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「自己肯定感」という嘘



◆「自分が嫌いだ」は矛盾している


 「自分が嫌いだ」というような表現をよく見かけるが、ぼくはこの表現にピンときたことが全くない。
 理解することはできるけど、実感を伴った気持ちとして共感したことは多分一度もないと思う。

 それはぼくが自己愛に溢れていて、いつ何時も自分のことが大好きだから、というわけではない……と思う。少なくとも主観的には。
 そうではなくて、そもそも「自分」のことが「好き」だとか「嫌い」だとかいうレトリックに、あまりピンと来ていないのだ。世の中で使われているそれらの表現は、全て嘘っぽいものに感じられてしまう。

 この点については昔からよく考えていたのだが、うまく言葉にすることができなかった。今でも完全には分析できていないが、恐らく以下のようなロジックなんじゃないか、と思う。


  1.  まず、「嫌い」とは、何らかの客体に対する主観的な評価を指す言葉である。「AはBが嫌いだ」というとき、AはBの持つ何らかの特徴を否定的に評価している。その意味でBはAにとっての評価対象、すなわち客体である必要がある。

  2.  「私は自分が嫌いだ」という文を考える。このとき、この文の主語となっている「私」は、「自分」に対して否定的な評価を下している。つまり、「自分」は「私」にとって客体であるということになる。

  3.  言うまでもなく、この文において「私」と「自分」は同一人物である。つまり、この文の主語である「私」は、同一人物であるところの自分自身を客体として捉えていることになる。

  4.  では、ここで「自分が嫌いだ」という評価を下している「私」とは一体誰のことだろう? 否定的な評価を下されている「自分」とは、肉体的には同一人物であっても、ここではある種別のものだと理解されているはずである。何故なら、①で見たとおり、「嫌い」とは必ず客体に向けられる言葉であるからだ。その意味で、「私」と「自分」とは観念上、分離しているといえる。

  5.  仮に、この「私」でさえも『私』は嫌いなのである、と主張したとしよう。そうするとすぐにまた、"嫌われている「私」"と"嫌っている『私』"の分離が生じる。「嫌い」という言葉を使う限り、主体と客体の分離は際限なく発生し、嫌ったはずの私’の背後にまた私”が出現する、という無限後退に陥ることになるのである。

  6.  これを解決するには、どこかで、それを自ら客体として捉えることは決してできない、究極の主体としての「私自身」に辿り着く必要がある。

  7.  何人も、この「私自身」のことを、本当の意味で「嫌う」ことはできない。このことは①と⑥の内容から明らかである。


 ……長々と書いてしまったが、要すれば、「あなたが『自分嫌いだわ〜』と思ったとき、その名指しされている『自分』ではなく、『自分嫌いだわ〜』と考えている、その思考の主こそがまさに『あなた自身』なのでは?」ということである。

 ここで重要なのは、上記のことは当然ながら、「好き」という評価に対してもいうことができる、ということだ。
 つまり、人間は自分自身を嫌うことも、逆に好きになることも、本当の意味ではできないはずなのである。



◆「自己肯定感」は嘘である


 「自己肯定感」という言葉がある。インターネットをしているとよく見かけるし、一種の流行り言葉(もうブームは過ぎているのかもしれないが)だといえるだろう。

 字面から察するに、自己を肯定する感情、という意味のようだが、先述の議論を踏まえれば、これがいかにフィクショナルな概念であるかが解るはずである。

 自分を肯定する? そんなことはできない。「肯定した」と思っているその思考の主こそが、「あなた自身」だからだ。

 自分を否定する? そんなことはできない。「否定された」と思っているその対象は、あなた自身でもなんでもないからだ。
 
 あなたがどれだけ「自己肯定感が損なわれた」と感じようと、あなたにとって一番の本質であるところの「あなた自身」を、あなたは肯定することも否定することもできないはずなのである。

 ……それなのに安易な啓発文は、「精神の健康のために自己肯定感を上げよう」などと平気で吹聴する。
 幻にすぎない感情を在るかのように仕立て上げ、出来もしないことが出来ないことへの不安を煽るレトリックは、誠実でないとぼくは思う。


