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うみたまごのラッコたち

 ラッコショーを世界で初めに始めたことで注目を浴びたうみたまご(前身は大分マリーンパレス)。
国内で飼育されているラッコが消滅寸前ということもありラッコブームを知るための一環で、当時のラッコショーがどんなものだったか調べることにしました。
 調べていくと出生記録やラッコショーのことについて断片的に各新聞社のデータベースから情報を得ることが出来ました。それらをひとつの記事にすると煩雑になってしまうため、ラッコショーに関しては次の記事にまとめることにしてこの記事ではうみたまごのラッコ周りに関する主な出来事に絞って紹介していきます。

 うみたまごの前身、大分マリーンパレスが初めてラッコを公開したのは1987年10月24日。
輸入業者がラッコを捕獲する予定だった海域が保護区に指定され捕獲制限がかかったため到着が公開予定に間に合わず、オホーツク水族館から急遽「ラック」と「ミミ」を借用することになりました(オホーツク水族館は冬期休館中)。
 翌年1988年4月20日にラッコが輸入でき、4月28日に改めてラッコが一般公開されました。


ラック(♂)5歳 体重34㎏(10月)→33.5㎏(4月)
ミミ(♀) 3歳 体重24㎏(10月)→31㎏(4月)
食事:アカイカ、スルメイカ、ホタテ貝、ビナス貝、オオナゴ
ラッコを導入してから来館者が20~30%増えた

ラックとミミが帰ってくる直前にオホーツク水族館では
4月2日リッキーが、4月7日にラッキーが誕生していました。
書籍「がんばれ!赤ちゃんラッコのラリー」ではオホーツク水族館のラッコたちについての出来事がラリーがある程度成長する1990年まで書かれていますが、ラックとミミの移動について特に触れられていません。

出典:
大分合同新聞(朝刊)1987年10月20日15面
北国からようこそラッコでーす マリーンパレス

大分合同新聞(夕刊)1987年10月24日7面
お待たせ「ラック」と「ミミ」マリーンパレス ラッコの公開始める

大分合同新聞(夕刊)1988年4月8日7面
ラッコ 北へ帰る


うみたまごのラッコリスト


うみたまごのラッコの主な出来事

エピソード

サンサン
 命名は搬入した五頭の中で最も小さいため、息子(SON)の意味を持たせたのとさんさんと輝くようにとの願いを込めて。
ラッコショーを始めるきっかけになり、長年引っ張ってきた存在。
2006年3月3日、バスケットゴールの下でぐったりしている所を発見される。飼育員から延命治療の主張もあったものの、長年サンサンに調教師として付き添ってきた館長の方針により断念。

出典:読売新聞2008年5月16日27面「扉を開いて3・手探りでラッコ調教」

スイスイ
 
命名は1番よく泳ぐことから。
あまり人に気を許していなかった。
マリンパレスに着いた早々産んだ「プクプク」は、よみうりランドに運ぶ途中で死んでしまいます。1990年、91年にも子供を産みましたがいたずら好きの「コロコロ」が戯れて死んでしまいました。
92年に産んだ4匹目の子「ノンノン」は6月9日まで母子で隔離され無事に育ち群れと合流した後もトラブルはなく、「ラッコのサーフィン」や「ゴールキーパー」などの芸を披露し2006年まで生きました。
 2003年12月12日のマリンパレスがリニューアルのため閉館している時期に好き嫌いのないはずのスイスイが餌を残し始め、2日後に陸場で動けなくなっていたところを心配した飼育担当が付き添っていました。いつもなら人を嫌がって逃げるのですが、自分の力で泳ぎだすこともできない状態でした。ふいに泳ぎ出しましたが、大きな叫び声を上げたあと動けなくなり治療が施されましたがその日のうちに静かに息を引き取りました。

