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反応する勇気と、反応に敏感であることと

雑誌が好きだ。最近は、本屋にふらりと立ち寄ると、だいたい1冊雑誌を抱えて出てきている。

雑誌を買う楽しみは、福袋を買う感覚にも似ている。webメディアや本とは違った、街で穴場のお店を見つけるような記事との出会いが嬉しい。

好きな雑誌は、と聞かれて真っ先に思い浮かぶのは『ソトコト』。福祉やソーシャル分野に関心の高い人にとってはベタな一冊かもしれない。「ソーシャル&エコ」をテーマに、ポップで愛らしい見せ方が、内容はもちろん発信としても参考になる。また、連載を持っている方々と全体に共通する空気、哲学、世界観が好きだ。

なかでも好きなコーナーが『やる気あり美』の太田尚樹さんによる『ゲイの僕にも、星はキレイで肉はウマイ。』

ゲイ当事者である太田さん。ご自身の体験やセクシュアリティに関わることを取り上げているのだが、セクシュアル・マイノリティが受け入れられるべきという発言ではなく、ただ出会ったことから感じたことや思うことを、笑いを交えながら書いている。短編小説を読むような感覚でサラリと読め、読み終わりにはセクシュアリティに限らない「人との関わり」について、自然と何かしら感じられる連載だ。

最新号の太田さんの記事では、 実際にあった飲み会での一幕が描かれていた。その内容は特別なことではなく、お酒の席ではありがちな光景にも思えた。

お酒の席や親しい関係の冗談は難しい。通常であれば失礼に当たることも、相手との距離感が違えばジャレ合いになる。だから、一括りに「こういう発言はしてはいけません!」とは言えないし、それだと窮屈だ。でも、親しければ何を言ってもいいのかというと、そうではないはず。その難しさと突破口が、今回の記事から感じられた。

発言者が冗談で言ったつもりが冗談になっていない、そんな場面について太田さんはこう書かれていた。

相手にどう感じられるかばかりを考えて言う冗談なんて、それこそ冗談じゃない。
だから大事なのは「冗談じゃん」と言った時に、相手が嫌悪感を示すかどうかにちゃんと敏感であることだと思う。

ああ、と思った。つまり、心地よく冗談を言い合える環境や関係を作るには「この人は嫌なことがあったらちゃんと反応してくれる」「この人は嫌だと伝えたらすぐに感じ取ってやめてくれる」という信頼が必要なのだろうと。

太田さんは記事で発言者の感覚のアップデートを呼びかけていた。私は同時に受け手の「相手に伝わるように反応する力」も必要なのではないかと感じた。

「伝えたつもり」ではなく、まっすぐ本人に「それは、ダメです」と伝えたか。

ハラスメントや差別の話題が出ると「普通に考えてありえない」「今の時代を考えたらありえない」という言葉がときどき見受けられる。私自身、そう感じることもある。

けれど、それはもしかしたら「リテラシーがあると思っている人たちの『普通・常識』の押し付け」かもしれない。自分たちが嫌だ嫌だと言っていることを、別の立場の人に行なっているかもしれないと、ときどき思う。さらに、今後ダイバーシティがますます進めば、それこそ価値観がもっと多様化し、何が「当たり前」かなんて誰にもわからなくなるかもしれない。

だから、発信者が相手の反応へ敏感である重要性と同じぐらいに、受け手も「一度目は許す心の広さ」と「相手に伝わるようにしっかり『嫌です』と反応する勇気」を持って接せなければならないと思うのだ。

「嫌そうな雰囲気を出していたのに」ということや、セクハラまがいの発言に「それセクハラですよ〜」と言ったのに、ということもあるかもしれない。

でも、それだけでは相手になかなか伝わらない。嫌そうな雰囲気を出している人には「シャイなのかな、もっとフレンドリーに接してみてあげないと」と思う人もいるだろうし、「セクハラですよ〜」と明るく返されたら「ほんとは嫌がってなくて、相手をしてくれている。そういう定型のやりとりだ」と思う人もいるだろう。反応を受けて、相手なりに解釈して頑張った結果が真逆ということだって起こる可能性はある。

発信者が相手の反応に敏感であり、失礼があったときは素直に謝ってすぐに軌道修正することはもちろん、受け手がしっかり反応して快・不快を伝えること。両者があって、はじめて冗談を言い合える関係性が成り立つのではないだろうか。

まっすぐ伝える・反応するって、実は難しい。

通っているインプロ(即興芝居)のワークショップでは、「相手から影響を受けて反応する」「その反応を相手や観客にわかるように伝える」ことを大切にしている。シナリオも台本もない即興の世界では、互いの反応が道標。反応がないとドラマは動かない。

ところが、この「反応し、相手にわかるように伝える」ことが、思いのほか難しい。

私自身、ワークショップでよく「今、何思ったの?」と聞かれる。自分ではしっかり思ったことを伝えているつもりなのに、振り返ってみると一つも言葉にしていないことが多い。婉曲に表現していたり、「悲しい・嫌だ」を相手への攻めに変えて表現していたり、相手から投げられた言葉にモヤっとして本当は自身の中で起こっているはずの反応を逃してしまっている場面も多々ある。

その度に「言ったつもりだった。伝えたつもりだった。でも、振り返ってみたら自分でもちゃんと言ってなかったことに驚いたし、これでは相手が受け取れないのも仕方がない」と振り返っている。

反応することを前提に物語を作ろうとしているインプロのワークショップですら、これだ。相手との関係性や空気、文脈が頭をよぎる日常では、もっともっとボカしてしまっていることが多いだろう。

何かしら嫌な対応をされたとき、受け手である自身がその状態では、相手だけを責めることはできないと思うのだ。

発信と受信、どちらもあってのコミュニケーション。私自身、発信者として心構えと相手からの反応に敏感である力をアップデートするとともに、受け手としても反応する力を磨きアップデートしたい。

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