モバイルハウスでの生活は、淡々とした孤独な作業。

モバイルハウスは、足がある家だ。トラックやキャンピングカーなどで自由に移動しながら暮らす。自分は6mトラックの荷台に家を作り、人が入るほどのでっかい箱を積み、その中で適当に生活している。

土地に縛られずに住むため、いわば不動産ならぬ可動産だ。

荷台に人の入る箱をなぜ定住する場所を持たず、常に移動しながら過ごすのか。

持ちたくないからである。

定住地を持つと僕らはため込んでしまう。その場所に関する時間を。守りに入る。その地を基準に固まる価値観が。留めておきたくない。

医師であり科学者であり神秘思想家のよくわからんスイスのおっちゃんがこんなこと言っていた。
『すべてのものは毒であり、毒でないものは存在しない。服薬量こそが有毒かそうでないかを決める』
『孤独な生活の目的とは、もっと悠々気ままに暮らすというただ一つである』
価値観を固めたくない。自分の色眼鏡を外す。リリース。フィルター常に思考の再構築。脱構築。これが絶対と思うものほど疑いたい。井の中の蛙であると自覚した上で、つねに飛び出したいのだ。早い話、自分を縛られたくないのだ。消費したくないのだ。孤独な旅人、リアルスナフキンでありたい。

定住地がある。すなわち安心安全があると、仮に旅行にたくさん行ったとしても、毎回旅行先から知識は持って帰るが、結局定住している自分の場所で構成されている価値観で、旅行先の情報を判断してしまう。

定住地をもたないがゆえにあらゆる場所の知識やそこで得た経験を偏見なく、その場所の価値観をフラットに受け入れられる、かどうかの実験。

ぼくらは家族や学校の先生、身近な社会集団の心の動きを正常とみなしてきた、小さな頃から。僕らの価値観は周りの環境によって作られてきた。僕らは自分の精神状態がそれらと違わない限り、自分を正常なのだとそれ以上深く考えなくなってしまう。だからこその常に変化、アメーバみたいに。変えていく。より拓けたカオスになっていく。自分の体に関する感受性は高くとも、心に対する感受性ははるかに分かりにくいんだろう。自分を知っていると思っている人は身近を知っているだけなのである。

狭い視野でなにかを絶対視することは、生きやすさもあるんだろう。だがそれは白雪姫に出てくる魔女と変わらない。陶酔。自分しか見えていないナルシスト。自分に恋していると自分を愛せないし、ましてや人を愛せんのでは?と思っているわけだ。ナルシシズムの脱却は愛するためのマストな条件なのではないか。

色眼鏡で大切な人をみるわけには行かない。ナルシシズムが強ければ強いほど相手を歪めて捉えてしまう。ありのままのその人の価値を信じるためにはナルシシズムを減らしていくことは必須だ。

ナルシシズムの傾向が強い人は自分のうちに存在するものだけを現実と捉える。だからこそ客観性を身につけなければ。人間やことものをありのままにみてカオスに触れる、入り込む。自分の欲望や恐怖につくられた歪められたイメージを矯正していく。

そんなものを自分を語る背景を消し、変化していくための基盤づくり、そこにモバイルハウスの意義が生まれる。

中庸に近づく。バランスをとっていく。それは淡々とした孤独な作業。


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