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「失せろ!!!」と心の中で叫ばれているかもしれないと仮定できる想像力を.


ときどき想像する。

今日、数時間後、自分が、脳梗塞で倒れ、自分の人生において様々な力点をおいている言語運用する機能に重度の障害が残ったとして、そんな自分の目の前に病院のソーシャルワーカーが現れた、としたら、と。


白衣を着た清潔感のある男性が病室に入ってくる。胸元にあるネームプレートに少し手を触れながら、

「ソーシャルワーカーの●●と申します。横山さんが望む今後の生活について、一緒に考えて、お手伝いをさせていただく職業です。医師から聞いていると思いますが、横山さんの今後のリハビリについて、より長い期間、専門的なリハビリを受けていただくために、リハビリ病院への....」


それを、わたしは、ベッドに伏せたまま、上目で見て、きく。そしてすこし経ち、思う。

は?誰だよアンタは?「望む今後」の生活?は?言葉もろくに出ないのに?自由に思考の海に漂うこともできないくらい、頭の中が曇っているのに?
というか考えると頭痛がする。望む生活?2週間前に戻してくれ、だよ。できねえのなら、とっととこの場から、「失せろ」や。


相手の立場に立って物事を考えなさい、というのは小学生の頃から言われるステレオタイプの説教文句だけれども、ソーシャルワーカーである自分たちも、クライアントと会う前に「自分だったら...」と1分くらい考えることを課したい。

準備的共感とか、たいそれたものではなく、想像力が必要だ。想像力を鍛える(耕す、豊かにする)方法は人それぞれだと思うけれど、

「今、自分にとって、今は全く想定していない、けれど、一番起きて欲しくない出来事は何か」

「その出来事が起こったとしたら、自分はどうなるか(何を感じ何を思うのか)」

などについて考え、

「失せろ!!!」と心の中で叫ばれているかもしれないと仮定できる想像力を持ち得ることは、クライアントとへの関わりのさまざまを変える大きな引力となる、とわたしは思う。



【今日の一冊】

想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 

ホモ・サピエンス全史において語られる「虚構という発明」について読んでから読むとよい一層面白いと思います。私たちをわたしたちたらしめているさまざまなものに想像を及ばせながら.


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