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小説はなぜ売れなくなったのか?を出版社の戦略から分析してみる

出版不況と云われて早数十年が経った今日この頃。作家を目指す私たち、あるいは小説が好きでたまらない人たちにとっては死活問題ですよね。

今回の記事では小説はなぜ売れなくなったのかを出版社の振る舞いから考察していきたいと思います。

出版不況ってホントなの?

そもそもの話、本が売れなくなったのは〝本〟当なのかを検討していかなければなりません。

出版科学研究所によると、

https://shuppankagaku.com/statistics/japan/


https://shuppankagaku.com/statistics/japan/

出版物全体の売り上げは25年前と比較すれば減っていますが、10年前と比べれば横ばいと言っていい状況にありますよね。

小説は書籍に入ります。書籍の2014→2022の売り上げの推移は、紙4%減に対し電子1.6%増、計・2.4%減となっています。一見すると微減しているように見えますが、電子書籍は一冊あたりの単価が安いので一概に売れなくなったとは言えません。むしろかなり健闘していると言っていいでしょう。

とはいっても……

ただ、上記のデータが指し示しているのは、書籍の売り上げ〝全体〟を見たときの話にすぎません。個人単位で見たときのことは何も語っていないのです。たとえばですが、99人の人間は1年間1冊も本を買っていないが、1人の化け物が100億万冊の本を買いました。このときの全体の本の購入数は100人で100億万冊、一人当たりの一年間の購入数は平均1億万冊です、と言うこともできるのです。

そして書籍全体の売り上げが変わっていないからといって、内実が変わっていないとは言えません。極端に言えば、昔は1人の作家が1冊10万部を売っていたのが、いまは5人の作家が合計10万部を売っている可能性もある、ということです。ネット上で『新人賞をとったときに担当編集に仕事はやめないでと言われた』『専業で食べられる人はほとんどいない』という書き込みが複数あることからもあながち間違いではないと言えましょう。

つまり、個人単位で見ると小説は売れなくなっている。それに対して出版社は作家の数を増やすことで対処しているというわけです。

この仮定が正しいのだとすれば、新人賞でリーダビリティが重要視される理由が見えてきます。出版社からすれば、読破に10時間かかる本を1冊売るよりも、2時間で読める本を5冊売ったほうがいいのです。少なくとも商業的な観点で言えば合理的な判断でしょう。

じゃあなんで売れなくなったの?

小説が売れなくなった最たる要因は他の娯楽の台頭にあると思われます。いまの時代は本当に色々な娯楽がありますよね。漫画、アニメ、ゲーム、SNS、動画サイト等々、なんでもござれのラインナップです。そのなかで小説は最も取っつきにくい娯楽なのではないでしょうか。なぜなら小説は五感をフルに活用して読まなければならないからです。漫画なら少なくとも視覚情報は自動的に入ってきますし、音も分かりやすい効果音で表現されています。

一時期なろう界隈でキンキンキンキンといった戦闘描写がバカにされていましたが、こういった表現は読者の読む負担を軽減するという観点で見れば非常に効果的なんですよね。実際に書籍のなかで、なろう小説は一番売れていると言っても過言ではありません。もしかすると作家志望の我々は、商業的に売れたいのであれば、表現をもっとやさしくする必要があるのかもしれません。

小説家はみずからの個性を捨ててしまった説

とはいえ、なろう小説が小説の王であるか、と言えばそうではないように思えます。なろう系はどちらかと言うと漫画にちかい趣がありますし、一般文芸でキンキンキンをやるのはかなり勇気が要ります。

私は、小説が売れなくなった要因のなかでもっとも重要なのは、小説が個性を捨ててしまったからなのではないかと思います。個性を捨ててしまったがゆえに、純粋な小説のファンだった読者が離れて売れなくなった。ではその個性とは何なのでしょう?

漫画と映像の下請け的な戦略

今現在、編集部の玉座に座する方々は、数十年前の出版バブルを知る者であると予想されます。彼らはかつてのウハウハな業界の幻想をいまだ忘れられず、あのころの栄光をもう一度、と願っていることでしょう。商業的な観点から見ても、より稼げる戦力を取ることは合理的であります。専業では食えないなどという文句が出回れば、来るはずだった才能にそっぽを向かれてしまうかもしれない。そうなれば業界はジリ貧になっていきます。

そこで彼らの取った戦略はメディアミックスを前提とした選考方法なのではないでしょうか。特になろう系やラノベはコミカライズやアニメ化がほとんど前提となっていますし、現になろうアニメは隆盛を極めている。一般文芸であっても宣伝の際に撮ったドラマを投稿している賞もあります。小説一本で売り上げが賄えないのであれば、漫画や映像を使用する。実に合理的な判断でありましょう。

となれば、新人賞を授賞させる作品や既存の作家に書いてもらいたい作品は、メディアミックス化のしやすい「行動的」で「映像的」なものになります。ここに比較的低予算で製作可能な「現代ドラマ」という軸が加われば完璧です。

しかし、これこそが小説が売れなくなった原因そのものなのではないか、と私は思うのです。小説はその特質上、行動や映像において漫画や映画には勝てません。絵や動画から入る直接的な視覚情報に勝る文章など誰が書けましょう? 日本文学史上最高の文学者である三島由紀夫はこのような文章を残しています。

心理描写が文学の特技であるとしますと、行動描写は文学の特技とは申せません。映画が現れて人間の行動を描くのに最も便利な媒体が完成しました。昔、叙事詩時代には、文学は行動を描きましたが、その行動が詩の韻律や装飾的表現や類型的な技法によって飾られて、行動全体の大きな絵巻物を描くことはできたが、行動というものの内的な本質には迫ろうとしませんでした。しかしこれが結局、文学というものの、行動に対するおのれの限界をわきまえた振舞だったのであります。

