頼しあえる友人ができれば素敵だな、とは思うけど。
 まずは、自分が心地よく生きるための芯を作ることが大事じゃないかと思う。
 そのために、今はひとりの時間を大切にして、楽しんでいきたいと考えている。

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