出典:大分合同新聞(朝刊)1992年6月10日19面
「のんのん」仲間と仲よく 隔離飼育終え、群れと合流

出典:大分合同新聞連載「水族館千夜一夜」第1話~第100話うみたまごものがたり・p40 平成16年5月24日掲載 おばあちゃんラッコ・スイスイ「キィーッ」最後の叫び声


ルンルン
 
命名は声を出してはしゃいでいた様子から。
ラッコショーに参加することはなく、貝割りをするなど最後まで野生の姿を残していた。

出典:うみたまごHP ニュース&お知らせ 2006年3月22日

テンテン
 命名はかわいい美人なことから、「霊幻道士」に出てくるかわいい少女にちなんだ。
最初に持ち込み腹で出産した「コロコロ」から「トントン」を生むまでの間に生まれた子供は産んだ直後にちょっかいを出してきたコロコロと取り合いになり、死んでしまったようです。テンテンは一晩中悲痛な声で哭(な)いたそう。「ノンノン」以降は赤ちゃんラッコは隔離するようになったようです。
1999年に海の中道マリンワールドの「智佐」と国内出産数8頭とタイ記録を競いました。

出典:月刊ミックス1996年2月号 134号 マリーンパレスからの風景
第3回 魚とラッコ

ネンネン
 
命名は陸に上がって寝ることが多いことから。
命名式後の新聞記事や水族館記念誌では「アラスカからやってきたラッコは4頭」になっておりネンネンの名前が見られないことから、1988年6月にひろお水族館側の記録で「大分の水族館からラッコを補充」とあるのでひろお水族館に移動したと思われます。

アラスカからやってきた5頭の愛称についての出典:
大分合同新聞(朝刊)1988年5月17日 7面
話題の動物 仲良くしてネ マリーンパレスのラッコの名前決まる

コロコロ
 テンテンの持ち込み腹で生まれた子供。
サンサンとともにダンクシュート等でラッコショーを盛り上げました

プクプク
 スイスイの持ち込み腹で生まれた子供。
 よみうりランドに新しくオープンするラッコ館へ搬出されましたが、飛行機での輸送途中にストレスにより衰弱し死亡しています

出典:朝日新聞(朝刊)1990年4月24日「川崎、読売ランドに空路輸送中のラッコが急死 羽田空港」

「コロコロ」と「プクプク」の名前の公募には県内外から1753票が集まった。

出典:大分合同新聞(朝刊) 1988年11月3日
「コロコロ」と「プクプク」赤ちゃんラッコに名前 マリーンパレス


ノンノン
1.スイスイの4頭目の子供
2.1992年4月13日に愛称がのんのんに決定 公募に7215通の応募 19日に命名式
3.1992年6月9日に隔離水槽から仲間たちの水槽に合流
4.5歳の誕生日を迎え、ラッコショーの看板娘になっているノンノン。縁談についてノンノンの幸せを願いながらも「ショーの花形だけに、よそに嫁がせるわけにもいかず、かといって婿を取れば”座長”の父親サンサンとの確執が予想される。」


バスケットボール、サーフィン、ゴールキーパーと多彩な芸を習得し、サンサンと共にラッコショーを盛り上げてきた存在。

1.出典:西日本新聞(夕刊)1992年1月14日16面
ラッコの赤ちゃん誕生、大分市の「マリンパレス」

2.出典:西日本新聞(朝刊)1992年4月15日25面
ラッコの赤ちゃん、名前は「のんのん」に

3.出典:朝日新聞(朝刊)1992年6月11日
ラッコ「のんのん」が仲間入り 大分のマリーン・パレス〔西部〕

4.出典:西日本新聞(朝刊)1997年1月16日27面
[超短波]ラッコショーの看板娘ノンノンが”成人の日”迎える、大分市


トントン(カイ)

 海の中道の飼育員がマリンパレスの飼育員に聞いた話によるとバスケットボールで得点めくりをやっていたとのこと。
マリンワールド海の中道に移ったのち、海の中道での繁殖経験からかごしま水族館に異動になりました。

