同人誌 三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)(原文x3倍)の超解説・補足本

 本書(この成長し続ける同人誌)は、
「Wikipediaの三大文学作品」といわれる物語の2次創作となります。その原文は約8000字程度に対して2倍以上の文書量(特に地理と、クマの生態をわかりやすく)を加筆修正し、3倍強の約24000字以上になった超力作です。

 またTRPG SW2.0/2.5にも使用可能な簡易シナリオ付きです。

…電子書籍の利点を活かし、クマのすべてが解るよう、不定期にVerUPし続けています。

 事件が起こってから、ゆうに100余年が経過しました。時代も大きく変わり、当時と同じ環境下を探す方が難しくなってきています。

 ですが風化・形骸化されてしまってよい話では、ありません。個人レベルでここまで調べあげました。

 天才を超えるものは、クリティカルシンキング≠発想だけという考え方もあります。もしあなたが凡人から天才肌に近付きたいのであれば、本書により「目の付け所」を養うこともできるでしょう。知の探求結果のひとつの形をぜひともお楽しみください。

⑱🈲シナリオー


はじめに


数多くの同人誌の中から、当書をお手に取って頂き誠にありがとうございます。


訳者のWingdom星野です。
(著者はWikipediaのみなさまです。)

 本シナリオは当初、TRPGソードワールド2.0/2.5対応を企図しておりましたが、物語としての方が遙かに迫力に勝る、と。敢えてシナリオ化は簡略化させております。

 また本作品は、10年以上続く我がサークル「グループ・ファンブラーin有明」始まって以来の「18禁作品」であります。


 えー、コミケにおいて『年齢制限付きの』というのは、一般的に非常にエロス感アフレル物語となるの・・・ですが…、

 当本は、えっちな描写が中心にあるわけではなく、というかむしろ皆無でありまして(汗)

 現実に起こった、最も凄惨で、かつショッキングな害獣被害である事件描写を、かなり刻銘に綴った(史実に限りなく近い)物語になります。


 このストーリー・シナリオには、暴力的かつ大変、「凄惨で猟奇的な記述・表現」が多分に多く含まれており、読む人に心の強さ(タフネス)を激しく要求することから、

特別に わかる人のみ に向けたシナリオとして頒布するのが妥当であろう。との判断から、

各所の免責事項も必ずお読みください。


 …なお、簡易的な目安としてですが、(取り敢えず)TRPGソード・ワールド2.0の基本ルールブックⅠ、p353にある「デュラハン」の馬のイラストをみても、平然と大丈夫な方ですかね。

 というわけで、

本シナリオ、本物語をお読みになった事で、いかなる不利益をこうむろうとも、当サークルを始め、販売関係者等は一切の免責を負わないものとします。

 また本書は、
史実を基にしながらも、情報ソースの主たるがWikiPediaである点、さらに訳者Wingdomがかなりの脚色を加えているため、全くの別物として創作小説風物語として楽しんで頂ければ幸いです。


 本書は、2次創作となります。



重ねて繰り返しますが、当ストーリー・シナリオは、フィクション(想像によって架空の筋や事柄をかなり追加している虚構作品)で創作小説です。

 ですが、限りなく、史実(を元に描かれたノンフィクション)に近い物語構成となっております。…それが故に 実際に起きた事実は時に、大変あなたの心身に堪える〜可能性も多分にありますので、くれぐれもお気を付けください。


(訳注
 よく効く一級の医薬品は、お医者様の処方箋が必要不可欠です。薬局等で買えるOTC医薬品にも、薬剤師のアドバイスが欠かせません。良薬も取扱方法を誤ると、悪薬になります。…本書も同じく、向き合う方によって良書となり、悪書にもなるでしょう。

 あなたがどちらにできるかは、私どもにはどうこうしかねますので。

…ただ読者のみなさまの良識を、私達は信じております。)



 なお、できる限り、ソース本文を尊重しつつも、(訳注)という形で、かなりの補足説明を追記しています。原文は、8200字程度でこれだけでも、かなりの読み応えがあるものですが、加筆修正を加えに加えていくうちに、文量は24,000字以上になりますので(よろしければ)ごゆっくりお楽しみください。
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SW2.0/2.5で使用できる?かもしれない。討伐シナリオ。

ゴブリン(Ⅰ387イラスト参照、またはスタートガイド冒険の国グランゼールp78p82参照)に飽きた、そこのあなた!

…時代は、クマです!!!

 高LVの冒険者(超越者たち)に神々から与えられた試練は、魔剣の獲得などではなく、(技能レベルを持たない)人々を導く、演説の材料を集める為のパワーピースを獲得することであった。この超特殊な剣の迷宮内は幻界に繋がり、全冒険者の全技能レベル(特技等含む)は全て封印され、全能力値は12に、最大HPは10,最大MPは0に強制変更される。

 そして、(足手まといの)人々と同じ能力でありつつも、創意工夫だけで、圧倒的な敵戦力と対峙しなければならない。…敵は、神出鬼没の圧倒的な力を持つクマ1体であった。このクマと近接戦闘を選択すれば、もれなく、一撃で屠られる。…さあ、どうやって対処する!?

  PLは3日間生き残ることができるのか?、或いは伝説のマタギへいち早く、助けを求めることができるのか?



クトゥルフを超えた!本当の恐怖。
・・・それは、○○(クマ)の討伐に向かう冒険者たちであった。



パラノイア風
コミーでミュータントで反逆者な裏切り者へ捧ぐ
バスター(討伐)シナリオです。
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・羆事件(ひぐまじけん)
害獣(クマ単体)により、日本史上、最悪の被害(死亡者7名、負傷者3名)を出した事件のひとつ。

・三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)
100年以上前の、大正4年(1915年)12月9日(木)から12月14日(火)にかけて、北海道の北西部で起こった。

当時の住所で、
(北海道 天塩国 苫前郡 苫前村 大字 力昼村  三毛別 御料農地六号新区画 開拓部落 六線沢)(現:苫前町三渓)である。

(以下、住所解説
(参考)引用元:「北海道環境生活部アイヌ政策推進室アイヌ語地名リスト」 ※アイヌ語の地名比定地について等を参照。http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/new_timeilist.htm (なお地理情報は令和元年度現在である。)

※北海道:割愛
※天塩国(てしおーー):現在の天塩町(てしおちょう)
北海道北部の西海岸に位置する町。北海道内第2位の長さを誇り、北海道遺産の大河、(北西を流れる)天塩川の河口に位置する土地(大ぶりなシジミの産地として知られる)。

※苫前(とままえ)郡(ぐん)・村(むら)
 アイヌ語のトマ(えぞえんごさく:食用野菜)+オマ(そこ・ある)+マイ(ところ)に由来する。
 エゾ エンゴサク(蝦夷 延胡索)は、毒性が無く風味が良いので、花を含む地上部は普通の野菜のように加熱調理して食べられる。
 アイヌ語で「トマ」と呼ばれる地中の塊根は、保存食として利用されてきた。 
 4-5月には青色から青紫色の花を総状花序に咲かせ観賞用としても良い。
 地中の塊茎が、漢方薬の「延胡索(えんごさく):鎮痙、鎮痛作用等があり、大正中薬胃腸薬、太田漢方胃腸薬、安中散、牛膝散などの漢方方剤に配合される」に似ていることからそう名付けられた。蝦夷(えぞ)は当時、北海道の別名であった。
 (類語地名に、苫小牧 (トマコマイ/(訳注)トマコマキではない):千歳空港の南にある港町。
では「・に入っている・川」と解される。)
 アイヌ時代の人々は、川を交通手段として使われていたため川筋の土地は、その川の名で呼ばれたことから、地名としても使われていた。 

※大字(おおあざ)
(訳注)簡単に言ってしまうと、○○町。 
地方自治法や住居表示に関する法律において「町又は字」として町と字は区分されない。町であるか字であるかを明確にしていない自治体もある。
・大字と小字の別なく 字(あざ)として扱われる。
 例えば合併される時などでは、「○○」が大字、「□□町」が小字であるというのではなく字を廃して「○○□□町」という新たな町が置かれる場合が多い。
 なお、「△△市○○□丁目」のような場合は「○○□丁目」が一つの町名である場合と、「○○」が町名または大字名で「□丁目」が小字である場合がある。

