見出し画像

初恋 第28(最終)話

 父の専門は遺伝子工学だったが、僕も同じ分野で活動している。そんな僕が、時々体育館に行くのは、お目当ての子がいるから。彼女はバスケットが堪能で、プロのチームから声がかかっている。何しろジャンプが人間離れしているのだ。体の柔軟性も俊敏さもずば抜けている。僕はいつもその子を一番上の席から観察している。赤い髪でそばかす。もう、お分かりだろうか。

彼女の名はラメラ——じゃない。高校生活での多くの人との出会いは、僕を彼女からいつの間にか遠ざけた。ラメラが、ピーターと別れたことは知っていた。しかし彼女は、今の僕の憧れの対象ではない。〈初恋は成就しにくい〉ものらしい。恋に恋しちゃうから、あるいは二人ともあるいはどちらかがまだ恋にはウブだから。多くの人はそう信じ、そういう経験をしてきた。

僕は……僕の初恋はまだ続いていると信じている。僕は、一人の女性に初めて恋をするのを〈初恋〉とは思っていない。僕の初恋はもっと雄大だ。それは僕の人生に対してである。女性はその一部の構成要素でしかない。

命について、生について、僕はあの、アフリカ旅行で本当に考えさせられた。そして悟った。草原を巡る雲と太陽の影、風の記憶、色と形の風土記、生命の鼓動、時の誕生、命の躍動、瞬間の収縮と破裂、全ての生き物の生と死の価値こそ、今の僕が憧れ、恋し、求める対象だと! 

生まれたばかりのヌーがライオンに命を取られたあの時、僕は命の尊さと荘厳さとその計り知れない軽さと重さを同時に感じた。現れては消える無限の重さを持つ太陽の黒点のように。

僕自身は人間の頭脳と人間以外の動物の感覚、両方の世界をこれからどう歩むのか楽しみにしている。全ては主観的であり客観的だ。

僕はまだ彼女にアプローチしていない。悩んでいるから。(恋についてではない。異性への恋の成否は、もう僕の中で定理となっている。こっそり教えるけど、恋とは〈謎〉である。謎は解明されない方が良い。もう一つ、恋を続ける道はある。それは一緒に笑えるユーモアを持ち合わせているかどうか。)

僕は父の人生を知ってしまった。父は彼の生き様の半分しか僕と母に見せていなかった。僕達は、光らない、父の月の裏側を最後まで知ることはなかった。彼はそうしなければならなかった。僕達の生活を守るために。僕も彼と同じ運命を辿るのだろうか? 

確か、誰かが言っていた、運命に抵抗できるのは人間だけだと。この席から一声高い周波数で彼女の名前を呼べば彼女の正体が知れる。僕と同じか? それとも否か? でも止そう。同種類の人間が近くにいたら、僕の立場はややこしくなるから。それに、彼女だって勝負の瞬間に誰かに邪魔されるのは嫌だろうし。

 最近、学会に呼ばれることが多くなった。僕達の研究が脚光を浴びつつあるのだ。僕は飛行機の座席はいつも景色のよく見える、翼から離れた窓側にしてもらっている。期待しているのだ。ひょっとして窓の景色の中に、アフリカ旅行で見たあの猫が覗いていないか。

僕はそれを、父の本性が映し出されたのだとばかり思っていた。しかし、そうじゃないと今は思う。だから、もし、現れたら、その時には聞いてみたい。
「ねえ、君はなぜラストを好きになったの?」

追伸
 昨年、パリのリュクサンブール公園を散歩した時のこと。春の日差しが斜めに僕を捉えて、心地良かった。樹葉の隙間から声が降りてきた。僕はその声が大好きだった。キビタキのほっそりした高音は、いつまでも印象的なミツコのトップノートのようだ。それは僕にしか聞こえない声で囁いた。

「ジェッド! お久しぶり。アフリカ旅行以来ね。覚えてる? ア・メ・リよ。ねえ、私と付き合わない?」
 僕は肩をすくめた、
「今なら考えてもいいよ。でも、将来はちょっと……」
                             (完)

**最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?