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小説「旅路」

 机の上に、写真立てに入れて飾ってある写真がある。
 そこには、大学の卒業式に正門前で、スーツ姿や袴姿のサークルの仲間たちに混じり、ぎこちなく笑っている僕がいる。
 せっかくの卒業記念なんだから、もっと晴れ晴れとした顔をしていてほしかったと思う。
 でも僕はその写真を見ると、そのサークルで過ごした十年近く前の日々を思い出す。
 滑り止めで仕方なく入学した大学で、何にもやる気のなかった僕が、ただ無為に時間を過ごすことを許容してくれた、仲間たちと場所。
 部室の真ん中にあった大きなテーブルには、古びた大きなCDラジカセが置いてあって、でもそれで音楽を聴くことはほとんどなく、ただ部室でお菓子を食べたり、文庫本を読んだり、ぼーっとしたりして過ごしていた。だいたい、そこには誰かしら他にも部員がいて、上下関係が全くもってユルいことも相まって、先輩だろうと後輩だろうと誰が居ても気にせず居座れる、僕にとって心地良い空間だった。
 文芸創作研究会という、小説や詩などを書いて発表するのが目的の人たちが集まるサークルなのに、僕はただ「本を読むのが好きだから」という安直な理由で入部した。年に2回、部内で集めた原稿を元に同人誌を作っていたが、僕はその編集スタッフを務めたものの、文章を書こうだなんて一度も思ったことはなかった。
 でも3年生の秋、思いきって一度だけ、小説を書いてみた。入部してから2年半経ったけど、プロを目指しているような本気の部員はいなかった。単なる内輪ネタをそのまま小説にしている人もいれば、日常の愚痴をエッセイとして何作も書いている人もいた。それで、何となく「一度くらい自分も書いてみようかな」と軽い気持ちで思えた。
 夏休みの後半を潰し、アルバイトの合間を縫って、アパートの机に向かってワープロで文章を打っていった。中学の時、好きだった同級生の女の子との思い出を、あえてフィクションとして書き残そうと思った。一度だけ夏休みの最中、二人で出かけたお祭りの思い出。その彼女は二学期が始まる直前に転校してしまい、消息が分からなくなった。だからこそ、きれいな思い出として残っているのかもしれない。
 突然、彼女からお祭りの当日に電話が来て、お誘いを受け、何となく出かけて行った。彼女は浴衣姿でも何でもなく、Tシャツにジーンズで、僕の気づかない部分でおしゃれをしている気配もなかった。ただひたすら二人で駅前の商店街に並んだ夜店を歩き回り、彼女も僕も何を買うでもなく、ただふらふらと夜のお祭りの楽し気な雰囲気の中にいた。結局、夜の八時に彼女の親が駅前に迎えに来るからとのことで、僕は彼女を駅まで送った後、一人で歩いて家路についた。事実通りに書けば、本当に何の起承転結もない。小学生の作文みたいだったけど、書かずにいられなかった。
 そうして出来上がった僕の文章が、部の同人誌に載っているのを確認した時、なんとも言えない誇らしげな気持ちになるのと同時に、少しの怖さもあった。大事な思い出をフィクションという形ではあれど、人目にさらしてしまうことは、誰かにけがされてしまう可能性もある。でも僕は書きたかったことを書けたし、部の同人誌に残すことができた。それだけで嬉しかった。
 読んでくれた仲間からは思いがけぬ反応をもらえた。「いい文章、書けるんじゃん」と褒められたり「もっと読みたいなぁ」と言われたりした。すごく嬉しかったけど、だからといってつけあがることはなかった。もう書きたいことを出しきってしまったからだ。
 その同人誌を最後に3年生は引退すると決まっていたから、その後、僕は当然のように就職活動をはじめ、内定を頂いた会社の中でいちばん待遇のいいところに入社し、今に至っている。全部、成り行きまかせの人生だ。
 大学卒業から十年近く経っても、僕はいまだに当時と何も変わっていない気がする。卒業してからはサークルの仲間や後輩たちとも疎遠になり、今さら連絡を取ろうとも思わないし、わざわざSNSを検索するつもりもない。
 でも当時の「何となく楽しかった」という思い出は、常に頭のどこかに残っていて、卒業記念の写真を見るたびに蘇る。
 机の上段にある棚にしまってあるサークルの同人誌のうち、僕の小説が載った号を取り出した。
 あえて読み返すなんて近頃は全くしていなかった。最後に読んだのもいつだか忘れた。中学時代の彼女との思い出どころか、初めて書いた小説のことも忘れかけていた。
 おもむろにページをめくり、自分の小説に目を通してみる。大したことはない、平坦なストーリー、他人が読んでもそんなに面白くないのはよく分かっている。でも、彼女との思い出を書き残そうと、残暑のきつい最中、扇風機の風を横から受けながら小説を書いた記憶がよみがえる。
 また、書いてみようかな。何となく思った。また書きたいことが見つかった。大学時代のサークルでの日々だ。
 大した出来事も特にない、平坦な日々だったけど、僕には書き残しておきたい、大事な思い出なんだ。
 大学の時のワープロは捨ててしまったけれど、今はパソコンで打てばいい。同人誌に載せてもらわなくても、インターネット上で発表することができる。誰が読んでくれるかどうかも分からないけれど、僕は僕の為に書きたい。キラキラもワクワクもあんまりなかったけど、無意味でただ何となく楽しかったあの頃を。
 もう長いことネットサーフィンのためにしか開いていなかったノートパソコンを起動し、文章作成ソフトを探して立ち上げた。そして僕はまた書き始める。長い人生の中でずっと残しておきたい、あのかけがえのない日々を。


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