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▽R05-07-17 君たちは生きなければならない

「君たちはどう生きるか」を観てきたので感想などを書きます。
 内容に踏み込んでいるのでネタバレが嫌な人はご注意ください。


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▽この動画(オモコロウォッチの最新回)でネタバレ感想を聴いた上で観た。
 「全く前情報無しでジブリ映画を見れる機会なんてこの先訪れないから、絶対そうしたほうがいい」みたいな言説も頻繁に耳にするが、全くの未知で映画を観に行く勇気がぼくにはなかった。本当に前情報ゼロだったら多分観に行ってなかったので許してくれ。


 感想としては、うん、満足! って感じ。

 諸々の考察は置いておいて、まず何よりも映像表現としての圧倒的なクオリティに一旦圧し潰される。
 緊迫したシーンでの息を呑む躍動感、静かなシーンでの水彩画のような美しさ、食べ物の瑞々しさ、人間や動物の生々しさ。最近は市井のアニメ作品にも目を見張るクオリティのものが沢山あるけれど、やっぱりスタジオジブリは別格に凄いなと改めて思わされた。

 既に言われ倒していることではあるが、この映画はこれまでのジブリ映画で出てきた、「いわゆるジブリ的」な表現が非常に多く出てくる。登場人物の属性パターンから台詞回し、細かな描画に至るまでだ。総決算というか全部乗せというか、よく言えば親近感、悪く言ってしまえば既視感のある描写に溢れていたように思う。
 ただ、これは宮崎駿がこれまでのジブリ作品を追ってきたファン向けに特別にサービスした、みたいなことではなく、単純に「自分が快いと思う表現を自重しなかった」ことの結果なんじゃないかという印象だ。


 物語については、これもジブリ的といえばジブリ的なのだが、まあ難解だった。

 難解……というのも違うのかな。一番大枠の「あらすじ」はとてもシンプルなんだけど、一段降りて個別の表現の意図を探ろうとすると途端に迷宮入りしてしまうというか。

 上に貼った動画では、ざっくりと「この作品には宮崎駿自身の人生が投影されている」という内容が語られていたので、必然的にその解釈を補助線にして映画を鑑賞することになった。
 とはいえ自分としては初見であることに違いはない。そこで、一旦はそういった解釈を排した上で、「外側」の文脈を抜きにしてこの物語を解釈しようとしてみた。

 自分の読解力では無理だった。
 「母を亡くしてマザーコンプレックスに陥った主人公が、再婚後の新しい母を母と認められるようになるまでの物語」という、ごく表層的なストーリーラインは理解できるのだが、塔の世界で行われた種々の出来事に対して有効な解釈を加えることはできなかった。

 塔の世界における「墓」や「塔に巣食うインコ」、「若いころの母親」、「悪意に染まった石」、「幻想的な世界に閉じこもった大叔父」、「インコの大王」。ほとんどのモチーフは、【これは宮崎駿というアニメ監督の人生を綴ったものである】という定規をかざして見ることで、(もちろん幾多もの分岐があるものの)一応の解釈をみることができる。

 そういった定規を抜きにして見たとき、果たして塔の世界を構成するあれこれに、理解に堪えうる意味が存在するのだろうか。あるいは「理解不能であることがその意味」だとでもいうのか? まるでアリスが落ち入った不思議の国のように。
 ……分からないけれど、「ある一つの明確な答え」に全ての視聴者が辿り着くことを期待して宮崎駿がこの作品を発表したのではないであろうことは、素人たるぼくの目にも明らかであるように思う。

 もしネタバレ感想を聞かず、全くのニュートラルでこれを観に行ったとしたら、ぼくはこの作品をどう評したのだろうか。恐らく全く違った味になっていた気がする。
 そういう意味では惜しいことをした気もするが、特に後悔はない。「どちらがより楽しめたか」という観点でいえば、いかんとも甲乙つけがたい気がするからだ。


 そんなこんなでぼくの言いたいことは大体上に貼った動画で言われてしまっているのだが、「君たちはどう生きるか」という表題に対する答えは、自分なりのものを用意しなくてはならないように思う。

 大叔父は結局、自身の胸打たれた幻想世界の神となり、その中に閉じこもって生きていくことを選んだ。
 ……いや、それはきっと、「生きる」ことを諦める道だったのではないか。

 眞人を後継者にするべく塔の世界に誘い込もうとした大叔父は、アオサギを介し、「母親が待っているぞ」という甘い幻想を見せることで目的を果たそうとした。
 しかし、眞人はその幻想につられて塔の世界に陥ったのではない。継母の夏子という、自分は好きではないが父親の好きな人、父親を含む自分たちの生活秩序のために必要な人を助けるため、自らの感情を律して塔に踏み入ったのだ。
 眞人は最初から、「生きる」ためにアオサギの罠に踏み込んだのである。

