【Forget-it-not】第二十一話「月の民と月読」
駅のちかくの本屋で熊野地方の観光地や伝承について書かれた本を買い、電車とバスを乗りついで瑠璃の住まいに向かった。
瑠璃の住居は、沼沢市の外れの緑豊かな住宅街にあり、土地の四方は二メートル超の築地塀に覆われ、塀の上には有刺鉄線が張りめぐらされていた。塀の軒下には数台の防犯カメラも見られ、門扉のかたわらには置き配用の宅配ボックスがある。
「要塞じゃん」
表札には番地だけが記載されている。わたしはもう一度、瑠璃がおくってきた住所を確かめ、それからインターホンを押した。
『少し待ってて。今開けるから』
とインターホンから麗しい声が聞こえた。
暮れゆく空を(周囲を警戒しつつ)見ながら待っていると、頑強な木の扉の奥からガタガタと音が鳴り、貝から美しい真珠が出てくるように瑠璃があらわれた。
「いらっしゃい」
「うん、ごめんね、急に押しかけて」
瑠璃は首をふる。
「私も会いたかったから」
「そう?」
胸が高鳴るのを感じる。
「入って」
瑠璃は執事みたいにわたしをうながす。
「おじゃまします」
敷地内に足をふみいれると、正面に比較的あたらしい平屋が見えた。塀から玄関までは石畳が真っすぐにつづき、それが庭を二分している。庭はひろく、一面が芝におおわれ、塀のそばには若木が無数に秀でていた。
瑠璃は扉を閉めると、木製のおおきなかんぬきを挿し、それを鉄製の錠前で固定した。
「なんかすごいね」
瑠璃はしぶい顔をした。
「お祖父ちゃんが過保護で、私がここに引っ越すときに、塀を知らない間に増築したの」
「へぇ。でもいいじゃん、安心で」
「一寸大げさだと思う。まあ、良かった面もあるけど」
と瑠璃は玄関に歩きだし、わたしはうしろをついていく。わたしは心のなかで瑠璃の祖父に感謝した。
玄関には靴が一足と、瑠璃のいましがた脱いだサンダルが一足あるだけで、ほかに靴は見られない。靴箱にはスリッパを何足か入れているようで、瑠璃はそこからわたしの分を取りだしてくれた。
開放感のある玄関ホールにはなにも置かれておらず、部屋は左に二部屋、右に一部屋の計三部屋あるようだ。その右側の部屋に入る。
「一人暮らしだから、気兼ねなくくつろいでほしい」
「じゃあ遠慮なく」
わたしはダイニングテーブルの椅子に背筋を伸ばしてすわった。
瑠璃がキッチンで飲みものを用意しているあいだに部屋をながめるが、ダイニングテーブルと椅子三脚、ローテーブルと座布団のほかにはなにも置かれていなかった。いわゆるミニマリストなのだろうか。
瑠璃が椅子に腰かけたタイミングで、わたしは手帳を取りだした。日記を見られるのは気はずかしかったけれど、そんなことを言っている場合ではない。
瑠璃は日記を丁寧に読みこみ、最後の頁に辿り着くと、どうやら自分について書かれた箇所に思うことがあるようで、気むずかしい顔になった。
「二年前の美春の言う通り、私はかなり自分を誤魔化している節がある。それは私の過去に起因するのだけど、長い話になるから、少し話を整理しておきたい。また後でもいいかな?」
「もちろんだよ」
次いで栞についての自分なりの推察をのべた。
「なるほど」
瑠璃は瞳をわずかに揺らし、
「何にせよ、私たちのやることは変わらない。今まで通り、千夏さんを見つけ出せるように尽くすだけ。過去の美春のおかげで、やることは明確になったから、後は今の私たち次第だと思う」
と力強い眼ざしで言った。
「そうだよね」
瑠璃はうなずくと日記に目を落とし、八月十六日の頁をひらいた。
「美春は私と千夏さんの関係に憧れを持っていたんだよね」
「そうみたいだね」
とわたしは苦笑する。
「なら、私とそういう輪を作ればいいと思う。私は千夏さんのことも好きだけど、美春のことも好きだから」
