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【Forget-it-not】第三十一話「大切な人を守り通すだけの力が欲しい」

 血の気が引いてゆく。

 後ろにいた瑠璃があわてた様子で鍵を開け、素足のままに庭に出たので、わたしもつづいて外へ出る。芝のチクチクとした葉と、冷たい砂の感触がやけに鮮明に感じられた。

 南南西の空を見あげると、青やかな満月がわたしたちを見さげていた。その不気味な佇まいに、肌がぞわりと粟立つのが分かった。

「これって、まずいんじゃ」
 わたしが言うと、瑠璃は苦虫を嚙みつぶしたような顔でうなずく。
「記憶を消されてしまう、二年前のように」
 心臓が跳ねあがる。

 なぜ? 今日はブルームーンではないはずなのに。
 わたしの全身は鉛のように重くなり、ひりひりと痺れるように手足が震えた。

「中に入ろう」
 瑠璃が立ち竦むわたしの手を引いて中に入り、鍵とカーテンを閉めた。砂で床に傷がつかないだろうか、とどうでもいいことに意識が向く。

「大丈夫、記憶はまだ消えていない。今できることをやろう」
 瑠璃は冷静に言った。
「そうだよね、うん」
 でも、なにをすれば?
「取り合えず、家族や友人に電話をして、あれが降っているかを聞いてほしい」
「分かった」

 わたしはまず、父に電話をした。父は二年前の粒子を見ているから、降っていれば分かるはずだ。父は一コール目に出て、あわてふためくわたしをなだめ、粒子は降っていないと手短に答えてくれた。

 次に雪乃さんに電話をする。彼女は酔っているのか、やたらとゆるやかな調子で降っていないと言った。

『あ、でもねぇ、なんか空からお花がふってきたよ? わすれろぐさってやつ?』
「いまどこにいるんですかっ?」
『コークワのコンビニのまえ。コンビニのまえのコークワ? どっちだけ――』
「なんでもいいんでそこにいてください!」

 わたしは夜勤中の父に頼みこんで、雪乃さんをむかえに行ってもらった。それから泉水に電話をかけて事態を説明すると、榛名の『ふってきたよ!』という声が聞こえた。

『とにかくアレに当たらなきゃいいんでしょ、バイクで逃げてみる』
「うん、気を付けてね。はぁ、でも……」
 わたしは室内に意識を向ける。粒子は外よりかは数がすくないものの、天井を通過して落ちてきている。こんなものから逃げられるのだろうか?
『人事を尽くして天命を待とうよ。お姉さんのこと、思い出してあげるんでしょ』
「うん、そうだね、うん」
『じゃあまた後で会おう』
「わかった」
 わたしはいったん電話を切った。

 泉水の言うとおりだ。諦めたらそこで終わり。でもどうすれば。遠回しな方法であるなら情報を残せるけど、でも、それだとけっきょく姉のことをまた忘れてしまう。

 瑠璃がタクシーを呼んだ旨を伝えてくる。五分ほどで来られるらしい。

「美春、あれを見て」
 瑠璃の指さしたほうを見ると、鞄や手帳のまわりに、手足の生えた、青いオタマジャクシのような生きものがうごめいていた。

「あの子たちが記憶の粒子や情報を運んでいるみたい」
 オタマジャクシは、わたしの鞄から指輪だけを抜き出して、持ち去ろうとしている。わたしは急いで駆けより、オタマジャクシを振りはらう。

「触れるじゃん」
 瑠璃は手帳にむらがっているのをはらっている。その瑠璃のあたまにオタマジャクシが着地し、彼女の体内に入っていった。

「瑠璃、オタマジャクシが」
 瑠璃はわたしを振りかえると息を飲む。
「美春も」
 わたしは瑠璃にまつわるオタマジャクシを地面にはたき落とし、自分についているのも落とす。すると、オタマジャクシは足元から這いあがろうとうねうねと動く。

「きもすぎ、なんなのホント」
 わたしが怒っていると、瑠璃がこう言った。

「美春、キスしよう」
「え?」
「キスをしよう」
「いや、聞こえてはいるけど」
 理由を説明してほしいと目で問うと、瑠璃は早口で語った。

「おそらくこの子たちは大きな記憶の粒子を運び切れない。だから図書館と美春の部屋のものは残っていた。なら、同じようにして記憶の粒子を残しておけばいい」
「それは、そうだけど……」

 それをしたとしても、やはりわたしたちはこれまでの思い出の大半を忘れてしまう。瑠璃と出会ったときの記憶も、二人であちこち出あるいた思い出も、雪乃さんのことも、語りあったあの日も、一生懸命にあたまを悩ませたことも――『私を忘れないで』――姉の想いがこだまする。涙で視界が滲んでゆく。

 こんなのはあんまりだ。自分たちの理想の世界のために、だれかの想いを犠牲にするなんて、そんなのは絶対に間違っている。奪うばかりでは、世界はやがて砂漠と化し、生けるものは死に絶え、なにも無くなるじゃないか。なにもない空っぽの世界に生きてなにが楽しいというの?