 たしかに、どうしようもなく気分が落ち込み、自分のことを無闇に貶めたくなるような心持ちになることは誰にだってあるだろう。ぼくはなにも、そういったネガティブな感情が虚構の産物であると主張したいわけではない。

 ただ、あくまで自分は自分であり、この世界にあるその他全てのものとは決定的に違う、ということを、もっと意識してもよいと思うのだ。

 あなたにとってあなた自身は、この宇宙に存在するあらゆるものと比べても、はるか別格に特別なものだ。
 宇宙に何が起ころうと世界は終わらないが、あなたが死んだらあなたにとっての世界は終わる。考えるまでもなく当たり前のことである。

 だから、他のものを見るときと同じ視線を自分自身に向ける必要は全くない。それは究極的には不可能なことだ。
 人は「自分自身」を、映画や漫画やアニメ、家族や上司や恋人、その他自分自身ではない全てのものについて常に行っているように、肯定するとか否定するとかいったやり方で価値づけることはできない。
 ネガティブになろうとポジティブになろうと、あなたはどうしようもなく「あなた自身」なのであり、それが現にそうである在り方で生きていく以外に、我々の為す術はないのである。

 このどうしようもなさは、どんなに成功した人間でも決して拭い去り得ない人生の不安の根源であると同時に、人生にある種の絶対的な安心感を与えてくれるものでもあるように、ぼくには思えてならない。



◆「自己評価」には慎重を期すべきである


 さて。自己評価にまつわるこの種の誤謬を犯さないために大事なのは、

・「自分自身について評価を下す」場面に際して、なるべく主観を動員しないこと

・主観を動員して自省を行いたい場合は、「自己分析」の範疇を越えないように意識すること

 の二つだと思う。

 たとえば自分自身について「私は背が高い(私は「自分は背が高い」と思っている)」とか「私は野球が上手い(私は「自分は野球が上手い」と思っている)」といった、客観的な評価を下すことは矛盾なく成立する。
 なぜなら、「背が高い」や「野球が上手い」といった評価は世界の側に存する事実に属する事項である以上、評価を下している方の「私」が誰か他の人物、あるいは神の視点であっても、その文の真理値には影響が及ばないからだ。
 もちろん背の高さや野球の上手さに関する信念にも主観が影響を及ぼすということは有り得るだろうが、それはせいぜいちょっかいを出してくる程度のことである。日本人男性の平均身長は165㎝だと勘違いしている身長168㎝の男が「自分は背が高い方だ」と自己評価を下すのは、主観が誤った客観的結論を導いているだけであって、主役として立ち上っているのはあくまで主観を要さない事実(誤ってはいるが)だ。ここにおいて、先に見たような自己認識をめぐる矛盾は発生していない。

 一方、「好き」だとか「嫌い」だとかいった評価は、純度100パーセントの主観だ。導出過程に主観が絡んできただけの客観的信念とは一線を画す、最終結論としての主観である。こういったものは、客観的世界の側に立脚するところがなにもなく、したがって自我そのものを根源に置くしかない。「 ○○は好きだ」と言ったとき、そこで記述された「自分は○○のことが好きである」という事実は、背が高いだの野球が上手いだのといった事実とは決定的に異なり、自分というこの主観的意識そのものに根拠を求める以外にやりようがないのである。

 「好きだ」「嫌いだ」という評価を導くためには主観を動員するしかない。にもかかわらず、この評価の対象=客体とされているものも自分=主観である。このような状況に陥ったときはじめて、主観が二つに分裂し、はじめに見たような無限後退が生じるのである。

 では、そうならないためにはどうすればよいのか?

 完璧な処方箋を用意することは不可能だろうが、方針を示すことはできる。

 まずは、主観的な評価と客観的な評価とを混同しないこと。
 ここでいう主観的な評価とは、市井で用いられるような、「周りはどう評価するかわからないけど、自分にとっては自分の演奏が世界一心地よいものである」といった心情を含まない。こういった評価は、確かに主観によって歪められているかもしれないが、「自分は世界一の演奏ができる」という真偽の評価に堪えうる命題性を持つ。世界一心地よいとかいった評価は自分一人では決定されえないのだから、これはまちがいなく客観の側に属する事項なのだ。

