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いたずらラッコの運動会(後編)

サンサンのダンクシュート

 サンサンが初めてダンクシュートを成功させたのは1991年7月5日。正式公開は14日。
もっと高度な芸が欲しいと考え、当時話題のプロバスケットに着想を得て一番人に慣れているサンサンにバスケットを教えることにしました。投げ込んだボールに異常な興味を示したサンサンが、器用に前足で運んだことがきっかけでもありました。
ダンクシュートの時の水面から飛び上がる動作は貝殻を水槽の底から拾って浮かび上がる仕草をヒントにしたそう。

まずは陸に上がる訓練一カ月。屈伸運動、歩行訓練を重ね、4月からバスケットに挑戦。ボールを渡してしまうとなかなか返してくれなくなるので、ボールにヒモをつけてボールに馴らす訓練からはじめ段階を重ねた結果、3か月でバスケットボールができるようになりました。
最初はサッカーボールを使っていたが、爪が鋭くてすぐパンクするのでプラスチック製に変えた。
観客からは好評を博し、CMにも出演してサンサンは一躍有名になりました。客足は前年の20%増。※1

ダンクシュート

ラッコのバスケット試合公開

1993年3月26日一般公開
サンサンの単独で披露していたダンクシュートを、コロコロも三カ月の訓練で覚え、二頭による試合が実現。
それまでの間に、サンサンのダンクシュートをコロコロがじゃれて邪魔をしたりして盛り上げることもありました。※2
2005年の時点ではサンサンとマルオで毎日試合をしています。勝敗はほとんどサンサンの勝利。最後まであきらめない粘り強さがあって、マルオがおなかにボールを乗せてゴールを目指して泳いでいると、必死に追いかけてボールを奪い取り、最後はかっこ良くダンクシュート!飼育係もほれぼれするくらいです。※3


ラッコのサーフィン


1994年7月一般公開
初お披露目時はノンノンを載せたサーフボードをサンサンがけん引
サーフボードは約13万円かけて注文家具店に特注したもの
ノンノンがサーフボードの上で腹ばいになり、プールサイドから調教師がボードをそっと押すとプール中央辺りでノンノンが5秒たらずほど立って見せるというパフォーマンス※4
訓練の様子を調教師は「最初は陸上にボードを置き、その上に立つ練習から始めました。イカや貝などのエサでつって立たせるわけですが、これは2カ月くらいで出来るようになった。ついで陸上でボードを揺らし、それから水上練習。これが大変でした。というのもラッコにすれば水に濡れるのは平気で、水上で揺れる不安定なボードの上にいるより水中で泳いでいる方がよほど楽しいのでしょう、ちょっとボードが揺れるとすぐ水に飛び込んじゃうので、困りました」と語っています。 
調教期間は1年を要した。※5

ラッコのサーフィン


サーフボードのデザイン
「マリーンパレス30年のあゆみ」より



ラッコのゴールキーパー

2002年3月一般公開。
大分がW杯と繋がりがあったことにちなんで、1月にノンノンにキーパーの訓練を開始。
トレーナーは訓練の様子を「苦労したのは、ボールを投げようと離れる間、じっと立たせること。キャッチングはうまいです。が、満腹だとショーで芸をしないことも・・・」と語っています。※6

ラッコのゴールキーパー


ラッコの調教で苦労したポイント

調教師のコメント
とにかくラッコは気まぐれで、その日の機嫌の良し悪しで言うことを聞いたり聞かなかったり。訓練は一回せいぜい十分。まず、朝食前の訓練でその日の体調を見る。調子が悪ければ、ショーの前に二、三回訓練する。
 毎日の芸が筋書き通りにいかないので、こっちも相手の動作に合わせてつながないと、ショーにならない。必死でやってたら、何とかこなせるようになりました。※7


補足など

最初は二人三脚でラッコショーを試行錯誤で開発。ラッコの爪は鋭いので、飼育員の手は生傷が堪えない。

サンサンはラッコたちの中で一番強い立場で、自分の餌を食べ終わると仲間たちの餌を奪いに行ってしまうため、飼育員が餌を投げてサンサンの気を逸らしたりしていました。※8

