ちゃんと寂しくなって、ちゃんと悲しくなって。
2021年の5月24日、母方の祖母のわんこ(クレア)が旅立ちました。4月だったかなと思ってTwitterを辿ったら5月で、まだ一年経っていなかったけれど、なんだか不意に思い出したので、今日はそのときのことを。
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その前日、祖母から電話がありました。少し前からクレアの調子がずっと悪いと心配していた祖母。「明日どうしても出ないといけない仕事があって、代わりにクレアのそばにいるようにうちにみにきてくれないか」との相談でした。
行けないことは、ありませんでした。平日だけど、リモートワークなので、ちょっと無理すれば対応できたんです。
けれど私は、渋りました。「行けないことはないんだけど、でも……」って。
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「だってあなた、リモートワークって、出社しなくていいんでしょ? どこでも仕事できるんだから、来れるわよね?」
「いや、それはそうなんだけど、でもね、オンラインのミーティングもいくつか入っているし……」
「クレアがかわいそうなのよ」
「どうしても、どうしようもないなら、行けないことはないけれど……」
「じゃあ、来てくれるのね」
「いや……」
「だけどクレアのために来たからって、仕事に支障をきたしちゃだめよ」
「いや、だから、行けないことはないけど、支障は大有りですよ」
「じゃあダメね」
「おばあちゃんこそ、その仕事休んだり人に代わってもらったりできないの?」
「なんとかしてみるわ」
「なんとかならなかったら、もう一回連絡ちょうだい」
・・・
面倒だったわけでは、ありません。クレアのことだって、好きだった。仕事だって、本気になればなんとかなりました。
だけど、私が行っちゃいけない気がした。
クレアは、私じゃなくて祖母と一緒にいたいと言っているような気がした。そして、明日いなくなるような気がした。だから、祖母がそばにいてあげないといけないと感じていました。
・・・
その翌日、クレアは祖母に看取られながら、息を引き取りました。
数日後、電話をかけてきた祖母。いつも通りスマホを耳から3センチ離さないと会話ができないような自分勝手に元気な調子で、仕事のことやら日頃の愚痴やらたわいもない話をしたあと、聞き逃してしまうほどに消え入りそうな声で、ポソリと呟きました。
「クレア、いなくなっちゃったよ。ちゃんと看取れたよ。ありがとね」
そのままこちらがことばを返す前に、電話は切れました。
その祖母の声を聞いて、「ああ、あのとき『わかった、行くね』と言わなくて、よかった。ちゃんとおばあちゃんが看取れて、よかった」と、寂しいよりも先に、ほっとしました。
祖母は、今は辛いかもしれないけれど、ちゃんと看取って、ちゃんと寂しくなって、ちゃんと悲しめているのだと。安心しました。
クレアをみにきてほしいと電話があったとき、こうなる予感がしていたのは、不思議な力なのかクレアの声なのか。そういうことって、あるものなんだなぁ、と思いました。
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だけど、看取れなかった私は、いまだに本当にいないんだという実感が持てずにいます。祖母に会いに行ったときにクレアがいないことに、違和感を覚える。遊びに行けばパッと駆けてきて、なでろなでろと頭をスリスリしてくるような気がする。
当時はコロナが云々と言ってしばらく祖母に会えずにいたから、クレアに最後に会ったのはその半年以上前でした。
もっと、会えばよかった。なでろなでろと言われたときに、面倒くさがらずにメタメタにかわいがってなでまわせばよかった。そうして、星になったとき、もっとちゃんと寂しくなって悲しめばよかった。
そういう後悔が、なかなか消えきりません。
・・・
その後悔があるから、まだ読めずにいる本があります。『ウィスキー! さよなら、ニューヨーク』。
ずっと読みたいとは思っていて、そろそろ一年経つし読めるかなと、先日、中古を手に入れました。でも、人懐っこそうなウィスキーの顔の横に「さよなら」の文字があるを手に取って見ると「ああ、まだ読めないなぁ」と感じました。
そして読めない自分に、やっと私はクレアに会ってこなかったことを後悔しているのだと、気がついたんです。
いつか、ちゃんと読める日が、くるかな。くるといいな。
・・・
仕事や原稿なんて、遅れたって死にはしません。ちょっと大変になるくらい。
だけど、命あることは取り返せないから。「もう一回!」ができないから。心を注ぎきらなかった後悔は、尾を引くから。哀しみの淵まで、しっかり愛して、しっかり寂しくなって、しっかり悲しんで、そうして心を注いでほしい。
私も、ちゃんと寂しくなって、ちゃんと悲しめる人でありたい。そういう環境と状態を保っていきたい。
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