シンシン
1.飼育員のコメントでは「元気のいい盛りなんですが、他のラッコに比べればちょっと臆病です」
ラッコショー「ラッコの運動会」ではジョギングや貝拾いに登場し、たまにダンクシュートも披露。
 魚の提供やラッコ飼育の技術指導をした縁で、雌が3頭しかいなくなった韓国の63シーワールドへ婿入りすることが決まる。
輸送のストレスに耐えられるようにするため、徐々にオリにいられる時間を伸ばす訓練をしました。この訓練は海の中道にトントン(カイ)を輸送する際にも行われました。

2.1997年1月4日、シンシンの韓国行きが正式に決まったとマリーンパレスから発表。受け入れ先の「63シーワールド」(ソウル市)では、1994年(平成六年)からラッコ五頭(雄一頭、雌四頭)を飼育していたが、翌年の95年唯一の雄が死んだため、雄のラッコがほしいと、マリーンパレスに伝えてきた。マリーンパレスは「日韓親善の懸け橋になれば」と快諾し、通産省などに輸出許可を申請。このほど、許可が出た。
 シンシンは韓国行きの話が出た昨年十月から、捕獲用のネットに慣らされたり、輸送用ゲージでジッとしておく訓練を重ねてきた。
移送時間は七時間。

3.輸送当日、マリーンパレスでは午前八時からラッコの水槽でシンシンの捕獲作業。簡単には捕獲できず、悪戦苦闘の末にやっと網の中に。移送のオリはラッコの体温上昇を防止するため、床に氷を敷き詰めた。
 シンシンの世話をしてきた係員は「とても寂しいです。無事に着いてほしい」と見送った。トラックで福岡空港まで行き、空路、韓国に向かった。
 環境の変化に弱いラッコは度々、移送中に死んでいる。シンシンは昨年十月から移送を想定した訓練を重ねており、飼育部の獣類課長は「大丈夫と信じています」。課長は韓国まで付き添い到着後三日間、現地でシンシンの様子を見守る。


 有志の聞き込みによってアドベンチャーワールド生まれの「ロイズ」の父親であることが判明しました。実は63シーワールドからアドベンチャーワールドにさらに移動していました。サンシャイン水族館や鳥羽水族館で有名になった「ロイズ」が全体的に黒い体だったのはシンシンからの遺伝でした。

4.シンシンが韓国からアドベンチャーワールドへ移動したのは2001年

1出典:大分合同新聞(朝刊)1996年12月8日23面
「7時間の旅だってへっちゃラッコ」
出典:朝日新聞(夕刊)西部 1996年11月30日10面
「日韓ラッコ交流大分産が婿入りへ」

2引用:大分合同新聞(朝刊)1997年1月5日22面 
9日に韓国へたちます マリーンパレス ”婿入り”シンシン

3引用:大分合同新聞(夕刊)1997年1月17日13面
【日韓関係揺れる中・・・親善大使「行ってきます」
シンシンが韓国へ出発】

4出典:ラッコBOOK
p72 アドベンチャーワールド



マルオ
 残っているラッコショーの映像では、サンサンとバスケットボールの試合をしている。サンサンが死んだ頃から餌を食べなくなった。2006年4月にサンサンとルンルンに続き、元気がなくなり肺炎で死亡しました。

出典:うみたまごHP ニュース&お知らせ 2006年4月10日

ケンケン
 母親の「コロコロ」からの乳離れに通常の3倍の1年半かかっています。
のとじま水族館のラッコ館が完成するまでの預かりとして、1998年12月19日に旧金沢サニーランドだったいしかわ動物園のラッコ館に婿入りで搬出されたものの到着50時間後に死亡しました。
1ヶ月前から木のおりに慣れるようにトレーニングを積んでいました。