 この頃の北海道は「基本原野」で人が住んでいなかったところに(東北地方を中心とした)開拓民が、新たに町や村を起こしていった時期であったため住所にも〜村、〜村という並列表記が増え続けていた発展期であったことを示している。

※力昼(りきびる)村
高い・崖の意味

三毛別(さんけべつ):詳細は下記

御料農地六号新区画 開拓部落

六線沢


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※クマの獣害としては、日本史上最悪の被害を出した凄惨な事件。

 六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれる。

 現地では、三毛別羆事件の復元がされており、(現地にゆかずとも、Google Map等にておよそ2)当時の様子をうかがい知ることができる。

今でも再現された巨羆(体重340kg、体長2.7m)の姿があり、一緒に映るヘルメットと比較すると、その巨大さが推し量れる。このエゾヒグマが数度にわたり民家を襲った。

 結果的に、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。 事件を受けて討伐隊が組織されたものの、、、問題のヒグマが射殺されたことで事態は終息した。


(訳注 事件場所の補足
 事件の現場となった三毛別六線沢は、北海道の北西部にある。(北海道の南西部にある)札幌から、最北端(稚内)間のおよそ中間地点にあたる。(日本海沿岸部に近い)海沿いから、川づたいに、内陸へ30kmほど入った地区である。令和に入った現在は、ルペシュペナイ川沿いに、1049号線:ベアーロードが通っている。
 地名の「三毛別(さんけべつ)(訳注 三毛猫:みけねこではない)」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サン・ケ・ペツ(san-ke-pet)」に由来するといわれる。)
 北海道内の地名は、アイヌ語に当て字をした地名が大変多く、漢字の類推する意味は、ほとんどできないと言って良い。例えば現地から近い大きな街のひとつ、留萌(るもい):北海道北西部の街 近郊にあるバンゴベ トンネルなどは、アイヌ語 「パンケベツ」(下流の川) からの転訛(てんか)と言われる。
引用元:「北海道環境生活部アイヌ政策推進室アイヌ語地名リスト」 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/new_timeilist.htm
※アイヌ語の地名比定地について公開している。

 近くを流れる2級河川古丹別川水系の川の名も「三毛別(さんけべつ)川(がわ)」といい、「山から海へ出る処・川」の意味で、冬は山川の上流に部落を造って狩りをし、夏になって海沿いの部落へ出る時、この川沿いを通路としたことからそう名付けられた。)


 なお、六線沢の開拓民は、東北地方などから移住してきた人々で、元々古くから北海道に住んでいた人はいなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー現地沿革
縄文時代より栄える。
江戸時代(慶長年間)松前藩がトママイ場所を開く。
1786年(天明6年) 苫前神社の創建。
※アイヌ民族は、おおよそ17世紀から19世紀において東北地方北部から北海道(蝦夷ヶ島)、サハリン(樺太)、千島列島に及ぶ広い範囲をアイヌモシリ(人間の住む大地)として先住していたと考えられている。
1869年(明治2年)北海道で国郡里制が施行され、天塩国および苫前郡が設置される。開拓使が管轄。
1880年(明治13年)苫前村・白志泊村・力昼村の戸長役場を苫前村に設置
1888年(明治21年)8月 苫前郡苫前村が白志泊村を編入
1894年(明治27年)2月3日 苫前郡羽幌村(現羽幌町)を分村
1897年(明治30年)7月15日 苫前村の戸長役場が羽幌村戸長役場を分離
1902年(明治35年)4月1日 苫前郡力昼村(りきびる)を編入、二級町村制、苫前郡苫前村
1915年(大正4年)4月1日 一級町村制、苫前郡苫前村

1915年(大正4年)12月9日-14日 三毛別羆事件。苫前町三毛別(さんけべつ、現在の地名は三渓)でヒグマが民家を襲撃した。ヒグマは最終的に射殺されたが、死者7名、負傷者3名の被害が発生し、日本獣害史上最悪の事件となった。

1948年(昭和23年)10月1日 町制施行、苫前町

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(コラム) <ヒグマとツキノワグマの違い>
 日本には2種の熊:クマがおり、
羆:ヒグマ(学名Ursus arctos「熊」の義)は北海道にのみ、生息する。

月輪熊:つきのわぐま(Ursus thibetanus「チベットの熊」の義)は本州以南にのみ現棲している。(羆は冷涼な、月輪熊は温暖な気候を好む。)

 羆の最大のものは、雄で体長2.4m、体重400kg、雌は体長1.9m、体重169kgである。

 月輪熊の最大のものは、雄で体長1.5m、体重120kg、雌は体長1.3m、体重90kgである。
両種とも、発情期(5月下旬~7月上旬)、出産期(1月~2月)、子の数(1~3頭)、養育期間(子が1歳ないし2歳過ぎるまで)は同じである。)

 なおヒグマにも(ツキノワグマのように)首に白毛のある個体もいる。

 参考書籍:ヒグマ学への招待【自然と文化で考える】増田 隆一 氏 巻頭カラー参照
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〜くまファースト・コンタクト〜

出会いは突然に!

(※訳注「大事件は、一ヶ月後に起きます」)


〜事件の約一ヶ月前〜 また保存食が食われただ!。騒動

1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前

六線沢の池田家に、巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしだけに留まった。

 村は開拓の端緒にかかったばかりの土地であり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。

 クマ1度目:とうもろこしの味を覚える

旨そうな馬がいたので、今後食いに来ようと思った。…まあ、きょうのところはこれで勘弁してやろう。

(訳注
クマの食性は(種別での差はなく)、草類・木の実・蟻・鳥獣類やその死体・蜂・果樹作物・家畜・魚などで、稀に共食いをすることがある。
 これほどの体長、充実した体格を誇るということは、それだけ山の秋の実りが豊かであったということだ。)


〜事件の約20日前〜 やべえのがうろついてやがる!騒動
11月20日(日)、ふたたびヒグマが現れた。
馬のあたりをうろうろしていたが、こちらに気づいて去っていったようだ。

 …そこで、馬への被害を避けようと、

池田富蔵は在所と隣村から、2人のマタギ
谷喜八(たに きはち)と
金子富蔵 (かねこ とみぞう)
を呼び、3人で待ち伏せることにした。

 クマ2度目:様子見。

馬は旨そうだが、めんどくさいやつが近くにいる。
また後で来よう。なあに、急ぐ必要はない。…あそこには、うまそうなもんがある。うん。間違いない


〜事件の9日前〜
あれから10日間も出ないから、安心しきっていたが、やはり来たか!!騒動
11月30日(火)、三度ヒグマが現れたため、ついに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。

 その夜、
(長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、)
次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で、村の南西にある鬼鹿山(標高366mの低山)方向へ続く足跡を追い、血痕を確認していった。だが(季節柄もあり)、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃は断念した。

(訳注 この時期、北海道の内陸山間部は常に雪に覆われていました。
 令和元年に調べた気象庁のHPから
北海道の初雪は、北の先端にある稚内:わっかないが、もっとも早く・遅く、年平均で10月22日〜5月2日まで(長期積雪で11月26日〜4月4日まで)、道内でも雪が少ない南西方向の函館で、11月3日〜4月13日(長期積雪で12月16日〜3月13日まで)が雪に覆われます。
 …雪のふらない土地柄(例えば、日本一美しい景色の一つとされる「京都の紅葉狩り」の時期は、例年11月上旬から12月上旬が最大の見ごろとされています。他にも多くの紅葉名所でこの時期は、まだ秋であり、雪が覆う真冬であることはまず有り得ません。)では、なかなかイメージしづらいでしょうが、冬の北国はそんなものです。

 マタギたちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由(普通は①穴を見つけきれず、②穴はあったが同族との争いに破れ、穴を失ったか?)により冬眠し損ねたクマであると語った。
 さらに(訳注 北海道産ヒグマの1歳以上の雄の手足部の横幅は、約9.5cm~大きくとも18cmのところ、なんと)約30cmという足跡の超巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、古来から「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。