「は――」
わたしの顔は急速に熱を帯びはじめた。
「それとも私ではダメ?」
と瑠璃は小首をかしげて不安そうな顔をする。
「それはずるいっていうか、いや、もちろんそうしてくれるとありがたいけど」
すると瑠璃は何事もなかったかのように微笑を作った。
「決まりだね。私には遠慮なく何でも言ってほしい」
「なんでも」
瑠璃はうなずく。
「それじゃあ、今度は私から。昨日今日と古事記を読んで思い付いたことを共有する」
「あ、うん」
わたしは余計な思考を断ちきり、瑠璃の話に耳をかたむけた。瑠璃が懇切丁寧に話してくれた内容はこのようなものだった。
まず、古事記の編纂は、稗田阿礼という人物が天武天皇の勅命により、誦みならった書物の内容を書き記す形でおこなわれたもので、その稗田阿礼は聡明で非常な言語能力を持ち、一度耳にしたことは決して忘れなかったそうだ。阿礼の生没年はあきらかでなく、性別は諸説あるとのこと。
阿礼の特徴は瑠璃に酷似している。もしもこの人物が瑠璃の先祖かなにかであるならば、彼(あるいは彼女)はあの月に向かう民の生き残りであったと考えられる。
古事記に登場する神様や人間は、驕慢で放埓な、勝手気ままに振る舞う者がおおいため、阿礼が天皇家になんらかの反感を持ちながら編纂にかかわり、古事記以前に存在した書物の内容そのままを述べず、個人の解釈を織りまぜ、あえて妙竹林な話にした可能性はありうる。
ではなぜ反感を持っていた権威に近づき、勅命を受けたのか? その理由は、地上にのこった月の民の子孫に、大切ななにかを伝えるためだったのではないか。
古事記は天地開闢から描かれる。はじめに天之御中主、高御産巣日、神産巣日の三神があらわれ、それから何体かの神が生まれたのちに、あの有名な伊邪那岐、伊邪那美の二神が登場する。
二神が天浮橋に立って、天沼矛で混沌とした海原をかき混ぜると、矛から滴りおちた塩から淤能碁呂島が形成され、彼らはその島で結婚をし、現代の淡路島、四国全域、隠岐諸島、九州の福岡、大分、佐賀、長崎に熊本、鹿児島、本州、そしてその周辺の島々を生んだ。
不思議なのは、のちに出てくる神武東征の出発地である、現宮崎県の日向付近は国生みの場面には記されていない。これは日向を唐国(=外国)とつたえようとして、あえて書かなかったのではないか、というのが瑠璃の考えだ。
伊邪那岐夫婦の活躍から、いわゆる神代の時代がはじまり、二神によってさまざまな神が生み落とされる。やがて伊邪那美は火の神を産んだ際に火傷を負い、それが要因となって死んでしまう。
亡き妻に逢いたくて仕方のない伊邪那岐は黄泉の国をおとない、伊邪那美に現世に帰ろうと言う。伊邪那美は黄泉の神と相談するから待っていてください、決してわたしのすがたを見てはいけません、といった旨をつたえ、黄泉の神と相談をはじめた。しかし伊邪那岐は約束をやぶって妻のすがたを見てしまう。彼の目にうつる彼女のすがたは、生前とはまるでちがう醜い容貌と化していて、約束をやぶった伊邪那岐に激怒した伊邪那美は、夫を醜女と黄泉の兵士に追わせ、彼らから命からがら逃げ切らんとする伊邪那岐を、最終的にはみずから追いまわした。
妻からどうにか逃げ切り、地上へ出た伊邪那岐は、黄泉と現世の境界部をおおきな岩で塞いだものの、向こう側から『あなたの国の人間を一日に千人殺す』と宣言された。それに対し伊邪那岐は『それなら私は一日に千五百人を産もう』と返した。
このやり取りのあった境界部を黄泉比良坂と云う。現島根県の伊賦夜坂が舞台地であるとされているが、さだかではない。