出典:西日本新聞(朝刊)1998年11月20日
[超短波]マリーンパレスのラッコ「ケンケン」旅立つ

出典:大分合同新聞(夕刊)1998年11月20日
ラッコ金沢へ婿入りマリーンパレス元気でねケンケン


カボス
 
命名は誕生当日に生中継していたテレビ番組から


出典:西日本新聞(朝刊)1997年10月15日 大分県/どげかえ=
赤ちゃんラッコ「カボス」が急死 大分マリーンパレス

テツオ
 
うみたまご最後のラッコ

・ラッコをダッコ
2007年11月6日から冬季限定で開催。
ラッコをひざの上に乗せて感触を楽しんでもらうためのイベント
写真撮影可
1日4人限定
全国から多くのラッコファンがうみたまごで唯一のラッコになった「テツオ」に会うためにやって来た。

このイベントが始まったのは、うみたまごの他のラッコたちが病気や老化で相次いで死んでしまったことがきっかけ。
接触頻度を積極的に増やすことで孤独になった「テツオ」を寂しさから救おうという考えから。
「テツオ」は飽き性な上に臆病者で、以前小さな物音に驚いて餌を食べなくなることがしばしばあった。外に連れ出すことから人のひざに乗せて食べさせるところまで訓練するのは苦難の連続。
初めのうちはなかなか外に出てこないこともありましたが、イベントがスタートした頃には「テツオ」も触れ合いを楽しんでいるようだったそうです。
しかし、長くは続かずまた外に出てこられなくなったため開催期間中に中止。
以降は記録がないのでこれっきりのイベントになったようです。
検索すると2008年度冬に開催されている「ラッコをダッコ」のブログ記事が見つかりました。

ココログ 2008年11月24日投稿記事
今日はこちらで
「うみたまご ラッコ」で画像検索
飼育員の傍で立つラッコの画像

楽天ブログ 2008年12月7日投稿記事
Love Ya!Tony Jaa.Always!  
「ラッコをダッコ」で検索

出典:大分合同新聞(夕刊)2008年6月9日9面「水族館千夜一夜~141~飽き性で臆病なテツオ 苦労続いた抱っこ訓練」


・アゴヒゲアザラシとの同居
お互いに一頭ずつしかいなかったため生活に刺激を与えようと、アゴヒゲアザラシの「ブル」と少なくとも2011年秋までに約一年間同居している。二頭はお互いに住み分けをしていたそうです。

・体調不良
2011年の夏前、おなかの体毛が汚れ、毛が絡まりだしたことがあり飼育員も原因が分かりませんでした。そこで投薬を試みることになりました。なかなかうまくいかず大好きな貝の中に錠剤をいれても発見され失敗。そこで薬のにおいを消すために氷の中に大好物の貝と一緒に粉末の薬をミキサーに入れたところ”百発百中”で成功。数か月後、体重も増え、動きも活発になり自ら体毛をきれいにする「グルーミング」を念入りにし始めました。おなかの毛の絡まりも改善。
 うみたまごのラッコについて大分合同新聞で最後に触れた特集では飼育員が「いつまでも長生きして、皆さんにかわいい姿をみてもらいたいものです。そして、いつの日かお嫁さんや新しい仲間が、テツオ君の所に来てくれることを願っています。」とコメントしています。

出典:大分合同新聞(夕刊)2011年10月12日、10月26日、11月9日 9面
ラッコのテツオ君㊤㊥㊦

ナナ
 
1999年の暮れに「ナナ」と「テンテン」が相次いで死亡しています。「個体数が増えすぎたためと思われるストレスによって、喧嘩が発生し、巻き込まれたため」と当時の大分マリーンパレスのHPの記事で分析しているようです(うみたまごにリニューアルされてから刷新されていて現在は読めません)。

ゴンタ
うみたまごで一番最後に誕生したラッコ。
2003年1月21日に大分マリーンパレスからアクアワールド大洗に異動し、2月に一般公開されています。

出典:読売新聞(朝刊)2003年2月11日 東京 福島2 31面
[近県]2月11日=福島


うみたまごのラッコ在籍年表

 うみたまごのラッコたちのプロフィールや生年月日を調べるにあたり、
大分合同新聞、西日本新聞、読売新聞に取り上げられている記事から生まれた赤ちゃんの両親と誕生日などの断片的な情報を紐づけて導き出しています。また、大分らっこさんのHP「大分らっこのホームページ」とmunyさんのHP「らっこ!らっこ!ラッコ!」のラッコニュースを参照させていただきました。

