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未来の自分が読むための日記を書く

 昨年の夏に買った、「さみしい夜にはペンを持て」を再読した。

 一度目に読んだときは文章を読むことに集中していたが、二度目の現在は、ならのさんのイラストや本のあちこちに潜んでいる仕掛けなどに目を配る余裕もあり、それらも併せてゆっくりと楽しんだ。

 ただこの本のストーリー、見方によっては、バッドエンドと思う人もいるかもしれない。
 はっきりいって、魔法のような奇跡が起きて「めでたしめでたし」な結末ではない。
 それどころか主人公のタコジローくんがその後、より過酷な目に遭ったんじゃないかと予感してしまう部分もある。
 それでも、この本を「読んで良かった」と思うし、人にも勧めたいと思う。

 物語の中でタコジローくんは、「日記を書くこと」を教えてくれたヤドカリのおじさんから、以下のことを聞く。

「おじさんはね、自分が日記をつけはじめてから気づいたんだ。おじさんがいちばん『わかってほしい』と思っていた相手は自分自身だったんだ、ってね」
「自分自身!?」
「ああ。日記を書くのは自分だ。そして日記を読むのも自分だ。『わかってもらおう』とする自分がいて、『わかろう』とする自分がいる。『伝えたい』自分がいて、それを『知りたい』自分がいる。そこが日記の、おもしろいところなんだ」

p.267-268

 「そういえば私は、誰のために、そして何のために日記を書いていたんだろう」と考えた。

 正直なことを言うと、その時の自分にとっての、単なるストレス発散だったと思う。
 ただ怒りをぶちまけたい、モヤモヤを整理したい、過去の恨みを書きだしたい……なんて、将来の自分が読み返すことをほとんど、意識してなかった。
 その証拠に、過去の日記や手帳をパラパラ見返すことはあっても、じっくり読んで当時の自分を振り返ることが、ほとんどなかった。
 つまり、この物語でいうところの「読者がひとりもいない日記」になってしまっていた。

 その「読者がひとりもいない日記」については、ヤドカリのおじさんが以下のように言及している。

「日記の向こうに、それを読んでくれる相手がいない。自分の気持ちを伝えるべき相手がいない。だったら、ことばを尽くして『わかってもらおう』とする必要がない。結果としてものすごく雑な、ただ自分の感情を吐き出すだけの日記になってしまう。流れのある文章ですら、なくなってしまうんだ」

p.265

  最近の自分の日記を読み返してみて思ったが、まさにそんな感じになっていた。
 実は、この本の中には「日記に愚痴や悪口を書かない方法」も書かれていて、それを試したこともある。
 でも結局いつの間にか、そのやり方を踏襲することをやめていた。

 ヤドカリのおじさんは、上記の言葉に続き、次のことをタコジローくんに伝える。

「でも、日記の向こうに読者がいると思ったら、もっと『わかってもらおう』と努力するだろ? 感情に走り過ぎず、そこにコスパなんか求めなくなるだろ?(中略)すべては、読者にわかってもらうためなんだ」

p.266

 そして、その読者というのは「自分」だと、ヤドカリのおじさんは言う。

「自分の気持ちを書いてくれるのは、自分しかいない。きょう起きたおもしろいことを書いてくれるのは、自分しかいない。きょう思いついたアイデアを書いてくれるのは、自分しかいない。そうだろ? おじさんは、それを読みたいんだ。いまはともかく、あとになって読み返したいんだ。それがどんんなにすばらしい宝ものになるか、知ってるからね」

p.270-271

 「読者がひとりもいない日記」を書き続けていると、どんどん自分が性格の悪い人間に思えてきて、自己嫌悪が増していき、自己肯定感がどんどん削がれていく気がする。
 なのに、好きなときに好きなだけ、書きたいことを書いては、「あースッキリした」と一時的に満足していたなぁ、と振り返って思う。

 エピローグにて、ヤドカリのおじさんとの出会いから3年後の、おそらく高校3年生になったタコジローくんは、自分を振り返ってこう語る。

 ぼくは、変わりたかったわけじゃない。いまになって思う。ぼくは、ぼくのままのぼくを、好きになりたかった。そして日記を続けることですこしだけ、それができている気がする。

p.287

 その後の話も、オチまで分かっているのに、改めて読んで涙が出た。
 タコジローくんが書き続けた日記、辛いことも悲しいこともたくさん書いてあると思われるけど、きっと素敵なものなんだろう。

 私もそんな日記、書いてみたいな。

 自分の日記の書き方を、改めて見直してみようと思う。

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