(訳注 北海道産ヒグマの足跡 約5.5cm〜約15cm
(1歳以上のメス9.5~14.5cm、オス9.5~18cm)
 ※ヒグマの出産期は1月から2月中旬であるから、野生ヒグマの年齢推定にあったっては、出生日を便宜的に2月1日に統一して計算する。
2/1前後 生後間もない、子ヒグマの手足部の最大横幅は1.7~2.4cmである(頭胴長25~35cm、体重300~600g)

GW前後(3ヶ月齢を過ぎる)越冬穴から母子が出る頃、子ヒグマの手足部の最大横幅は5.5~8cm、(頭胴長は55~75cm)
山野で見られる足跡の最小幅は約5.5cmのものである。

 手足部の横幅が9cm以下なら、1歳未満の新生子で、1歳以上は9.5cm以上になる。個体差から、手足跡の大きさから年齢を特定できるのは1歳未満か1歳以上かが分かるにすぎない。(体の大きさ(頭胴長)と手足の大きさが必ずしも一致しないためである。)
 だが、最大横幅が15cm以上は雄である。
北海道産ヒグマの1歳以上の雄の手足部の横幅は、9.5~18cm、雌は9.5~14.5cmで、性別差があり、最大横幅が15cm以上の足跡は、雄と断定してまず間違いない。)


 クマ3度目:様子見のつもりだったが、手傷を負って怒り狂う。ついでに吹雪いてきて、超寒くなってきたので、もっと怒る。※いてーし、さみぃーし…フンガー!

 家主:発砲し、血の跡を追ったが、吹雪がやばくなってきたので、今日はこのくらいにしといてやる。もう来ないでくれよ騒動

(訳注 マタギ
とは、古い方法を用いて集団で狩猟を行う者。鉄砲を生業とする猟師のことを指す。)


〜事件前夜〜
12月8日(水)
この時期(秋から冬にかけ)開拓村では、
収穫した農作物を(都市部へ)出荷・運搬する
さまざまな作業に追われていた。

 三毛別のような僻地では、それら作業のほとんどを人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。

(訳注 …この時代は、まだ馬が主流の時代で、自動車の本格的な国内生産もまだ始まってすらいなかった。)


〜事件当日、1日目〜太田家の惨劇編
12月9日(木)の朝
三毛別川上流に居を構える太田家でも、
同家に寄宿していた伐採をする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳。通称オド)が一足早く仕事に向かい、

当主の太田三郎(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)に用いる桁材を伐り出すため出かけ、

三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった・蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。

 同日の昼、伐採師オドが食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄6才がぽつんと座っていた。ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思ったオドは、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。

 そのとき、オドは幹雄の顔下に流れ出た血の塊と、何かで鋭くえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。側頭部には親指大の穴があけられ、すでに幹雄は息絶えていた。

 オドは恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。ただならぬ事態を察したオドは家を飛び出し、夫(さぶろう)のいる下流の架橋現場に走った。駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。

 入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。(トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿に、マユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。)

 巨大なクマの足跡が続く居間を調べると、まだ火がくすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。(それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。)そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。

 伐採師オドが幹雄6才の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯(じゃがいも)が転がっていたことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。

 また、午前10時半過ぎに三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいていたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、そのときは特に騒ぎ立てなかったのだ。これらのことから、事件は午前10時半ごろに起こったと推測された。

 (妻と息子がクマに食い殺された)事件の一報に村は大騒動となった。しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、荒れた部屋を片付け、息子(幹雄6才)の遺体を居間に安置したころには午後3時を過ぎ、この日に打てる手はもう少なかった。

(訳注
この時期は16時前後には日の入りし、辺りは暗くなる。時代的には、既にタングステン電球が実用化されているが、このような山間部では明治になるまで、屋内では植物油を燃やす行灯(あんどん)、灯油を用いる石油ランプ、携帯用としてロウソクを使う提灯(ちょうちん)、龕灯(がんどう)が主流であった。
 工場の電化率が50%を超えるのが2年後の1917年、電灯普及率が87%になったのが12年後の1927年である。
 まだまだ、朝日と共に起き、日暮れとともに眠りにつく時代であった。石油が採掘されるようになるとランプの燃料は、灯油に完全に置き換えられるが、電力が普及するまで一般家庭の照明は、洋燈(石油ランプ)とロウソクが二分し、一般にロウソクのほうが高価であるため、ランプは貧しい家庭の照明を担っており、器具には、吊り下げるものと、据え置くものとがあった。)


 男達は太田家から500m程下流の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。

 ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、取り急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。

 しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。

 太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎が連絡のため留守の間、また当主の安太郎も仕事で鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならなかったため、互いが留守の間、

 被害のあった太田家から、上流の斉藤家よりも、
ここ500m程下流の明景家に
妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、
三男・巌(いわお、当時6歳)、
四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、伐採師オドも男手として同泊する手はずが取られた。

 クマ4度目:(秋が終わり12月にもなると餌も少なくなり)超腹が減って気がたっていたので、保存食(とうもろこし)を探しにゆく。「以前のところは、怖いので」、他の家を物色なう。様子見のつもりだったが、美味しそうなのを見つける、らっきー。トウモロコシを食べようと、窓に近づいたら、(驚いた声を上げられたので)こいつはもう俺のもんだと交戦開始。少し手傷を負ったものの、超弱く食ったら旨かったので、大満足。空腹のため、ほとんどを一気に平らげてしまったが、近くのトド松の下に(食いにくかった)頭と脚下を埋めて保存する。でもまた腹が減ったら取りに来よう。…次も狙ってゆくことにする。ひさびさに超満足クマー。


〜事件当日、2日目〜捜索編&捜索隊30名vsヒグマの遭遇編〜
12月10日(金)早朝、
伝令に選ばれた斉藤石五郎は(村役場と巡査駐在所、そして幹雄6才の実家:蓮見家(力昼村(現・苫前町力昼))へ連絡のため)村を後にした。

 残る男たちは、ヒグマを討伐して妻マユの遺体を収容すべく、約30人からなる捜索隊を結成。

 昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりで突如ヒグマと遭遇した。

 馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色の一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。

 鉄砲を持っていた5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、その銃声であっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。

 改めて周囲を捜索した彼らは、太田家から150m離れた場所にあるトドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気づいた。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていない妻マユの遺体だった。・・・このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。

 クマ5度目:(餌が少ない中)あるところにはあるもんだ。物色なうしていたら、超大勢やってきた!ここのシマはわしのもんじゃ!せっかく見つけた餌場をお前らにやるもんか〜とブチ切れるも、鉄砲を1発食らって、即退散。アレはあぶねー。あれだけは気をつけよう。


〜事件当日、2日目、夜その1〜
太田家への再襲編
夜になり、幹雄の両親とその知人3名が到着。

太田家では幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのは六線沢から3人、三毛別から2人と幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった。
(幹雄の実母・蓮見チセ(はすみ ちせ、当時33歳)が酒の酌に回っていた。)

 午後8時半ごろ、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが(マユの遺体を取り返すため)室内に乱入してきた。

 棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。

 混乱の中、ある男はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間ではけんかが絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。


(訳注
※羆は身体が大きくなると木登りしないため。高い所に逃れるのは、有効とされる。なお、本州以南の月輪熊は身体が大きくなっても木に登る。)

 この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶(訳注 灯り用の灯油、一斗缶)を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。

 さらに300m程離れた中川孫一宅で食事をしていた50人ほどの男たちが物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、そのころにはヒグマはすでに姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。

 クマ6度目:せっかくの餌場なのに、ライバルが大勢、訪れるようになってしまった。…30名とか多過ぎだろ!しかも鉄砲持ちまでいやがるとは・・・あれはいかん。…もしや、この前隠したのは大丈夫だろうな?(何か嫌な予感がしたので)隠したトド松の元に行ってみると、悪い予感、大的中。

 怒り心頭で、取り返しにゆく。なあに、まだ血の匂いの跡が残っていやがる。…これは、前行った家のところだと⁉ 当然、フンガー!とバーサクモードで突入したら、聞き慣れない甲高い高音域(石油缶)で打ち鳴らされるは、やっぱり撃たれるは〜したので、恐れをなして即逃走。

くっそー、他を探してやるもんね!