バックヤードツアー

ツアープログラムの中にラッコに手のひらから餌を上げられる餌やり体験がありました。

毎日新聞 2001年10月18日 地方版 20面
〔OITA見聞録〕見るから、ふれあう水族館・・・マリーンパレスの舞台裏は/大分

ラッコ情報紐づけメモ

トントン(カイ)


8月3日 ラッコの赤ちゃん誕生
テンテンの3匹目の子供 飼育しているラッコは全部で7匹

西日本新聞(朝刊)1993年8月17日16面

シンシン


1994年8月15日 ラッコの赤ちゃん誕生
テンテンが母親

西日本新聞(朝刊)1994年8月19日25面


「シンシン君は1994年、父サンサン(9歳)、母テンテン(13歳以上)との間に生まれた。」

大分合同新聞(朝刊)1996年12月8日23面

生後約二年半の「シンシン」
マリンパレスには四匹の雄がいる

日本経済新聞(西部朝刊)1997年1月8日 17面

1994年8月15日生まれ。

ラッコBOOK p71 アドベンチャーワールド

ケンケン

1996年8月6日ラッコの赤ちゃん誕生
コロコロが母親、サンサンが父親 95年死産 2回目の出産

西日本新聞(朝刊)1996年8月9日20面

赤ちゃん誕生、ラッコ9頭に
コロコロ晩秋に初めて出産、育たず
マリンパレスは10頭目の出産 全部で9頭

読売新聞 1996年8月14日

いしかわ動物園へ搬出されるケンケン
コロコロが母親

西日本新聞(朝刊)1998年11月20日35面

カボス

1998年3月29日ラッコの赤ちゃん誕生
父親サンサン、母親テンテン テンテン6頭目の出産

西日本新聞(朝刊)1998年3月30日22面

赤ちゃんラッコ「カボス」が急死
3月下旬誕生 雄 母親テンテン

西日本新聞(朝刊)1998年10月15日20面

マルオ

1996年1月24日ラッコの赤ちゃん誕生 マリンパレスで6頭目の出産
母親テンテン 全部で8頭

西日本新聞1996年1月25日20面

 赤ちゃんが生まれたりする度に示されるテンテンの出産数とマリンパレス全体での出産数、その時にマリンパレスにいたラッコ数の辻褄が合っているのでここで紹介したラッコたちで全部でよさそうです。
ナナの名前や、ラッコの訃報は基本的に新聞記事で出てこないため(飼育員のインタビュー記事で出てくることはあります)、大分マリンパレス時代のHPのニュースを取り上げている大分らっこさんとmunyさんのラッコニュースから参照しました。
うみたまごHPのニュース&お知らせのバックナンバーも2004年~2006年はあるのですが2007年~2012年が見れない状態になっているため、その時期に旅立ったノンノンとテツオの訃報も見られません。

 生まれるラッコは雄が多め、雌は少なくその貴重な雌は芸達者だったため手放すことができず婿を迎えるにもサンサンとの確執が生まれることを心配してそれも出来ない状態だったようです。
うみたまごのラッコが少なくなった頃には、よそからラッコを迎え入れようにも他の園館も余裕がなくなっていました。
当時の訪問者のブログ記事などを読むと、ラッコと飼育員さんのやり取りは新聞記事などには載っていない面白いエピソードが色々ありそうです。
以前、うみたまごでラッコの飼育担当だった方にお話を伺ったこともありましたが記憶が薄れてきてしまっているとのことで他のアプローチ方法があるのかどこかに当時の体験談を書いた記事がないか考えています。

うみたまごのラッコショーについてまとめた記事

うみたまごと高崎山

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