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教養が、自分がどこにいるか?何者なのか?を教えてくれる。

ものを知らないということは…

先日、Twitterでこんな言葉に触れました。

どんなに気が良くて、どんなに一生懸命でも、ものを知らないというのは、自分がどこにいるか知らないことですから。

という、宮崎駿さんの言葉。

「教養の大切さ」をうまいこと訴えていきたい私としては、「そうそう!私もそれが言いたかった!!」と、激しく共感。詳しく調べてみると…

学生時代に本を読まないのは勝手だけど、そのつけは全部自分が払うんだから。知識や教養は力じゃないと思っているやつはずいぶん増えたけど、結局、無知なものは無知ですからね。
どんなに気が良くて、どんなに一生懸命でも、ものを知らないというのは、自分がどこにいるか知らないことですから。
特にいまのような、どこに自分たちが行くんだろうと、自分で考えないとわからない時代が来たときに、歴史的なことに対する無知というのはいずれしっぺ返しがくる。

旬報社『教育について』@宮崎駿氏の言葉

つまり、本・読書に限らず「知識・教養」がない人は、自分がどこにいるか知らないことと同じ。どんなに一生懸命努力をしても「教養がない=知性がない=無知」だということ。

ちょっと厳しい言葉だけど、シンプルに、そして強く心に響く言葉じゃないかなって思うんです。さすが宮崎駿さん!


教養がなければ、直感は生まれない。

昨年から「教養って大事だよ!」って強く思い直すきっかけとなったのが、何かの記事で「教養はなくていい。直感が大事」というようなお話を見つけて、めちゃくちゃ違和感だったんです。

この「違和感」の理由はなんだろう?と考えてみたのですが…

まず、直感って大事だけど、何もない・何も知らないところからは生まれないよね、ということ。

直感だけじゃなくて、インスピレーション、ひらめき、アイデアとか「生まれる」「湧く」と表現されるけど、ゼロから生まれているものではないと思うんです。

自分の頭の中・心の中にいくつもある体験や知識など、既存の要素が組み合わさったときに生まれるもの・感じるものが、直感やインスピレーション、ひらめき、アイデア=「自分だけの答え」なのではないかと。

自分の頭の中にあるから、しかも複数あるからこそ組み合わせることができて、生み出すことができる、感じることができるということです。
(ひとつしかなかったら、それは直感でも自分だけの答えでもなく、それは誰かのもの)


で、この自分の頭の中にある既存の要素こそが「教養」

ちなみに、「教養」と「知識」って違います。

教養とは、学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。

知っているだけでは「ただの知識」だし、やったことあるだけでは「ただの体験」だけど、

面白い・楽しいとか、美しい・恐ろしいとか、好き・嫌いとか、心が動いた知識・体験や、もっと知りたい!またやりたい!とか好奇心を掻き立てられた知識・体験が、「教養」「原体験」として頭の中・心の中に残るから

何らかのタイミングで、それらが組み合わさって「直感」「アイデア」として生み出されたり、トリガーになるものなのだと思います。

どんなタイミングで、何がどう組み合わさるか解からないから、既存の要素=選択肢はいっぱいあった方がいい。だから、こどもには広く教養を養う機会や、原体験のタネとなる体験・経験が大切なんです。


教養が、自分がどこにいるか・何者なのか教えてくれる。

宮崎駿さんの言葉を聴いて、なんか想い浮かべたのが、ポール・ゴーギャンのこの作品。

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?

死生観を描いたこの作品は、ゴーギャンの代表作。右端に描かれた赤ちゃんから、左端に描かれた死を見つめる老婆へと、人生を「詠む」ことができる絵なんです。(この絵を描いた後にゴーギャンは自殺未遂をしています)

我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?

これって、人生の永遠のテーマですよね、今も、何百年も、もしかしたら何千年も前から。私たちは、その自分だけの答えを見つけるために生きているのかもしれない。

この絵には「今」と「過去」「未来」が描かれていますが、つまり「過去」があるから「今ココ」を生きることができて、そしてまた「未来」を描くことができるということだと思うんです。


特にいまのような、どこに自分たちが行くんだろうと、自分で考えないとわからない時代が来たときに、歴史的なことに対する無知というのはいずれしっぺ返しがくる。

宮崎駿さんのこの言葉を、「過去」=歴史的なことに対して、無知であるということは、「我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」の答えを見い出せない。と解釈すると、

「教養」が「我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」の自分だけの答えを見出してくれるということ。


また、「我々は何者か?」を、宮崎駿さんの言葉に言い換えると「自分がどこにいるか?」

その自分だけの答えは、価値観・アイデンティティを確立することで見つけることができる。その価値観・アイデンティティを形成するのが、「感性」と「知性」であり、その感性と知性を育てるのが「教養」と「原体験」。私はそう思います。


「私」を木にたとえるなら、価値観・アイデンティティという幹がブレずに折れずに、枝葉を広げて実や花をつけるために、教養と原体験という根っこを地中に深く広く張るということなのです。

教養こそが、自分が何者か?を明確にして、自信をつけてくれるし、人間としての豊かさとなる。そして、どこに向かうのか?その自分だけの答えを見出す要素となる。

だから教養の大切さを、こども達に限らず、「何者か」を模索しているオトナ達にも、伝えていきたい。そして教養のひとつ、きっかけとして、西洋美術史を教えていきたいなって思っています。


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