〜事件当日、2日目、夜その2〜明景家の惨劇編
明景家には
安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、
長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、
次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、
長女・ヒサノ(当時6歳)、
三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、
四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、

 斉藤家から避難していた
石五郎の妻で妊婦のタケ(当時34歳)、
三男・巌(いわお、当時6歳)、
四男・春義(はるよし、当時3歳)の3人、そして
伐採師オドの、
合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。

 前日の太田家の騒動を受け、避難した女、子供らは火を絶やさず焚きつつ、おびえながら過ごしていた。他にも居た護衛も、近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて、出動したため、男手として残っていたのは伐採師オドだけ(主人の安太郎も、仕事で鬼鹿村へ出かけたまま不在)であった。

 太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りの手薄な状態の明景家に向かっていった。

 クマ6.5度目:おいおい、なんか凄い勢いで、奴ら(50人ほど)が通り過ぎていったぞ? …ひょっとして、もしあのまま残っていたら、、、俺様、大ピンチだったか?・・・。まあいい、保存食も取られちまったし、今日もろくなエサを見つけられてねえ。せっかくの餌場…絶対近くにまだ美味いものが眠っているに違いねえ。…よーし、鉄砲持ちはいなくなったな。…まてよ、奴らがこんなにも出てきたってことは、ひょっとして奴らの巣(家)が近くにあるってことか?、そして今ならば奴らはいないと。…チャンス到来ってか。(じゅるりん


〜事件当日、2日目、夜その2.5〜明景家の大惨劇編
太田家からヒグマが消えて、20分と経たない
午後8時50分ごろ、
妻ヤヨが背中に四男梅吉1才を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、

 不穏な地響きがどんどんと、こともあろうに我が家に向かって近づいてきた。

男衆が出払った直後に!?

その地響きにまさかと思いつつ、その身を固くしていると、あろうことか突如、窓を突き破って、黒い塊が闇の中から家へ侵入して来た。

 ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉はない。…その正体は、見たこともない程、たいへん大きな巨大ヒグマだった!!

 真闇から来たクマは、たき火をみてさらに興奮したのか、かぼちゃを煮ていた囲炉裏の大鍋へ向かった。そうして大鍋がヒグマにひっくり返されて、あろうことか炎が消えてしまい、突然の闇夜に、一家は大混乱の中、誤ってランプなどの灯りも消してしまい、家の中はほぼ完全な暗闇となってしまった。

 この恐怖に、長女ヒサノ6才は失神し、無防備なまま居間で倒れたが、現場は大混乱に陥っており、かまえる者などなかった。

 まず、動けない妊婦のタケを野菜置き場のむしろ下に、ついで長男の力蔵10才を雑穀俵の影に隠した。妻ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた次男勇次郎8才に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた赤ん坊(梅吉)に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは戸口に走って逃げる伐採師オドに気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。

 追われたオドは慌てて物陰に隠れようとしたが捕まり、ヒグマの牙を腰のあたりに受け悲鳴を上げた。

 その声から一番厄介そうな者を戦闘不能にさせたことを悟ったヒグマは、驚異となる敵対象がいなくなったことを確信したため、獲物7人が取り残されている屋内の方に眼を向け、再度、攻撃目標を変えた。重傷を負ったオドはその隙に脱出をはたした。

 邪魔するものが居なくなった餌場で、ヒグマはまずもっとも容易そうな、三男金蔵3才と四男春義3才を一撃の元に撲殺し、さらに三男巌6才へと向かい噛みついた。

 我が子達(巌と春義)の窮地に、野菜置き場に、隠れていた妊婦のタケが、むしろから顔を出して叫んでしまったため、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。むしろごと居間へと引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。

 この母の決死の行動により、三男巌6才は、重傷を負いつつも(母の居た)野菜置き場に隠れることができた。

 一方、その頃、川下の太田家へと向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にしたため、急ぎ元いた明景家へと戻っていた。

 そこへ重傷の妻ヤヨと子どもたちがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。さらに重傷を負いながらも脱出してきた伐採師オドを保護したあと、男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内には(恐怖のため)うかつに踏み込めなかった。

 そうこうして、しばらくすると、屋内からは静寂の中、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き渡ってきた。

 時折、タケと思われる女の断末魔に続き、うめき声が漏れ聞こえてきたが、熊の暴れまわる鈍い音が続いたため、踏み込む躊躇が続いた。

 一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、残りの子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。

 簡易な相談の結果、集まっていた一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。裏手の者が空砲を二発撃つと、驚いたヒグマは入口を突き破り、表で待つ男たちの前に現れた。先頭の男が撃とうとしたが、またも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは山へ姿を消した。

 ・・・驚異は去った。
    だが、その後の家内の様子は、凄惨という他なかった。

 ガンピ(シラカバの樹皮)の松明を手に、

(訳注 白樺の皮は、ガンピまたはガンビと呼ばれ、漢字では「雁皮」と書く。薪や石炭を焚いていたこの頃は、大切な焚きつけ材であった。
 原木置き場に出かけ、マカバの太い丸太に、刃の長い鉈(ナタ)を打ち込んで傷を付け、バリバリと皮を剥ぎ取る。そうやって雁皮を剥がしておき、冬中の焚きつけとして貯めておくのは、子供の仕事であった。)

明景家に入った一行の目にまず飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海だった。

 そして無残に食い裂かれた妊婦タケと四男春義3才、そして三男金蔵3才の遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという。しかし1時間後には死亡した。

 長男の力蔵10才は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。

 長女ヒサノ6才は失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。

急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。

 日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の三男巌6才を見つけた。巌は肩や胸に噛みつかれて大傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。

 この大事件のため、六線沢の全15戸の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが後に廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急手当てを受けた。

 巌も(母・タケの惨死を知るすべもないまま)「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めていたが、傷のため20分後に息絶えた。


 このたった2日間で
太田三郎の内縁の妻・阿部マユ(当時34歳)、
養子予定の蓮見幹雄(当時6歳)の2名

三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、
石五郎の妻で妊婦のタケ(当時34歳)、
三男・巌(いわお、当時6歳)、
四男・春義(はるよし、当時3歳)の4名の
計6人、タケの胎児を含めると7人の命が奪われ、

安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、
四男・梅吉(当時1歳)…ただし後に死亡、
長松要吉(伐採師オド)の3人が重傷を負った。

無事であったのは、隠れていた
 長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、

母が連れて逃げた
 次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、

失神していた
 長女・ヒサノ(当時6歳)、
の3名だけであった。

 重傷者たちは翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の沢谷医院に入院できたのは12日のことだった。………そして伝令に出ていた夫、斎藤石五郎は、まだこのことを知らない。


 クマ7度目:ヒャッハーー(ガブガブうまうま
狩りの時間だぜ〜こいつら、ちょろすぎるワー
一気に頂くぜぃ!・・・ぷはー、かー、満足まんぞく、超満足!!!
 これから先、ここは俺様の縄張りだ。もう、うろちょろするんじゃねえぜぃ!



〜3日目、事件後1日目〜悲しみに沈む村編
12月11日(土)
 すべての住民が三毛別分教場に避難を完了したため、六線沢に人影はなく、おびえながら固く戸締りをした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が、昨夜から不気味に寒村を照らしていた。

 最早、小村の住民だけではなす術はなく、(屯田兵として入植していた)三毛別地区区長の大川与三吉(おおかわ よさきち,当時47歳)と、村の長老や有志、駐在所巡査、御料局分担区員、分教場教師らが話し合い、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。

 (訳注 屯田兵
明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施。1904年(明治37年)に廃止された。)

 一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、役場と警察に太田家の事件報告を終え、昨日10日は苫前に宿を取っており、帰路についたのは、11日昼近くであった。

 ようやく、下流の三毛別にたどり着いた時に、明景家での妻子の受難(全滅)を知らされた。

 村を守るため、頼まれての伝令であり、家族の安全を第一に考えた行動のはずであったのだが、結果的には、もっとも悪い選択をしてしまったことに、夫は愛する家族を一度にすべて失ってしまった悲しみを堪え切れず、ただ呆然と雪上に倒れ伏し、慟哭をあげ続けることしかできなかったという。