伊邪那岐は黄泉の穢れを落とすのに水に入り、禊をおこなった。その際、左目を洗うと天照が、右目を洗うと月読が、鼻を洗うと須佐之男が生まれた。この三神は|三貴子と呼ばれる姉弟神で、伊邪那岐は天照に高天原を治めるよう命じ、美須麻流之珠をさずけた。次いで月読には夜の食国、須佐之男には海原の統治を命じた。
三貴子のうち、天照は女性の神で、須佐之男は男性の神であるが、月読の性別の記載はなく、女性と男性のあいだであることから、無性別、または両性である可能性が示唆されている。また、天照と須佐之男の挿話は古事記に度々出てくるうえ、彼らを祀る神社も数おおくあるものの、月読の挿話はまったくなく、月読を信奉する神社の数もすくない。
これは偶然だろうか? わたしたちの記憶の件と、壁画に点綴された青い粒子を鑑みるに、あの壁画の左側に位置した人々が月読の子孫かなにかで、彼らは月へ向かうとともに現世の人々の記憶を消し、結果、月読の活躍も歴史の闇に消えてしまった。しかし真実の歴史は現世に残った月の民に密やかに伝えられ、それを知悉していた阿礼が、古事記に月読の存在を記述したのではないか。
ここまでが瑠璃の考察した内容だ(¹注)。
「うーん、むずかしいね」
とわたしは眉根をよせる。
古事記の存在自体は知っていたけれど、具体的な内容についてはなじみがない。せいぜい創作物のキャラクターのモチーフになっているのを見たことがあるくらいだった。
「そうだね、神代期の話は突飛で理解し難いものが多いと思う。ここからもう少し読み下していくと、居酒屋で話した国造りの話になる。あそこで言ったように、常世は熊野の海上にあり、少名毘古那がそこから常世へ帰ったという記述がある。おそらく志津の岩屋は、少名毘古那が帰る際に滞在した場所なんだろうね。
あとは、あの神社の名前は海坂神社だったでしょう? 海坂には、海神の国と人の国との境界という意味がある。一説によると、月読と須佐之男は同一の神であるとされる。海原の支配者である彼が月読と同一であるならば、海神の国=夜の食国と考えられ、又、月が月読の領域であるのなら、夜の食国はイコールで常世であるとも言えるはず」
「つまり、そういう世とか国の意味は全部一緒ってことだよね。なんかすごい難解だなぁ」
「阿礼があえて難解にしたんじゃないかな。事情を知った者にしか解けない暗号にすることで、知られたくない人間に知られないように工夫をしたとか」
「その対象があの神武の軍勢ってこと」
「うん。ただ、神武の、ではないかもしれない」
「というと?」
「彼はただの象徴でしかないのだと思う、今の天皇家みたいに。天皇家は天照の子孫だから、当然古代の日本に住んでいた、大和民族の系譜に属する。それでは日向を国生みの際に外したことが説明できない。合理的に考えれば、国外の勢力が入ってきて、神武天皇を唆した結果、東征が起こったと考えるのが妥当かな」
「なるほどねぇ」
「それと神武天皇の首飾りは、三種の神器の一つである、八尺瓊勾玉だと思う。瓊には、赤い玉という意味があるらしい。おそらくは伊邪那岐が天照に渡したとされる美須麻流之珠と同じもので、美春の指輪もまた、それに類するものであると考えられるかな」
「あれってそんなすごいアイテムなの? あぁでも、洞窟のアレを考えれば納得かも」
「治めるという意味を持つ御に統べると書いて御統と読む表記もあるらしいから、美春がこの世界の神になることもできるかもしれない」
「わたしが神? ちょっと遠慮したいかなぁ」
とわたしは指輪の入った鞄を見つめて苦笑する。
「まあなんにせよ、お姉ちゃんを見つけるには、常世に行く方法を見つけないとだよね」
「うん、その鍵を渡世家が握っているんじゃないかな」
「そうなるよねぇ」
けっきょくやることは同じなのだった。
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