見出し画像

初恋 第6話

 それはヌーの子供の母親だった。彼女はどっしりとして、短いが鋭く曲がった二本の角をチーターに向けて構えていた。彼女の後方にはさっきのヌーの子供が恐々隠れるようにして後足に重心を乗せたような姿勢でいた。

僕たちと彼らの距離は、まだ、三、四十メートルくらいはあった。みんなは一言も喋らずにじっとこの光景を凝視していた。果たしてチーターはヌーの子を仕留めることができるのか? それとも母親はチーターを追い払うことができるのか? 

チーターはヌーの親子の周りを、弧を描くように動きつつ、距離を詰めた。ヌーの母親は視線を逸らさずにそれに合わせて動いた。常に武器の角をチーターの正面に向けつつ向きを変えた。子供もそれに倣って動いた。チーターは吠えた。ヌーの母親も声を上げた。それが数回続いた。チーターは簡単に狩りを終えることができないとは感じていただろう。でも、隙さえ有れば、子供をかっさらいたいと思っているに違いなかった。

この時、ジョンは、僕達と違う方向を見ていた。遥か遠くのそこには黒い塊が見えた。それは線の様に広がると陽炎みたいにゆらゆら揺れながら徐々に近づいてきた。それは嵐の前の黒雲のようで、次第に地響きが聞こえ始めると同時に砂埃が立ち始めた。木々で休んでいた鳥達が次々と飛び立った。

「オーマイガッシュ! 危険です」
 メアリーが叫ぶと、ジョンはいきなり車のエンジンをかけた。バスは急発進してバックしたから、僕はまた頭をどこかにぶつけそうになった。モバイルフォンを落としたクレジオは、誤ってそれを足で踏んづけて画面がひび割れた。しかしバスはギアをトップまで一気に上げると車体を軋らせながらその場所から全速力で逃れた。

一分も経ってなかったろう。いや、数十秒かも! とにかくほんの僅かの差でバスは黒い洪水に飲まれるところだった。すぐ近くをそれは濁流のように荒れ狂って抜けていった。特急列車が同時に何十本も通過するような風圧でバスの窓ガラスがビンビンなったから、僕も両親もずっと目を閉じていた。

バスは安全なところまで逃れたが、まだ余震のような揺れが有った
「ヌーの群れの大移動です」
 メアリーが話し始めた。
「今回は一万頭以上いたと思います」
 去って行く獣の波を見送りながら、ハリスが
「チーターはどうなっちゃったのかな?」
 とが呟くと、
「さあ、きっとすぐ逃げたでしょう」
 と、ジョンが笑いながら答えた。
「それに彼は腹を——」
 こちらからは見えなかったが、彼が脇腹を左手で押さえていたのがわかった。
「ヌーに切られたから」
 そうか。最後に見たチーターの動きは、ピントが少しぶれている写真の様だったと僕は一人で納得した。
 夕暮れが近づいてきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?