 クマ7.5度目:ふーーーー昨日はさすがに食いすぎたぜい。そして、実に美味かった。しかも、まだ獲物が豊富にあると来ていやがる。これから先、あそこは俺様の縄張りだ。もう、誰にも渡さねえぜぃ!しっかし、食いすぎて少々眠くなってきたな。たまには…うとうと。。。ぐー。
 はっ、もそもそ、のそーり、のそーり、きょろきょろ、ぶりぶりぶり、ふー。
 きょろきょろ〜ヨシ。てくてくてく・・・。



〜4日目、事件後2日目〜討伐隊の組織〜待ち伏せ失敗編
12月12日(日)
 六線沢ヒグマ襲撃の連絡は、北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から、羽幌分署長の菅貢(すが みつぐ、階級は警部)に討伐隊の組織編成が指示された。

 討伐隊の本部は三毛別にある大川興三吉の家に置かれた。

 一方、死亡者の検死のため馬橇(うまぞり)で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午ごろ山道でヒグマの糞を発見した。さっそくそれを検分したところ、中から人骨・髪の毛・未消化の人肉を見つけて、立ちすくんだ。

 同庁から命を受けた菅警部は、事態を重く受け止め、すぐに行動を開始した。

 土地勘がある帝室林野管理局(現在の林野庁)羽幌出張所古丹別分担区主任の技手である喜渡安信と三毛別分教場の教頭であった松田定一を副隊長を指名した後、

帝室林野管理局、近隣の青年会や消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃60丁や刃物類、日本刀を携えた者を含め、総勢270人以上が三毛別に集まった。

 隊長として、まず最初に行ったのは、被害拡大を防ぐため、最終防衛線を射止橋と定め、これを封鎖する一方、討伐隊を差し向けた。

 しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった。


 待ち伏せ編
〜犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せる前代未聞の作戦〜・・・失敗。

 夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れに割れた。

 ・・・だが、菅隊長は目的のために、この案を採用し、村中からの罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立ち説明を行った。

 しかし、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、

斉藤石五郎をはじめとして、皆は静かに受け入れた。事態はそれだけ切迫していたのだ。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用され、作戦はただちに実行された。

 集まった者の中から、特に銃の扱いに慣れた7名選抜され、交替要員1人を除く6名が、〜明景家の補強を施した梁の上でヒグマを待った。

 居間に置かれた胎児を含む6遺体が放つ死臭の中、森から姿を現したヒグマに一同固唾を飲んで好機を待った。

 しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返してしまった。

 その後太田家に3度目の侵入を企てたが、隊員は立ちすくむのみだった。

 男たちはそのまま翌日まで、明景家にて待ち伏せ続けたが、ついにヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。


 クマ8度目:前回のこともあるからな、、、ここは警戒して行くに越したことはない。
 ふむ、随分と知らない匂いがそれもたくさん増えているな。。。餌はまだなかに、そのままあるようだが、、、行くべきか、、、(野生のカン発動!)急ぐ理由はない。罠と判っているところに行く理由は何一つないわ。なに、ごちそうは逃げやしない。他を回ってからでも遅くはないわ。


〜5日目、事件後3日目〜討伐隊の行動
12月13日(月)
 この日、旭川の陸軍第7師団から歩兵第28連隊が事態収拾のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した。

 一方、ヒグマは村人不在の家々を散々荒らし回っていた。飼われていた鶏を何羽も食い殺し、味噌や鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに、服や寝具などをずたずたにしていった。

 中でも特徴的なのは、女が使っていた枕や、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様なほどの執着を示している点だった。三毛別川右岸の8軒がこの被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった。

 しかし、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。味を占めた狙いたい獲物だけが見つからず、昼間であるにもかかわらず、大胆に人家に踏み込むなど大幅に警戒心が薄れていった。

 そして、行動域が上流からだんだんと下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識できていなかったようである。
 討伐隊の菅隊長は氷橋を最終防衛線とし、ここに撃ち手を配置し厳重警戒に当てた。

(午後6時頃、マタギの山本兵吉と隊員(鈴木)は、ヒグマが無人の家に侵入しているのを目撃したが、射殺するには至らなかった。) 

 午後8時ごろ、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いているものがある。報告を受けた菅隊長が、「人か、熊か!」と大声で誰何するも返答がなかったため、隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。すると怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。やはり問題のヒグマだったのだ〜と、仕留めそこないを悔やむ声も多く上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。

 真闇に近い中、深追いはせず、翌日まで警戒は続けられた。皆不安な夜を過ごしたが、その後クマは現れなかった。


 クマ9度目:ひゃっはーー、ごちそうだらけじゃねえか!!!ここは最高の餌場だ〜、ウマウマ。奴ら、俺様の威容に恐れをなして、逃げたに違いねえ!!我が勝利だ!!今日は、食って食って食いまくるぞ!イエーイ!!……って、女の肉が喰いてえんだが、おなごはどこだ?こっちか?違う、、、こっちか?…いねえ、どこだ、食わせろ、ここか、どこだ?どこにもないぞー!?どこに隠しやがった〜!
(暴れまわる)
散々、回ったがあれ程居たやつらが、どこにもいない?だと

 ふーふーふー、うみゅ?「ズドーン(銃声)」〜痛ってえ、はわわわわ、〜逃げっ!!!


〜6日目、事件後4日目〜人食いヒグマの最期編
12月14日(火)
空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下され、大掛かりな山狩りが行われた。

 一行の他に、10日(金)深夜に、被害の話を聞きつけて、三毛別に入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳)という熊撃ちがいた。

 幕末に生まれ、若い頃から山をかけめぐる猟師で、鬼鹿村温根(現在の留萌郡小平町鬼鹿田代)に住む兵吉は、樺太にいた若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを刺し倒し「サバサキの兄(あにい)」の異名を持つ人物で、エゾヤマドリやエゾリスは実弾1発で仕留めることができたと伝えられている。46歳の時に日露戦争が勃発し、従軍した際の軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ボルトアクション方式ライフル、ベルダンII M1870を手に、数多くの獲物を仕留めた、天塩国(てしおのくに)(訳注 稚内(北海道の最北地)以南の、道北の地のこと)でも評判の高いマタギだった。
 彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。(後日談:孫によれば(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。)

 マタギの兵吉は、大勢の討伐隊(隊員)と別れ、単独で別の道から山に入ると、200メートルほど手前から頂上付近のミズナラの大木につかまり体を休めているヒグマを発見した。
 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。
 音を立てぬように20mほど前進し、にじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって睨みつけたので、即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。


 12月14日(火)午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。

 クマ10度目の最後であった。
(訳注 後日、近くの橋は、ひぐま射殺で最初の被弾地点がこの地点近くであったため、「射止橋」と命名された。)



(訳注 ヒグマについて
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B0%E3%83%9E

ヒグマは、日本に生息する最大の陸上動物であり、
がっしりとした頑丈な体格を誇り、頭骨が大きく肩も盛り上がる。
(栄養状態によって生じる)個体差が顕著な動物である。

オスの成獣で
体長2.5-3.0m、体重250-500kg程度に達する。

メスは一回り小さく
体長1.8-2.5m、体重100-300kgほど。

(内陸のヒグマが300kgを超える事はあまり多くない)が、溯上するサケ・マス類を豊富に食べられる環境では大きく、
 野生のヒグマで最大の記録は、海外のコディアック島で捕らえられた1,134kg以上がある。

 エゾヒグマでも、1980年に羽幌町(事件現場の三毛別六線沢から川下へ行った近くの地区)で射殺された体重450kgの通称「北海太郎」や、1982年に古多糠の牧場で子牛3頭を襲った500kgの雄(6歳)、2007年11月にえりも町の猿留川さけ・ます孵化場の箱罠にかかった推定年齢17歳・520kgのオスなど大型の個体もおり、近年大型化しているとの指摘もある。このます孵化場の箱罠では、300kgの個体も捕獲されている。


(参考)エゾヒグマ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BE%E3%83%92%E3%82%B0%E3%83%9E

エゾヒグマ(蝦夷羆、えぞひぐま、学名:Ursus arctos yesoensis or U. a. ferox Temminck, 1844)は、ネコ目(食肉目)クマ科クマ亜科クマ属に分類されるヒグマの亜種で、北海道に生息するクマであり、日本に生息する最大の陸上動物である。