1995年10月6日にマリンパレスでは初となる女性調教師がデビュー※9

産まれたラッコは生後半年過ぎから調教に入る※11



ラッコショーの終焉

 2006年3月3日、開始以来仲間を引っ張ってきたサンサンが老衰で死亡。
ほかのラッコに心理的な負担がかかるのを配慮し、翌日からショーを休止。
同月21日には当時国内最高齢だったルンルンも老衰、4月9日にはマルオも食欲不振から肺炎で死んでしまいました。
読売新聞の取材で当時の鳥羽水族館館長は「ストレスに弱いので、仲間がいなくなったことを負担に感じた可能性はある。」とコメントしています。
※10
残りはノンノンとテツオのみになり、ラッコショーの再開は望めない状態になりました。ノンノンも年末に死んでしまい、テツオのみに。


うみたまごのラッコたちの記事を書くにあたって

 うみたまごの記念誌ではラッコショーの裏側や個体情報については紹介されていません。ラッコショーのことを調べると、今後に伝えていきたいようなうみたまごの調教師の努力とラッコたちの個性的なエピソードがあることが分かりました。SNSで繋がっているうみたまごの常連さんの方や水族館のラッコのことを長年追いかけ続けている方のラッコについての愛情あふれる語りを読ませて頂いているとうみたまごのラッコについて伝えていかないとな、とより感じます。

 新聞データベースや大宅壮一文庫の雑誌アーカイブを利用し、当時の情報を集めました。記事に載せられる著作権フリーの写真を自前で用意できないため、手に入れた写真からアングルやポーズを変えたイラストを描きました。記事はまだ文章を推敲する必要を感じていて、イラストについてはまだまだ改良・改善の余地があります。
完璧を求めると自分のやる気に波があることもあり、手を付けておかないといつまで経っても記事にとりかかれなくなってしまうのでひとまず現時点ですぐに用意できるイラストで記事を更新しました。

脚注

※1・・・
大分合同新聞1991年7月13日朝刊23面
ナイスシュート!ラッコがバスケット マリーンパレス

週刊文春1991年9月12日p214
ボールを持てば世界一。ラッコ・サンサンは「五コでもラッコでもまかせなさいっ!」

FRIDAY1991年6月28日p62~p63
サルやイルカと一緒にしないでヨッ
愛敬だけじゃない!世界初芸をするラッコが大評判

FLASH1991年8月20日・27日合併p34
残暑お見舞いレポート!夏バテ知らずの元気動物たち
プロバスケも真っ青僕は水族館の得点王

読売新聞2008年5月16日朝刊27面
扉を開いて3 手探りでラッコ調教

大分マリーンパレス 30年のあゆみp77~78
うちのラッコは、食べカスの貝殻を自分で片づけるんですよ

※1+※7
西日本新聞1991年4月16日夕刊3面
[人ウイークリー]○○○○さん 大分


※2・・・

長崎新聞1991年8月19日4面
ダンクシュートだ世界初大分の水族館
ラッコもやるヨバスケット

西日本新聞朝刊1993年3月28日26面
ラッコのバスケット試合公開、マリーンパレス 大分

※3+※8・・・
西日本新聞2005年6月12日朝刊
ファミリーひろば
リレーでつづる飼育ノート いたずラッコ

※4・・・
西日本新聞1994年7月27日朝刊25面
ラッコのサーフィンお目見え、マリーン・パレス

※5・・・
FOCUS 1994年12月7日p52~p53
へいせい動物記160ご愛敬「2歳のラッコ」のサーフィン芸

※6・・・
Flash 2002年9月3日
世界初!堅守を守るラッコのゴールキーパー

※9・・・
大分合同新聞1995年10月7日朝刊29面
ラッコくん よろしくネ 女性調教師デビュー マリーンパレス

※10・・・
読売新聞2006年4月30日朝刊28面
ラッコショー惜しむ声
うみたまご 3匹の死で休止

※11・・・
西日本新聞1997年10月15日20面
赤ちゃんラッコ「カボス」が急死 大分マリーンパレス


ラッコがいた水槽その2

記事に使用しているイラストの更新や追記をする予定あり



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