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もっと叱られたい、と思う夜

もっと叱られたい、と思う夜がある。

もっと詰められたい、ダメなところをもっと教えてほしい。叱られて、どん底まで落ちなければならない。そう思う夜がある。

なんて口にすると「Mなの?」と聞かれるのだけれど、恋だの愛だのそういったものにはまったく関係ない。仕事の話だ。たぶん、いや、今私は確実に、自分に対して怒っている。

昨年1月に専門学校を辞め、とある会社でライターを始めた。今年の1月にその会社を辞め、今は会社に属していない。フリーランスと言えば聞こえはいいが、まあのらりくらりと生きている。この1年9か月、わたしを叱り、詰めてきたのは両親だけだ。

前にいた会社で、上司が言っていた。「週次報告が辛い」と。上の人たちからとにかく詰められるのだそうだ。彼の顔に落ちる影を今でも覚えている。その話をエレベーターの中で聞いて、わたしも詰められたい、と思った。

子どものころはよく叱られた。両親や親戚、学校の先生、スイミングのコーチ、学校の先輩、よさこいのメンバー。

小学生のとき、「スイミングのコーチが子どもに対して威圧的で自分と合わないから辞めたい」と両親に打ち明けた。ふたりの鬼のような顔と車中に響いた怒号は、今でも忘れられない。

昔から、「人として、上に立つ人間としてどうなの?」と思うことにはよく盾突いていた。「3年は続けろ」と怒りを滲ませる両親に、「人格がおかしい人間のしたに3年もいたら死んでしまう」と言い放った。

小学生から高校生までの7年ほど、大きい大会で大賞を獲るようなチームにも属していた。今思い出しても「あれはひどい」と思うほど叱られたけれど、愛のある厳しさは幼いわたしを成長させてくれた。
上手く踊れない自分に苛立って、悔しくて、なにくそって歯を食いしばったあの経験がなければ、今以上に脆い精神を持っていただろう。

愛のある厳しさを持った人は、人格を否定したり、むやみやたらに怒鳴ったりしない。その道を極めている人に「お前はダメだ」と言われれば、自分をそう評価できる。わたしは‘‘他者’’がいてこそ自分を認識できるのだから、自分の判断や認識だけに頼ることはできない。他者から見ても良いものを作れなければ、そんなの自己満足だ。作る意味はない。

ぬるいプールに浸っているような今の状況をなんとかして変えたい。他者にダメだと言われ、要らないプライドをとにかく粉々にされたい。

わたしは現状に甘んじている自分に怒っていて、もっと頑張りたいんだな。他者の判断や評価に依存するのはよくないけど。言葉にするって大事ですね、やっと腑に落ちました。ってことでまずは目の前のことにしっかり向き合ってみます。

ちなみに叱ってくれる人は絶賛募集中です。お叱りに対する反論はします。

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