 でも、よわい人間の叫びなんて、この街ではかき消される。どうしようもない人たちの、空虚な大声だけがこの街では採用されるのだ。わたしは、強くならなければならない。能うかぎりの大声で叫ばなければならない。見ているだけではなにも変わらない。事をおこさなければなにも始まらないし、大切な人もだれひとり守れやしない。

 わたしは間ちがっていなかったのだ。ただ、自分を蔑ろにして、他人の願いを聞いてばかりだったのが良くなかっただけで。

 わたしが望むことは、ひとつしかない。目の前の愛する人を守りとおすだけの力が欲しい。愛と夢の消えた街で、それを貫けるだけの、そんな力が欲しい。

 そう願った瞬間、身体の底から燃えるような力が湧きあがり、血管が煮えたぎった。やがてその熱は右目に集まり、世界の裏側を垣間見せた。真っ暗な空間にたくさんの道があり、そのなかのひとつが青く光っている。わたしはその道を突きすすみ、正解を手ぐり寄せる――「美春、その目」――わたしは瑠璃の声で目を覚ます。

「……お姉ちゃんと一緒だね」

 わたしは右目で指輪の中をのぞき、神の使いに祈りをささげた。

『お願い、わたしたちを導いて』

 すると指輪はまばゆい光線をはなち、中から青い翼が出現した。舞いあがった羽根が蒼炎となってオタマジャクシを焼き祓う。

 指輪を窓に向かって投げつけると、それは青い鳥となって窓をすり抜け、飛んでゆく。

「瑠璃、行こ?」
 わたしは手帳とペン、スマホを鞄に詰めこみ、混乱している瑠璃の手をとって、寝間着のままに冬の街へと飛びだした。

 わたしたちのあいだを凍てつく風が吹きぬける。凍えて死んでしまいそうだけれど、でも、きっとこの街にも温もりはある。

 焼けるように冷たい錠前を開け、道路に出ると、ちょうど瑠璃の呼んだタクシーがやってきた。青い鳥の描いた道はまだ残っている。

 瑠璃を車内に押しこみ、つづけて乗車すると、瑠璃の専属運転手の伊勢さんがこう言った。

「どこへおいでで?」
「青い光の道って見えます?」
「ええ、綺麗ですねぇ」
「これをたどってほしいんですけど」
「了解しました」
 簡素な返事とともに、タクシーは出発した。オタマジャクシはなおもわたしたちにまとわりつく。

「紙にお姉の情報を書きこんで、窓から落とせば時間稼ぎになるよ」
 そう言いつつ紙に浅倉千夏と書きこむと、そこにオタマジャクシがむらがり、文字は徐々にかすんでゆく。

「やってみる」
 車はUターンをすると角を右折し、対面通行の道を行く。右左折を繰りかえして県道に出ると、信号は赤だった。しばらく待っても色の変わる気配はない。

「まだるっこしいですなぁ。ちょいと掴まっててください」
 と彼が言った瞬間、エンジンがけたたましい音を立て、車がいきおいよく半回転すると同時に、なにかにぶつかる音がした。

「何十年ぶりなんでね」
 と伊勢さんは高笑した。

 車は県道を引きかえして裏道に入り、信号のない道を猛スピードで駆けぬけてゆく。父から連絡が入り、本屋の駐車場で雪乃さんを拾ったこと、家の近所とスーパーの辺りで局所的に青い粒子が降っていることを聞いた。父に姉の存在を簡潔に話し、寝ている母を助けに行ってもらった。

 わたしは摩耶さんにも姉に関してのメッセージを送った。四の五の言ってられる場合ではないから、ネットにも情報を流そうとすると、スマホは急にブラックアウトした。スマホにまつわっていたオタマジャクシがパーツを抜きだしたようなので、逃げないように捕まえておく。