後日談〜熊風〜『袈裟懸け』の最後
射殺されたヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた超大物であった。(訳注 通常、月輪熊に首や胸に白毛がある個体が多い。が、このように、ヒグマにも見られることがある。) 推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。

 隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。

 ヒグマの死骸は人々が引きずって山中から農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かなかったため、仕方なく大人数による人力でそりを引き始めた。すると、にわかに空が曇り、雪までが降り始めた。
 事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、この雪もだんだんと激しい吹雪に変わり、そりを引く一行を激しく打った。アイヌの言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるということから、この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで長く語り継いだ。

12月14日(火)午前10時30分 風速40mを記録

 猛吹雪の中、5kmの下り道を1時間半もかけて、ヒグマの死骸は三毛別青年会館まで運ばれた。

 雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜(郡)で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。

 あるマタギは、「旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。

 山本兵吉は、「このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない」と述べた。

 解剖が始まり、胃を開いたところ、
中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。

 犠牲者供養のため、肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。

(訳注 ヒグマの解体法(一例)
・皮を剥ぐ
 ヒグマを仰向けにし、股間部から首に向けて、体の中心に沿いナイフを入れて、皮を剥ぐ。同様に手足の皮を剥ぐ。
・手首・足首の関節部位で、手足を切り外す。
・腹部、胸部を開く
胃や腸を傷つけぬよう腹部から開き、
胸部は、肋骨の根元から、なたやのこぎりを使用して開く。
・内臓を取り出す
・首から食道を取り出し、外に引き出す。
・横隔膜は骨に沿って切り取り、残りの内臓を引き出す。
・肛門部は肛門の回りをくり抜いた後、なたで骨を割って取り出す。

・熊の胆(胆のう)、肝臓の脇にある、ナイフで慎重に剥がし、胆汁が漏れぬよう胆管をひもできつく縛って切り取る。
北海道環境生活部環境局自然環境課 より)

(訳注 ジビエ料理)



皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた後、肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。(毛皮や頭蓋骨のその後は消息不明である。)

(訳注 50円の推定価値 ※訳者推定 約30〜80万円
当時の大卒(銀行員)初任給が35円、(今日、1万円近くもらえる)日雇い労働者賃金(1日)がまだ63銭の頃である。
 35円から50円は、1.428倍であることから、
令和元年の大卒事務系初任給が218472円(技術系が217864円)であることを考えると、約31万1978円だ。とはいえ、当時の大卒者は今より少なく(希少価値が高く)比較的高待遇であったろう。
 逆に日雇いは、当時は多く現在は(当時よりは少ないが)なんと
50÷0.63= 79.36日分 つまり約80万円近くになるだろう。)
(なお、1円未満の紙幣(お札)や貨幣(硬貨)は、1953年(昭和28年)に「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」(通称:小額通貨整理法)で発行が停止され、それまで発行されていた1円未満の紙幣や貨幣は、同年12月31日限りで通用力を失いました。
なお、単位は今でも変わらず使われており、1円=10厘=100銭です。)


〜重傷者3名のその後〜
 頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せた妻ヤヨは順調に回復した。
 だが背負われたまま噛みつかれた梅吉1才は、後遺症に苦しみつつ2年8か月後に死亡した。(この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。)

 伐採師も回復し、翌春には仕事に戻ったが、後に川に転落して死亡した。(ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。)

 同じ家で、ヒグマの襲撃から生還した(母が連れて逃げた次男)明景勇次郎(当時8歳)は、事件の27年後に太平洋戦争で戦死した。


〜村のその後〜
 事態は解決しても、村人には心理的恐怖を残し続けた。村外を頼れる者は早々に六線沢を去ったが、多くの者はそのようなつてを持っていなかったため、人食い熊に壊された家屋を修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火に当たりながら、なんとか越冬した。

 しかし春になっても村人は気力を取り戻せず、特に、初めに家族をすべて亡くした太田三郎は、自身が建てた家を、自ら焼き払って山を降り、海沿いの羽幌へ、その後生まれ育った青森に移ったが、早くして死去したという。

 六線沢は、ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。

(訳注
羽幌は、事件の舞台となった三毛別六線沢から川下(北西方向へ)下った地区・・・余談、令和現在でも、この辺りは日本最北端(日本海側)のセブンイレブンがある所で、(道内の一大コンビニ・チェーン:セイコーマートは、ATMがない場所が未だに多いため、道外からの旅人が現金を入手しづらいことが多く)、それを知っている最北端周りのバイク乗りは、ほぼ必ず訪れる場所である。)


〜事件に関わった人々のその後〜

 ヒグマを仕留めた山本兵吉(当時57歳)は、褒美として北海道庁から無鑑札で、軍服と帽子を送られたが、それを着て猟に行くことはなく、普段は手拭いで頬被りをして藁沓を履き、刺し子の上から毛布のような物を体に巻き、肩から鉄砲を背負って猟に出かけていたという。兵吉の活躍は吉村昭の小説「羆嵐」山岡銀四郎として大きくとりあげられた。
 ヒグマが射殺された日の夜は、兵吉を囲んで三毛別青年会館で酒を呑んでいたが、地区長の大川与三吉が村で集めた礼金を渡そうとした際、酒乱気味だった兵吉は「こんなはした金受け取れるか!」と怒り、屋根に向けて発砲したという。
 その後兵吉は三毛別に家を建てて、事件前に住んでいた鬼鹿村から家族を呼んで暮らしていた。しかし「熊殺しの英雄」と村人からチヤホヤされるため、酒を呑んでは村人と喧嘩していたという。兵吉は酒を呑んでは妻を殴るので、妻が子供を連れて鬼鹿村へ帰ることはしょっちゅうだった。
 そんな兵吉だったが子供には優しく、のちに猟師となる大川春義に熊撃ちのコツをよく教えていたという。兵吉はその後2、3年は三毛別に住んでいた。小説や映画などでは大変素行の悪い人物と描かれることが多いが、孫で初山別村の豊岬郵便局に勤める山本昭光によると、酒を呑むと荒れることもあったというが、いつもは優しく面倒見のいい人物だったとのことである。その後もマタギとして山野を駆け回り1950年(昭和25年) 7月、故郷の初山別村にて92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。


 また村をまとめていた区長(大川与三吉)の息子・大川春義(おおかわ はるよし、当時7歳)は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。
 当時の大川家には、アイヌの猟師が山での狩猟を終えた後、買物に立ち寄ることが多かった。少年期の大川は、この猟師たちにヒグマの生態や狩猟の知識を教わって育った。ヒグマを仕留めたマタギ山本兵吉にも師事し、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いにより、徴兵年齢である20歳に達して猟銃所持が許可された後、父から(貯金をはたいて購入した)最新式の村田銃

