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日記で「もうひとりの自分」を俯瞰できるようになるために

 今年の初めから、大学ノートに自分の感情を書くようになった。
 一か月に一度のペースで買い足しているので、もう8冊くらい書いていることになる。

 ふと思い立ち、それらを読み返してみた。
 あまりに主観的かつ感情的な内容に、書いた当人である自分が疲れきってしまった。
 被害者意識たっぷり。
 そして、ほとんどが周囲や自分自身に対しての不平不満であり、建設的な内容は何一つ書かれていない。

 でも、吐き出す先がこのノートしかなくて、ひたすら叫びとして書いてきた文章かもしれない。
 それはまぁ、自分で自分に同情するんだけど。
 でも「人間なんだからさ、もうちょっと理性を保とうよ」とも言いたくなる。

 先日、拝読した『さみしい夜にはペンを持て』の中で、主人公のタコジローくんに日記を書くことを勧めるヤドカリのおじさんは、次のように語りかける。

「もしもタコジローくんがだれかの悪口を書きたくなったときには、がまんせずに書いちゃっていいんだよ。ただし、過去形にすること」

p.227

 なぜなら、過去形で解決済みのこととして書いていくことで、ネガティブな感情と自分の間に距離ができ、またどうしてその思いに至ったのかを考えられるようにもなるから、とのこと。

 真似をして、私もノートに愚痴や不満を書くときは過去形にするよう努めてみた。
 まだ2日ほどしか試してないが、それらの文章を読み返しても全くネガティブな感情にはならなかった。
 その中で、過去にとあるところで理不尽な目に遭ったことについても書いたが、それについて読んでいるときも感情的にならなかった。おまけにその後の対処法まで落ちついて考えることができた。

 日記は書くことで完結するのではない。
 後で読み返し、その中にいる「もうひとりの自分」を俯瞰することで、自分を見つめ直すことができ、いいところも悪いところも客観視できるようになるのかもしれない。

 せっかく自ら選んで使っている大学ノートなんだから、書いた後も大切に保管したくなるような、前向きな文章を書いてきたいし。
 そういえば、去年以前にもノートに日記を書いていたことが多々あるはずなのに、どれも読み返すに堪えない内容で、結局、雑に捨ててしまった気がする。
 そんな悲しいことは、なるべくもう避けたい。

 というわけで、しばらくはノートに文章を書くとき「愚痴や不満を書いてもいいけど過去形で」と肝に銘じることにする。

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