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初恋 第5話

 砂煙を上げながら、ひたすらバスは走った。旅行客達は手持ち無沙汰な感じで、退屈しのぎに、自己紹介をし合った。恋人の二人はクレジオとアメリでフランス人の学生だった。彼らも夏休みだった。四人組は、僕たちと同じアメリカ人で若い夫婦がハリスとナンシー、ナンシーの両親がダレンとタバサだった。大人たちは話しながらお互いの共通点を探そうと苦心していたが、後頭部の瘤の痛みに苦しんでいた僕にはどうでもいい話だった。

頭の傷が少し癒えた頃、バスは目的地のマサイ・マラ国立保護区に入り込んでいた。見渡す限りの草原があった。こんなに広い景色を僕は今まで見たことがなかった。僕が住んでいる街は田舎だけど、それでもこんな感じじゃない。ここは寂しい雰囲気というより、常にある種の緊張感が漂っていた。大地から声なき声が響いている感覚があった。

 突然ジョンがバスの前方の左手を指さしたと思うとバスのスピードを上げた。誘われるままみんなはそちらを見た。
「あそこ、ほら、ヌーの子供」
 それは草と戯れているように見えた。ポツンと一匹。まだ太陽の黒点みたいに小さかったけれど、微かに動く輪郭でそれと知れた。ジョンはできるだけ近づこうとハンドルを操作した。

「まあ、可愛い!」
 アメリがスマートフォンを構えながら呟いた。すると、今度はメアリーがヌーの左手を指さして叫んだ。
「あそこに、チーターいる」

 みんなは一斉にそちらを見てあっと声を上げた。チーターが駆けていた。早い。それは走っていると言うより飛んでいるようだった。その目指す先にはヌーの子供がいた。ヌーは黒くて緑の草原の中だとどこからでも見える。多分、群れからはぐれてうろうろしていたのをチーターに見つかったのだ。ヌーはまだ自分の身に危険が迫っているのに気づいていなかった。

「危ない、早く逃げて!」
 思わず僕は叫んでいた。僕の声が届いたかどうかは分からない。だが、ヌーはハッと頭を上げると一目散に走り出した。バス中の全ての視線が文字通りのデッドヒートに釘付けになる、

「ゴーゴー、急いで、もっと早く!」
 僕は手を握りしめながら祈った。チーターは本気で飛んでいた。走り幅跳びと棒高跳びのオリンピック選手顔負けの跳躍力で一気に距離を詰めた。あと一息でその前足の爪がヌーの背中に刺さる……と思った瞬間、チーターは横飛びに空中に跳ね上げられていた。虚しく両足が何かを掴もうと動く、しかしそれはならずに彼は放物線を描いて地面に叩きつけられていた。だが、地面と衝突する瞬間、本能的に身体を丸め体勢を立て直したから、衝撃は彼に致命的なダメージを与えなかった。チーターは立ち上がると、正面に現れた黒い塊と対峙した。

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