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大衆文芸の新人賞が求める才能

6月14日に公開されたメフィスト賞2024年上半期座談会にて、我が傑作(少なくとも私はそう思っている)「Forget-it-not」が落選しました。端にも棒にも引っかからないという有り様で、正直めちゃめちゃ落ち込んでいます。

私は次のステップに進むため、丸一日「自分は何故落ちたのか?」をメフィスト賞を参考に考えていました。この記事では、私が考察した内容を共有したいと思います。

新人賞が求める才能の特徴1.キャッチーな掴み

これまでメフィスト賞を受賞した作品群を見ると

「死んだ男子高校生がスピーカーに転生した&おちんちん体操第二」「ゴリラが人間を訴訟する」「水墨画が題材になっている」「押すメリットのないスイッチを押すの? 押さないの?」「アイドルが血を吐いて倒れちゃった!?」

といった風に、読者が何それ? と興味を引くような(まさしく読者の心を捕まえる)キャッチフレーズを持つ作品が多いことが分かります。座談会止まりの作品群には、このキャッチーさがないように思えないでしょうか。

書店にやってきたお客様に読んでもらうには、内容以前に表紙や帯の文言が良くなければなりません。海で餌を付けずに釣竿を垂らしているおじさんがいたら『いやいや、そんなの釣れるわけないじゃん(笑)』と思うように、読者に手を取ってもらうには美味しそうな餌が必要なのでしょう。

2.リーダビリティ

メフィスト賞受賞作を読んで驚くのは、その圧倒的な読みやすさ。どの作品も自分勝手な自称・文学的な技巧とやらはこらさず、ひたすらに読者に気持ち良く読んでもらうことを意識されて書かれていることが分かるでしょう。当たり前の話、読者はこの物価高の世の中で身銭を切って本を買ってくれます。そして貴重な時間を割いて読んでくれる、本を読まなければ別なことができたにも関わらず、です。

読書は数ある娯楽のなかでも負担の大きい営みであります。絵や音のような五感に自動で入ってくるものではなく、自発的に読み進め、この場面で作者はどういう映像を思い浮かべ、どういった音を聞いているのだろうと考えなければならないからです。

そのような状況でよく分からん比喩表現や難読漢字を多用されれば、読者は混乱に陥ります。「あ~この本ぜんぜんわかんねぇよ~」と読むのをやめてしまうことでしょう。読者からすれば、我々新人はどうでもいい一般人にすぎません。彼らが我々に付き合う義理などないんですよね、辛いことに。

3.どんでん返し、またはカタルシス

皆さんも知ってのとおり、ミステリー系統の賞はラストに思いもよらぬ結末を持ってくることが多いです。読者はつねに犯人は誰だろう? どういう結末になるだろうと予測をしながら読み進めます。予想は時たま当たれば気持ちのいいものですが、毎回思ったとおりの展開だと「またこのパターンかよ~つまんねぇの~」となり、ミステリー系の本を買わなくなってしまいかねません。

また、予想外の最後におどろかされた読者は、その衝撃を〝共有したい〟欲求に駆られ、SNSやレビューを投稿してくれる可能性が高まります。だからこそどんでん返しは多用される。これが青春小説などでは〝主人公の抱えていた問題が解決すること〟で同じ効果を演出できるのでしょうね。

4.主題は一つにしよう

複雑な主題の糸が幾重にも折り重なるような小説は求められていないように思えます。なにせメフィスト賞の選考は部長+編集者6人の計・7名で行われるそうで、仮に700作品来ていれば、1人あたり100作品、しかもほとんどが締め切りの直前2か月のあいだに送られてくる。他の仕事をしながら三か月でそれだけの作品を読み通すには速読をする他はないでしょう。

となれば、極度に鋭敏な感覚で、あまりにも繊細な詩をふくみ、途方もない細部の追求の行われている作品は(つまり文学的な作品は)良さを汲み取ってもらえないと考えたほうがいい、と言えましょう。ここでリーダビリティの重要性が見えてきます。多忙の編集者が気持ち良く読める作品は同時に、忙しい読者の読みやすい作品でもある。読みやすさを追求した作品が上に上がりやすいのは必然なんですねぇ。

とはいえ、いくら読みやすくても主題が無ければお話になりません。よほど素晴らしいキャラクターかストーリーがあれば別でしょうが、我々素人がそうやすやすと創作可能な代物ではありません。文豪クラスでも『この登場人物すっげぇ!』と思える人物を書けているか、『このストーリーおもしれぇ!』と感じられるストーリーが描けているか、と問えば『うーんどうだろうね』と私は思います。

小説の基本は縦軸と横軸を配置するというものです。そこそこのストーリーを読んで「はぁおもしろかったぁ」では読者個人の感想に留まり、周りの人と共有したいとは思わない。大切なのは、読者にこの小説はなにを伝えたかったのかを考えさせ、議論を生み出すこと。多数の人を巻き込むこと。その手段として最も手っ取り早いのが主題を物語の背後に配置しておくことなのでしょう。

私個人の感想としては、縦横に加えて奥行きも欲しいところなのですが、それだと情報量が多すぎるのかもしれませんね。

まとめ

今回の考察はおそらく、大衆文芸一般に通じる考えだと思います。新人賞が求める才能とは即ち、帯やタイトルがキャッチーであること、すらすら読める文章であること、最後に読者の心を揺さぶること、何かしらの主題があること。

当たり前の話のように思われるかもしれませんが、案外できている人は少ないのではないでしょうか。少なくとも私はできていませんでした笑
いや、〝私の〟書きたい作品はコレコレコウイウモノでぇ…………。

そんなわけで私なりの賞の求める才能とは何か? でした。平易な文章って怖いですね。ともするとつたなさに繋がってしまいかねない。

とまれ今回落選して分かったのは、ボロクソにけなされても反応がもらえる人は恵まれているということです。最も辛いのは、何の反応もなく宙ぶらりんなまま放置されること。そして作家志望者の大半はその領域に孤独に存在している。私の考えが正しいかどうかは分かりませんが、独りで悩む誰かのお役に立てれば幸いです。あなたと同じく絶望に打ちひしがられている人はたくさんいます。それを忘れないで……!!

追記(6月16日)

なんか書き忘れてる気がする……と思ってたことを思い出したので書いておきます。

即戦力か今まで見たことのない才能か

メフィスト賞のホームページには〝即戦力〟〝今まで見たことのない才能〟という文言が書かれているかと思いますが、ではより大切な要素はどちらか。

結論から言うと、即戦力であることが重要です。野球でたとえるなら160kmの剛速球を投げられる高卒投手よりも、150kmそこそこだけどゲームメイクの上手い大社卒、といったところでしょうか。出版不況と言われる昨今において、文芸関連の編集部には新人を長期にわたって育成する余裕はないのでしょう。漫画業界は小学館のチャンネルを見るに、数年単位で面倒を見てくれます。余裕があるからできることなのか、それができたから余裕が生まれたのか……小説界隈に大型の新人が出てこない理由のひとつがここに隠されていそうですね。

また、上記のキャッチーな掴み云々の文言によって、今まで見たことのない才能とは何かについても見えてきました。即ち「二刀流ができたり160kmの剛球を投げられる人」より「ナックルボールを投げられる人」が求められているのです。大衆小説の新人賞ではジョイスやナボコフ、あるいは三島のような途方もない才能は全く求められていません。たしかに彼らの作品はある視点から見れば面白いものですが、少なくともエンターテイメントではないですからね。出版社はアイデアを求めているのであって、ひらめきを求めているのではない、ということを肝に銘じておかなければなりません。

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