 最後、眞人は自らの持つ「悪意」のために、大叔父の後継者となることを拒否する。
 「悪意」は純潔さを失った感情であると同時に、(まるでインコの王国のような)社会の中で、多くの人々が「生き」つづけるためには絶対に必要となる聡さのことでもある。
 生も死も、時間すら曖昧な幻想世界を維持することより、絶望に満ちた現実の中で、それでも友達とともに「生きる」ことを選択した眞人の決断が尊いことを、きっと宮崎自身は誰よりも理解しているのだろう。

 それはひょっとすると、多くの人より長く生き、一線から退いたはずの天才芸術家が、再び腰を上げてでも伝えなければならないほどの切実な願いなのかもしれない。
 美しい芸術の世界の中でだけ生きつづけることなどできない。生きることは罪悪であり苦痛だ。それでもやっぱり、生きることは尊い。それでもやっぱり、君たちは生きるのだ。

 「君たちはどう生きるか」という問いにおいて、その答えは視聴者それぞれに託されている。
 けれどもこの問いが暗黙裡に前提とするのは、「君たちは生きなければならない」という、強いメッセージなのではないか。

 ……なんてことを思ったりした。




▽そんな感じでフラフラと考えごとをしつつ、くら寿司で昼食。

 

にじさんじとのコラボグッズ目当てとかじゃないんだからね!

 回転寿司に来ること自体がかなり久々だったためか、前来た時とイメージがかなり違っていてびっくりしてしまった。

 レーンの上を回る寿司はすべてプラスチックのカバーで覆われていて、皿を少し持ち上げることでパカリと開くシステムだった。ドーム状のカバーに覆われてコンベアの上を無機質に流れる寿司ネタたちの様子は、いっそディストピア的でもある。
 ちょっと前の例のスシロー事件以降、業界としてセキュリティ対策に力が注がれた影響なんだろうな……と思っていたが、どうやらこれは元から実装されていたものらしい。むしろコロナ対策の色合いが強いのかな。

 相変わらず「びっくらポン」はあまりに合理的すぎるシステムだな……とか、にしても流れる動画は面白くない上にやたら長くてアレだな……とか色々思うところはあったけれど、やはり一番驚いたのは「入店から順番待ち、席案内、注文、そして会計に至るまで、一切店員と接触せずに食事が終わった」という点である。

 個別に見ていけば、機械で整理券を発行する店もタブレット端末から注文する店もよくあるし、コンビニやスーパーではセルフレジを導入している店舗が主流になってきた。席案内に人員を割かない店だって少なくないだろう。
 しかし、コロナ禍を経た昨今でさえも、ここまで一気通貫で店員との接触を途絶している飲食店って他にそうそう無いんじゃないか。

 これはすごいことだと思う。感染対策という意味合いも強いのだろうが、現場からあそこまで人間の店員を排除する(もちろん片付けや問合せ対応などの人員は配置されているだろうが)ことには少なからず抵抗があったはずである。増して競合他社であんな事件があった後なら、セキュリティの観点からも尚更だ。

 しかし、そこでくら寿司(に限らないかもしれないけれど)が採ったのは、人の目を増やすという受け寄りの戦略ではなかった。ハード面の対策を講じた上で、回転寿司という体験をむしろ完全に機械化してしまおうという「攻めの対策」だ。良くも悪くもチェーン店的というか、画一化と大規模な資本投入を両輪に成長してきた業界ならではだよなぁと思う。
 「寿司を提供する」というサービスの業態として、くら寿司の完全非接触システムは一つの到達点といっていいんじゃないか。

 何はともあれ、不必要な他人との接触を好まざる”陰の者”たるぼくにとって、こういう店が出てきたのは非常にありがたいことだ。千葉雅也は激怒するかもしれないけど。




▽「GreenSnap」のアプリを最近落とした。ようは「草花共有用SNS」みたいな感じのサービスだ。
 最初は道端に咲いてる花の名前とかを調べられる機能につられてDLしただけなんだけど、毎日「今日の花」という記事の通知が来るのでわりと目を通している。

 花言葉って面白いな。ひとつの花に託す言葉が『精神の美』『旅人の喜び』『策略』って、こんなに統一感なくていいんだ。由来にもちゃんとした民俗的な出典があったり単なる見た目のイメージからだったりと色々ある。言ったもん勝ち感すら感じるが、まあ実際そうなんだろう。

 最近読んだ本に、「人間は花に片思いしている」というフレーズがあった。人々は花の美しさに惚れこむが、花が美しく目立つ色に扮するのはあくまで虫たちに花粉を運んでもらうためだ。花は人間のことなど歯牙にもかけていないのに、それでも人は花の色香に魅惑されてしまう。

 成就しえない一方的な想いを好き勝手に花に託してきた人間の本質的な身勝手さを想うと、どんな生き方も間違いではないんだという気分になる。
 ぼくたちはどう生きたって、別にいい。


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