 光は車にスポットライトを当てるように追いかけてきた。けれど家にいたときよりも光量はすくない。父や摩耶さんのところへ分散しているのだろう。

 車は角に行きあたるたびに鋭くまがり、そのつど内臓がかき回され、わたしは吐き気をもよおす。県道に出るとまた赤信号が見えたが、そのてまえの細径に入って事なきを得る。

 街は静かだった。

 紙に情報を書いて外へほうると、肉に飛びつくピラニアのように、オタマジャクシが喰らいつく。その異様な光景に身ぶるいする。

 国道へ出た。また赤だった。今度は逃れられる道はない。やはり待っても信号は変わらない。

「ねえ伊勢さん、この信号たぶん変わんないと思う」
「ふむ、なるほどですね」
 彼は言外の意をくみとってくれた。

 車は赤信号を左折し、路地裏へ入り、小路を縦横無尽に駆けまわった。ブレーキ音が街の静寂を切りさく。光との距離は徐々に開いていった。鳥の航路からもおおきくは逸れていない。

 しばらく経って、わたしは予感を察知した。

 後ろを振りかえると、ビルの影から先刻の青い鳥があらわれた。その鳥のあとを追って、おおきな兎と蛙が走りこんでくる。その兎の背中には意外な人物が乗っていた。

「晴嵐さん?」
 そういえば、彼女の苗字は安倍だった。

 手を伸ばすと、青い鳥はバネのようなほそい渦に変形し、左手の人差し指にもどってきた。晴嵐さんは車に近づき、こちらに向かって無数の白い紙を投げつけると、オタマジャクシは竜巻に巻きあげられた砂のように霧消した。

 兎は助走をつけて飛びあがり、うしろの蛙が長い舌を車の下へもぐりこませる。それからおおきく口を開いて、車をまるごと飲みこんだ。

 ヘッドライトの光がかすかに視界を生みだすなか、瑠璃の困惑した顔が見えた。

「たぶん、これで大丈夫だと思う」
 瑠璃の手をにぎる。彼女はうなずいてにぎり返してくれた。と、身体の浮きあがるような感覚に見まわれる。

「迎えがきましたかね」
 伊勢さんが自嘲する。

 ジェットコースターのような浮遊感と、やわらかな衝撃とが代わる代わるにおとずれた末、つと視界が開け、目の前には元いた家があった。

 車は蛙の舌先からゆっくりと道路に降ろされた。車外に出ると、空は先ほどの騒がしさがウソのように眠っていた。白い月を見あげていると、どこからか夏の雲のようにあたたかい雪が降ってきて、わたしは目いっぱい手を伸ばしてそれを掴みとる。嬉し涙のような雫が、手のひらに潤いを与えてくれる。

 ひとりではなにもできないわたしだけど、たくさんの人を頼って力を合わせれば、大切な人を守ることができるのだ。それを忘れないようにしなければ。『お姉ちゃん、ありがとう』わたしは心のなかでそうつぶやくのだった。

 蛙にもお礼を言うと、その子はうなずくような仕草を見せて、どこかへ飛びさっていった。

 街に吹く風は相も変わらず冷たくて、わたしは「さむっ」身をふるわせながら自分の身体を抱きしめる。

「中に入ろう。伊勢さんは?」
「私は家に帰るとします。明日は警察に行かねばなりませんし」
「ほんとすみません、無茶言っちゃって。罰金とかは払うんで」
 とわたしがあたまを下げると彼は笑った。

「いいんですよ。昔を思い出して楽しかったですし、人生の最後に良い手土産ができました」
「まだ死なないでほしいかな」
「お姫様にそう言われれば頑張るしかありませんな」
 と彼は笑いながら車に乗りこみ、片手をあげると去っていった。それとほとんど行きちがいに巨大な蛙がふたたび舞いおりてきて、口から大型バイクと友人ふたりを吐きだした。

 後ろに乗っていた足のみじかい友人こと榛名が、「あ~!」とくぐもった声を出しながらこちらを指さし、難儀そうにバイクから降り、駆けよってきた。足の長い泉水はスタンドを下ろしてからエンジンを切り、爽やかにヘルメットを脱ぐと、悠々とバイクから降りて、ゆるやかな足どりでこちらに近づいてきた。視界が揺れる。あたまが痛い。

「うわあ、あなたがみはるんの彼女さんの?」
「え?」
「白雪さんだよね。こっちのちっちゃいのが榛名で私が泉水、よろしく」
「うん、よろしく」
「大変だったねぇ。まさかあんな――」

 三人の談笑が水のなかで聞こえる音のように鳴っている。息がうまく吸えなくなったわたしはその場に崩れおちた。

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