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ソーシャルワーカーズ・ハイ-助手席からハンドルを握ることを止めるために-

現場3年目の頃だろうか。
とある状態に「ソーシャルワーカーズ・ハイ」と名前をつけた。

俗に言う「困難ケース」と呼ばれるケースに出会ったとき、助手席にいたはずの自分(ソーシャルワーカー)が、運転席にいるクライアントのハンドルを奪い、握っている場面を揶揄して使っていた言葉だ。

出典は、「走るうちに苦しさが消え、高揚感がわき上がってくる」という”ランナーズハイ”をもじった。


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ソーシャルワーカーズ・ハイのスイッチとしての困難ケース

そもそも、”困難ケース”の定義は、おそらく、”ありとあらゆる資源を投入しても、クライエントとその環境が有する問題が軽減、解決できない事態(ケース)”という感じかと思う。

もうひとつは、”援助者側の経験や力量の問題で対処不能・困難な事態”という定義。この定義において、援助者側が「困難ケース」という呼称を使うのであれば、一度、頭をよく冷やすべきだと思う。この呼称を使わざるを得ない状況に援助者がいるとき、まず取るべきは、援助者自身がもつワーカーシステムの拡充と再編成だと思う。

「困難ケースだ」と、言葉で定義することにより、援助者の中により一層の困難感を生んでしまい、次にどのような行動を起こすかということがセットで語られにくくなり、俗にいう思考停止状態に陥る。「困難感」は主観的なものであるのだから、それを用いることでマイナスの要素しか生まないのであれば、その言葉を用いるメリットはない。

以下、私見を述べた.


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「目の前にいる人間のために」
想いが強ければ強いほど、「ソーシャルワーカーズ・ハイ」に陥りやすい。
助手席から身を乗り出し、ハンドルを奪い取ることがないよう、トレーニングをすることが必要だ。でも、そのことに「ひとり」で気づくことはむずかしい。

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ソーシャルワーカーズ・ハイが生む弊害


ソーシャルワーカーズ・ハイは、様々な弊害を生む。

ひとつは、メタ認知をむずかしくさせること。
たとえば、現場でよく出会う、援助方針が決まりかけてから現れる遠縁の親戚も、ケースを丸抱えする他機関の担当者も、依頼事項に対して一向に対応してくれない他部署の人間も、それぞれが、それぞれの論理で動いている。
現場における「悪者」など存在せず、小さなボタンのかけ違いが、「現状」を生み出しているのだけれども、「ソーシャルワーカーズ・ハイ」は、その「現状」さえ、「クライアントの前に立ちはだかる悪路」と錯覚させ、ますます「ハイ」にさせる燃料してしまい、視野狭窄はすすむ。

長く「ソーシャルワーズ・ハイ」状態に置かれると、その結果、「ハンドルを握る主人公としての支援者」化はすすむ。
そして、「自分たちは、この地域(このチーム)のいち社会資源としての支援者(支援機関)である」というメタな認知ができなくなる。
そうなると、当該地域(チーム)における自組織(自分)の強みや資源の総量を見誤るし、自組織(自分)が位置する地域の「何を強化するのか」、「何を補うのか」、「(ニーズに基づく)今はない、新しいものつくるのか」というような「とるべきポジショニング」について考えることも難しくなる。

2つめは、クライアントに不利益を被らせるリスクが高まること。
これは絶対に避けなくてはならないことのはずだが、ソーシャルワーカーズ・ハイに置かれると、傲慢にも、自身がクライアントにプラスの影響さえ及ぼせども、不利益など被らせるなど微塵も思わなくなる。

自組織(自分)のポジショニングに無自覚な支援者(支援機関)は、最悪、クライアントが既に有している社会資源(フォーマル、インフォーマルに関わらず)との関係性を壊したり、亀裂を入れる結果になる。

・援助方針が決まりかけてから現れる遠縁の親戚を排除し、細く繋がっていたクライアントがもつ(関わる気持ちのある遠縁)という社会資源との「線」を専門家ヅラして立ち切る。
・他機関の担当者を「ケースを丸抱えする出来ない奴」と糾弾し、支援過程を共有せず、クライアントは両者からの異なる言葉に混乱する。


これは、自分の経験を振り返っても、恐ろしいほど数多くあるように思う。
支援者自身が、痛い目にあって気づくことはある程度必要だとは思うが、自分が他者の人生への関与によりメシを食わせてもらっていることを忘れてはならないと思う。


ソーシャルワーカーズ・ハイに陥らないために

他者の人生という舞台で痛い目にあうことがどんな意味かを腹落ちさせることができたとき、恐怖で、自分をトレーニングせずにはいられなくなるはずだと。

善意だけで人を支援できるのであれば、この世に専門職なんていらない。
学び、実践でクライアントに試し、クライアント感謝し、省みて、修正する。そういった自主トレーニングのサイクルが回せないのであれば、真なる意味でプロフェッショナルとは言えないのではないか。そう思うのです。

「目の前にいる人間のために」という想いが強ければ強いほど、「ソーシャルワーカーズ・ハイ」に陥りやすい。

助手席から身を乗り出し、ハンドルを奪い取ることがないよう、トレーニングをすることが必要だ。でも、そのことに「ひとり」で気づくことはむずかしい。内省し、経験から学ぶという習慣と、客観視を助けてくれる他者を自らの支援システムとして持つことが必要だ。


そんなことを学び考える回をlearning loungeで開催します。よろしければ、ぜひ!

実践を積んだソーシャルワーカーであればあるほど、体感としての「思考・行動パターン」を持っているのではないでしょうか。このパターンを言語化することは、

・自分の成功パターンを認識し、学びとして蓄積する
・自分の学びを、他者にも共有可能な形として提供し、育成や組織としての学習につなげることができるという意味で、とても有用です。


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