文章読本 P.166

文豪オブザ文豪の彼でさえもがこう言っているのです。彼の言う通り、文学の最たる個性は心理描写――もう少し本質に差しせまると、認識描写なのです。

認識描写には大きく分けて三種類あります(と私は思っています)。すなわち「感じた」「思った」「考えた」の三つ。このうち前者二種類に関しては、行動で表現することができます。一方、後者の「考えた」に関してはどうあがいても行動によって表現することは叶いません。たとえばですが、あなたがいきなり不良に殴られたとして、まずは「痛いと感じ」次に「どうして殴るの? と思う」それから「この不良はなぜ自分を殴ったのかを思考する」この場面を文章に起こせばこうなります。

不良に殴られた僕はうずくまり、両手で腹をおさえた。胃からせり上がる内容物を飲み込み、彼を睨みつける。ぼやけた視界に映る彼は嘲笑の目を僕に向けていた。

うずくなって腹をおさえれば『あ、この人は痛いって感じてるんだな』と読者は推し量れます。彼を睨みつけ、視界がぼやけているのなら『この人は怒ってなんだこいつって思ってるんだな』と推量可能です。

さて、ここから「なぜ不良は僕を殴ったのか」を行動で描写するにはどうすればいいでしょう? キャラクターに逆立ちをさせるか、不良に小便を引っかけるか、あるいは殴り返すか……何はともあれ、そこで描かれるのはあくまでも思考の結果であって思考の過程ではないのです。

私の言いたいのは、小説の個性とは認識描写のなかでもとくに思考を描くことにあるということです。漫画や映画で思考を描くのは難行苦行だと思われます。なぜなら開始早々、主人公が部屋の椅子に座ってうだうだと『美とは何だ愛とはどうだ』と語っても物語は前に進みませんから。早く外へ出ろやって話ですよね。これが小説であるならば、ページがどんどん進んで行くから無問題なのです。

小説が映像化された場合、原作ファンはより洗練された行動を描く映像を見に行くでしょう。しかし映像から入ったファンはわざわざ劣化した行動を見に行こうなどとは思いません。現役の作家もこう言っています。

この記事内では「映像化の商業的な成功の有無」という観点で書かれていますが、おそらく本質の部分にあるのは『別に小説読む意味なくね?』なのではないでしょうか。普通に映画を見ればいいじゃんって話なのです。

これがもしも認識を書いた小説を映像化したものであったら……好きなキャラクターの行動だけでは満足できないファンが、小説を購入して読んでくれることは想像にかたくないですよね。

まとめると、小説が売れない理由はみずからの個性を排して別な業界の下請けになってしまい、それによってコアな読者が離れてしまったから。彼らを再び呼び戻すには認識的な小説を出版する必要がある。もしも現行の新人賞を受賞したいのなら、行動的かつ映像的な描写を多めに設定すると好い。

わりと筋は通ってると思うんですよねぇ。

おわりに

正直、私個人からすればこのような記事を書くメリットはどこにもありません。情報を一人で占有し、新人賞に適合する作品をせこせこと書いていれば受賞する確率が高くなりますからね。あとは選考者の方にこの記事を見られて『けしからあぁん!!』などと思われればアウトですし笑

ただ、私は一作品目でこのような文章を書いています。

 わたしは周りのことを考えているようで、けっきょく自分のことしか考えていなかった。そんな我欲を貪るような生きかたでは、享楽なんて得られるはずがない。

また最後にこういった文章を書きました。

 人を愛すること、夢を見ること、幸せになること、それはとても難しい。この街ではすべてが綺麗事として片づけられ、やがて欲望にすり変えられるから。そうして人は愛をもてあそび、夢を失って、だれかを憎み、なにかを踏みにじる。
 わたしたちは強くあらねばならない。欲望に負けないように、人を許せるように、諦めないように生きなければいけない。
 それはやはり難しい。
 けれど、そう思う人がひとり、またひとりと増えていけば、きっといつの日か、空にはおおきな雲ができ、雨が降り、あとには美しい森ができるだろう。
 そこではみんなが手を取りあい、励ましあい、愛しあうのだ。
 小鳥のさえずりが聞こえる。草花の脈動を感じる。新鮮な空気を身体いっぱいに取りこんだ子どもたちが、蝶や蜜蜂が舞い、兎と蛙の跳ねる森を駆けていく。愛らしい笑い声がとよめき、それを大人たちが見まもっている。となりに愛する人たちがいて、今日も頑ばろうと思える。
 わたしはいま、そんな夢を見ている。
 そしてこれからも見つづけるだろう。
 この街に温かい風が吹くその日まで。

なんのこっちゃ分からないかもしれませんが、要約すれば「自分のことばかり考えてないでちゃんと周りの人たちのためを想って生きようね」といったところです。

私が思うこの世で最も崇高な作品は、自分を悪の道から遠ざけ、苦しみから救ってくれるものなんですよね。そして自分を真に救う作品は、時にだれかの心をも救うのだと信じています。

新人賞を受賞してお金持ちになるぜぇ! ちやほやされたい! そう思うのは間違いではありません。実際にお金や地位があれば、たくさんの人を救い、自分の言葉を届けることができるからです。

ただ、それはあくまでも結果的に得るものであって、過程のなかで求めるものではないと思うのです。私はいま、過程のなかにいる。私と同じように過程のなかで迷い苦しむ人たちがいる。私はそういった人たちのために言葉を紡ぎたいと思うんです。綺麗事を言っているように思えるかもしれませんが、幸せになるにはそれしかないと私は固く信じています。

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