(訳注 むらたじゅうは、薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃(金属薬莢用に改造されたシャスポー銃)の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。全長1294mm、重量4.09kgの猟銃。十三年式村田銃の製造に成功したことで、初めて「軍銃一定」(主力小銃の統一・一本化)が成し遂げられ、このことが後の日清戦争において、雑多な小銃を用いる清軍に対し、日本軍の優位につながる一因となったばかりか、村田銃の出現は火縄銃以来300年の欧米との銃技術ギャップを埋め、国産銃を欧州の水準へ引き上げた。また、旧式化した後は、近隣諸国や民間に払い下げられ、戦前戦後を通じ日本における代表的猟銃となった。)を与えられ、猟師となった。
 だが、ヒグマ狩りを目指して山に入ったものの、実際に目撃したヒグマに恐れをなし、撃つことができなかった。こうしてヒグマを前にして銃を放つことのできない日々が、実に10年以上続いたという。
 だが1941年(昭和16年)、遂に(32歳にして初めて)ヒグマの親子を仕留め、父を始め地元住民たちの喝采を受けた。これがわずかな自信となり、翌1942年(昭和17年)に4頭、翌1943年(昭和18年)には3頭のヒグマを仕留めた。ヒグマの胆嚢と毛皮は高価な売り物になったのだが、仇討ちだけが目的の大川はそれらに興味を示さず、住民たちに無償で配布したという。
 第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)、召集により戦地に赴き、ヒグマ狩りで鍛えた抜群の射撃能力で活躍。100メートル先の動く標的にも銃弾を連続して命中させ、人々を驚かせた。
 1946年(昭和21年)に復員するも、父はすでに死去していた。育ててくれた父に報いるためにも打倒ヒグマ70頭の誓いを新たにし、翌1947年(昭和22年)から狩猟を再開した。ほかの猟師と協力してヒグマを仕留めたこともあるが、ほとんどの場合は1人で狩猟を行なった。戦場で培った度胸もあり、毎年1頭から4頭、多いときでは年に7頭を仕留め、1969年(昭和44年)には50頭を達成した。この頃に周囲の勧めで、5連発のライフル銃を購入。新たな銃の性能も手伝い、間もなく念願の70頭を達成。地元では祝賀会が開催された。
 しかし依然として北海道内では、ヒグマによる被害が続いていた。周囲の要請もあり、大川は新たに100頭の目標を立てた。すでに60歳を過ぎており、山に入ることでの疲労が増し、銃の重量にも負担を感じ始める年齢であったが、1977年(昭和52年)、ついに100頭を達成した。このうち大川が単独で仕留めたものは76頭を占めている。
 念願の100頭を達成後、大川は銃を置き、猟師を引退した。その後、事件の犠牲者たちの慰霊碑の建立を計画。思いを同じにする地元住民たちの協力のもと、地元の三渓神社に「熊害慰霊碑」が建立され、碑には大きく「施主大川春義」と刻まれた。
 1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行なわれた。大川は町立三渓小学校(のちに廃校)の講演の壇上に立ち、「えー、みなさん……」と話し始めると同時に倒れ、同日に死去した。76歳であった。大川は酒も煙草もやらず、当日も朝から三平汁を3杯平らげ、健康そのもののはずであった。その大川が事件の仇討ちとしてヒグマを狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々は因縁を感じずにはいられなかったという。
 山中でヒグマを狙う様子は、非常に禁欲的かつ厳格であった。持参する食料は、梅干しのおにぎりと水だけで、自分の気配をクマから隠すために、雪の中で歩くときは、笹に積もった雪が地面に落ちる音に合わせて、足を動かした。匂いを感づかれることのないよう、たばこを吸うこともなかった。
 多くのヒグマを仕留めた一方で、ヒグマを山の神とも崇めており、死んだヒグマの慰霊のための熊祀りを欠かすことは無かった。「山に入ったら、クマの悪口は一切言ってはならない」と、口癖のように語っていた。晩年には子グマを庇う母グマの仕留めを躊躇することもあった。
 犠牲者たちの仇討ちだけを考えてヒグマ狩りを続けたものの、100頭を達成した後には、本当に悪いのはヒグマではなく、その住処を荒らした自分たち人間の方ではないか?と考えていたともいう。
 1969年にヒグマ狩り50頭を達成した際には、北海道内で最も多くのヒグマを仕留めた名人として評価され、
 70頭の目的達成後には、大日本猟友会から有害獣駆除の貢献による感謝状が贈呈された。
 ノンフィクション作家の木村盛武は、大川の仕留めた100頭以上のヒグマを指し、「これら掛け値ない捕獲頭数は、あだやおろそかな努力では達成できぬ偉業である」と語っている。
 62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった8人の村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓(旧三毛別)の三渓神社に建立した。
 北海道内でのヒグマによる被害は、1904年(明治37年)から三毛別羆事件発生までの10年の間に、死者46名、負傷者101名、牛馬2600頭にも及んでいた。しかし大川が猟師となってから約20年間の被害はその3分の1まで減少しており、このことからも大川の功績は高く評価されている。

 また春義の息子・高義も同じく猟師となり、1980年には、父・春義も追跡していた体重500kgという大ヒグマ「北海太郎」を8年がかりの追跡の末に仕留めている。さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。

 これが記録上、日本で
(クマ単体により)起きた、もっとも悲しい獣害事件の顛末(てんまつ)である。




ーーおまけーー
訳者Wingdomより読者のみなさまへ

いかがだったでしょうか?、なかなかの衝撃的な事件であったと思います。

みなさまは、こちらを読まれて、どんな感想をもたれたでしょうか?
或いは、どのような感情が動かされたでしょうか?


…いろいろな感想があると思いますが、何かしらを感じていただければ、2次作品の著者・訳者として大変、光栄です。


オリジナルのソースはこちらです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6


スマホならば、

三毛別羆事件(みけべつ ヒグマじけん) でググられた方が早いでしょう。


 さて、本件を読んで、どんな関心があるのでしょうか?
・他人事としての、実獣被害、環境問題
田畑を荒らす害獣を、なかなか駆除できない社会問題への問いかけ。


・自分ごととして

そもそも、自身に命の危険が起こった時に、自分は最善手を行動できるのか?


・クマと戦って勝てるか?問題→やめましょうw


 私が初めてこれを読ませて頂いて一番感じたことは、訓練された者と、そうでない者の差が、これ程までに大きく出るものなのか?

といった点です。

 3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇となっていました。ですが、突如の遭遇戦では、、、です。


 また舞台は、
寒村ではありますが、当時の農民(開拓民)は、毎日、畑仕事をする百姓であり(百姓=百の仕事をこなせる人々)であり、少なくとも、平成・令和生まれの現代人よりは、遙かに強靭な肉体を老若男女、誰もが備えていました。

 農作物を(まだ、自動車もなく)牛馬で運搬。それもほとんど手作業でした。

 確かに事件当日、には、

本当に運が悪く、たまたま女子供しかいない所を襲われてはいますが、、、実際には、ほとんどが(後付でぎゃーぎゃー言われる、いわゆる理想的な) 有意義な行動 というのを、ほとんどの者が取れていませんでした。

 そして、有象無象の集まりかと思いきや、、、中には勇敢な行動を行い、クマが逃げている事実があります。そして、命を賭した行動の如何によって、その者自身だけでなく、周りの者達の運命すら、大きく変わってしまいました。

…そして実質的には、事件はたった一人の熟練マタギが、たった2発のみで迅速に収束させました。


…この人としての、質の違いは、どこから来るのでしょう?

持てる事前知識の差でしょうか?

 それとも、なにかもっと別のもの。「勇気」であるとか、「勇猛」であるとか、「愛」であるとか、なのでしょうか?

 …そして、それに至るまでに、どれ程多くの血が無為に流れたことでしょう。


 「人間の質」というと、語弊が有ります。別に上にも下にもないでしょう。みな必死だったわけですから、ですが結果には、これ程の大きな差を生んでしまうというのには、おそらく真理なのかもしれません。

 物語の中でも、(自身の命すら脅かす)大きな驚異に対し、何も出来ずに右往左往しかできなかった者がいれば、普段から訓練をされており、役割を与えられていながらも、その役目を実行できなかった者(待ち伏せて銃を撃て〜当たらないではなく、そもそも撃てなかった者が居たり)

 かと思えば、

勇敢な行動を示し、驚異から皆を救った者(石油缶を叩いて、熊を威嚇し退散させる一助となった)がいれば、…かたや自身の保身の為、最も愛する妻すら、踏み台にしてしまった男がいたりします。


 もしみなさんが、その場に居合わせてしまったならば、あなたはどうやって自身を、その場にいる仲間を守り・救うことができるでしょうか?

 緊張状態におかれた人間が、突然に、どうこうできるというのは、平時の時(平和な時代に生まれてきた我々の世代にとっては)比べるべくもないのでしょう。
 …ですが、やはり本当の意味で、もっとも人間味が出てくるのが、そういうところなのかもしれません。

 そして、この何年後かに、日本は、戦時(太平洋戦争)へと突入してゆきます。・・・そしてこの物語以上に、非常に多くの方々が、死地に赴いて散り 行きました。
 我々の祖父母が生きた戦争の時代は、最早、伝説ですら有ります。ですが、こういった人々を見ていくと、今の我々と何ら変わることのない人間模様が、そこにあります。

 私はこの文を、自分なりに幾度も、加筆修正を加え続けておりますが、読み込むたび、未だ新たな発見があり、また自身に問いかけざるを得ません。「お前は、そうなった時に動けるか?助けられるか?と」幸い、未だそのような事案には、一度として巡り合ってはいませんが、(願わくば生涯、このまま平和に生きることを願いつつも)、「常在戦場」。(こころの)備えだけは、忘れず、必要なもの(心構え)くらいは常に用意済みで、何時でも尖らせて行きたいと思っています。

 …たったひとりの、何気ない たったそれだけの行動が、多くの人の命を救います。・・・時に、世の中は、いつ、我々を試すでしょうか?