 一方、「私は自分のことが好きである」とか、「自分が情けなくてたまらない」とかいったような文章は、自分の心持ち以外に何ら影響を受けない、純粋に主観的な評価である。こういう文章は真偽の評価に堪えないため、命題性を持たない。それゆえ、主観にその原因を求めるしかなく、主観そのものを客体の側に置こうと試みた結果、避けがたい致命的なエラーが生じる。
 それは数字をゼロで割るかのような、絶対にやってはならない誤操作だ。途中式でそんなミスを犯してしまったら、出てくる答えなど一つも信用ならない。いや、間違いなく間違っていると言っていい。にもかかわらず、「自分を好きになれない」や「自分を肯定できない」とかいった論理的にありえないテキストが、今なお社会の至る所にはびこっているのである。

 こういったテキストに絡めとられそうになった時、大事なのは分析的な視座である。「なぜ、自分はこれほどネガティブになっているのか?」「なぜ、自分は自己破壊的な衝動に駆られているのか?」というように、真偽の評価が(少なくとも論理的には)可能な命題に問題を落とし込むことで、人は自己評価の罠をくぐり抜けることができるはずだ。

 過去の自分の行動を顧みて、自信を持ったり、反省することはとても大事だ。しかし、自信を持つことは「過去の自分を肯定する」ことではない。反省することは「過去の自分を否定する」ことではない。
 あの時のあの行動はよかった、今後も同じ場面になったらああやっていこう。あの時のあの行動はよくなかった、次同じ場面に出くわしたら別の選択をしよう。そんな風にミクロな価値判断、具体的な問題意識が積み重なっていき、やがて一般的な信念へと昇華していく。そういった過程こそが精神的な成長である。
 安易な総論に逃げず、各論に目を向けなければならない。各論の結果として現れた、たったひとつの「あなた自身」を、あなたは「現にあなたである」以外の方法では絶対に知覚できない。



◆「自分自身」として生きる


 繰り返すが、純粋に主観的な評価を自分自身に下すことは論理的に不可能である。下せたと思ったとしても、その対象は「あなた自身」などでは断じてない。「自分が好き」「自分が嫌い」などというテキストを見かけ上成立させるために仮想した、即席のわら人形に過ぎないのである。

 ここまで声を大にするのは、このわら人形が、厄介なことに人々をあらぬ行動へと導く場面によく出くわすからである。それはインターネットにおいて、自己の過度な客体化という形で顕著に見られる。

 インターネットではあらゆる人間が発信者になる。これまで発信者と受信者とを隔てていた「機会」というものが全ての人々に平等に与えられ、そしてその中でもやはり、「一流の発信者」と「落ちこぼれの発信者」とが自然と分別されていく。
 その二つをどう見分けるかは非常に簡単である。発信に附随する数字を見れば一発だ。平等に与えられたプラットフォームにおいて、公平な条件でカウントされた数字のみが、一流とそれ以外とを冷酷無比に仕分ける。そしてそれらの違いは、もはや「機会」で説明することができないから、純粋な実力や才気、そして天運といったものに還元される。

 そんな中で生じるのが、自己の過度な客体化だ。同じ発信をしても、あの有名なインフルエンサーは1万インプレッションを獲得するのに、自分はたったの10だけ。そういった事実は、「自分というものの価値はインフルエンサーの1000分の1しかないのではないか」という疑念を生む。そして、数字でラベリングされることに慣れきってしまったデジタルネイティブたちは、客体化された自己と主観としての「自分自身」を見分けることができなくなりつつあるのである。
 それゆえに生じる、自分の発信へのリアクションに対する本能的な強い拒絶反応が、これまで数多くの悲劇を生み出してきた側面は決して否定しえない。

 もちろん、あなたの発信が多くの目に触れない原因はどこかにあるだろう。それは内容の質かもしれないし、その周縁に位置する何かかもしれない。
 あなたはそれを、それらを、一つの命題として分析的に見つめるべきだ。決してあなたの分身として見つめてはならない。それは誤りである。ある発信に付与された低評価は、あなた自身の価値を毀損するものでは全くないのだから。


 インターネットが繋げた見世物小屋としての世界に、あなたを陳列すること自体は構わない。今や誰もが行っていることだ。

 けれど、そうして陳列された「あなたの発信」「あなた自身」とは、決定的に異なる。
 そのことを、ゆめゆめ忘れるべきではないと思っている。

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