コラム
生き残れた者は、どうやったら助かったのか? プロに聞いた考察結果
 羆(ヒグマ)は北海道で「山親父」、
月輪熊は本州で「森の親父」と畏敬の念で俗称され、いずれも自然界の元締め的存在で、日本の緊張感ある自然を創出している陸棲最大の獣達であります。

令和元年2019年現在、日本の
本州以南に月輪熊が約8,600~12,600頭、
北海道には羆が約1,900~2,300頭棲んでいるそうです。

 両種とも日本へは氷河期時代に海面の低下で(海水が雪の原料となり陸に堆積し、海水が減少したため)、日本列島とアジア大陸が数万年間、陸続きとなった時に、大陸から渡ってきて土着したもので、以来、人と同じ土地で生活している。よって、人と熊は互いに棲み分けで共存すべきで、それには熊に生息地を保証し、頭数はその中で自然の摂理にまかせる「生息域管理法」で行うべきなのでしょう。

 ただその生息地から抜け出し、作物などに被害を起こす可能性が明白な個体だけは割り切って捌く。(…なお、これを実施してゆくと奥山から次々と熊が里に近づき、これをまた殺すことで究極には熊を絶滅させるのではないか?という危惧、一部意見もあるようだ。)

 しかし熊は環境的に樹林地を好む獣であり、奥山には熊の好む餌樹(ドングリ類、コクワ、ヤマブドウなど)を残し、樹を伐採し過ぎて山を明るくし過ぎなければ、多くの熊は里に近づかないし、例え不用意に近づいても、まもなく立ち去るものでしょう。


「人を襲う原因は3つ」
1,食べる目的で襲う(月輪熊は稀)
人を執拗に攻撃し、倒した人間をその場で喰うこともあるが、多くは己の安心できる環境(薮の中・窪地・雨裂など)に人を引きずり込む。そして衣服を剥ぎ取って裸にしたり、遺体に土や草を被せて覆い隠すが、穴を掘って埋めることはしない。食べる部位は筋肉である。

2.子連れの母熊が子を守るための先制攻撃がある。

 事故予防策
鈴や笛を鳴らして歩くこと。また人が持参している食物や作物家畜などを奪う目的、あるいはすでに確保した物や場所を保持し続けるのに邪魔な人間を排除するために襲う場合。越冬穴の存在に人が気づかず穴に近づいたため、穴から熊が飛び出して襲ってきたこともある。

 「時季により襲い方がちがう」
2月中旬以降の冬籠もり末期〜冬籠もり明け直後は、立ち上がる体力がなく這ったまま主に歯で攻撃し易い部位をもっぱら囓る。

 そろそろ秋の山菜採りの時季は、立ち上がって手の爪(手足とも指は5本)で攻撃してくることが多い。熊の手爪は「熊手」の原型となったほど頑健で、手爪は鉤型で長さは6~10cmもある。


「クマ用心」
過去の事例からいえることは、「死にものぐるいで抵抗反撃すること」。「死んだふりをするなど論外(意識ある状態で、熊の爪や歯の攻撃にじっと耐えられる人間など誰もいない)」。鉈(ナタ)があれば最善である。熊の身体のどこでもよいから叩くことだ。そうすれば、熊も痛さを感じ、怯んで、人を襲うのをまず止め、躊躇しながらも立ち去るものである。既述のように、人と遭遇し興奮して我を忘れて襲ってきた熊は、人の少しの抵抗で、我に返り、そそくさと立ち去るものである。以上のことは、過去の事例から明白である。

 これ以外に「襲い掛かってきた熊を熊撃する確実な方法」はないと思う。「熊の鼻先を叩け」という人がいるが、うまく叩けるものではない。熊の痛覚は全身にあるからどこを叩いてもいい。



それではより具体的な「熊対策」とは…

 熊(羆)と遭遇する可能性がある場所での実用的行動(例)

1. まず勇猛心を持ち、常に遭遇した場合の対処法を頭に入れ、時々それを思い浮かべながら行動すること

2.必ず鉈(ナタ)を携帯する(武器として実用的な物であること)

3. 音の出る物(ラジオや鈴など)で、常時音を立てて歩くものは、こちらが辺りの音の異常を感知し難いので、時に不向きである。それよりも、時々声を出すか、笛を吹いた方がよい。

4. 辺りを充分観察しながら進む。見通せる範囲はもとより、その先の死角部分では、特に歩調をゆっくり遅めて、注視する。

5. 万が一熊に出会ったら(20m以上距離がある場合)、絶対に走らないで、様子を窺いながら、熊からゆっくりと離れる。

6. 距離が10数mないし数mしかない場合、その場に止まりながら、話しかけること(最初は普通の音声で、それからは大声で)。そして熊が立ち去るのを待つ。自分も少しずつその場から離れてみる。

7.もし側に登れる木があればのぼり逃げる。仮に襲ってきたら死にものぐるいで、(熊の身体のどこでもよいから)斬り、叩きまくる。


<人家付近での熊の出没対策(例)>
 1940年代までは、民家では犬を普通のこととして、放し飼いしていたので、熊など野生獣は吠える犬を嫌って民家に近づかなかったものだが、犬を繋留飼いするようになってから、民家に熊が近づくことも稀でなくなった。

 そういう状況のなか(人と遭遇する機会が少なく)、夜だけ出没する熊は、人を襲うことはないから殺すべきではない。

 出没地に石灰粉を撒いて、足跡からその熊の挙動を監視し、被害を起こす個体か否かを見極めるべきだろう。また、人を見て、まもなく逃げる熊は人を襲うことはないから、殺すべきではない。

 また、当たり前であるが生塵(台所から出る、魚・野菜などのくずや残りかすなど、水けのあるなまごみ)は外に放置しないこと。

 箱罠は被害地所から離れた場所に設置することが多いので、目的とする個体以外の、別の個体を往々にして獲ることが多いため、積極的な使用には慎重になる必要がある。

 犬を夜間だけ放し飼いすることを積極的に検討してもよいのでは思う。そうすれば、熊だけではなく、猿・鹿・アライグマなどによる民家付近での果樹作物の食害も防げるだろう。

コラム 狩猟 

国内では、鳥獣保護法(正しくは、鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律)において、狩猟とは「法定猟法により、狩猟鳥獣の捕獲等をすること」と定義されており、狩猟免許を取得することが必要である。 

 狩猟免許の種類には、網猟免許、わな猟免許、第一種銃猟免許、

第二種銃猟免許があり、免許の種類によって、使用できる法定猟具がそれぞれ指定されている。 

 狩猟免許試験は、居住している地域を管轄する都道府県知事が

実施し、試験に合格して取得した免許は、全国で有効である。免許の有効期間は3年間で、3年ごとに更新が必要。また、狩猟をしようとする場合は、その地域を管轄する都道府県に狩猟者登録をする必要がある。
 狩猟による捕獲は、基本、秋〜冬季に設定されており、
北海道  :毎年 10 月 1 日~翌年 1 月 31 日
北海道以外:毎年 11 月15 日~2 月 15 日 と、

有害鳥獣捕獲(許可された期間であれば年中可能)がある。
 なお通常、捕獲の対象種は、イノシシ、シカ、サル及びカラス類で、
わな猟免許所持者は、くくりわな、はこわな、はこおとし、囲いわなを、
第一種銃猟免許所持者は、装薬銃(猟銃)と空気銃を用いる。


(訳注
最善のクマ対策は、そもそも遭遇しないことである。
彼らの生息地に無闇に、近づくのは、得策ではない。

最後までおつきあい&お読み頂き、ありがとうございました。

よろしければ、感想をお聞かせください。(特に気になった、足りない補足追加事項を頂ければ、幸いです。)


奥付
サークル「グループ・ファンブラーin有明」
初版C97
追補版note 以後も不定期に、文章が更新増補され続けていきます。

著者 Wikipediaに集う多くの方々
訳者 Wingdom星野

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