見出し画像

2000年も経つのに。

治安が悪い街には、行きたくない。
でも、どうしても見たいものがあるんだ。
意を決して、ナポリへ向かう。

中央駅に、自動小銃を持った軍人がいる。
外に出ると、男たちに囲まれた。
「どこへ行くんだ。」
「俺のタクシーに乗れよ。」
振り切って、足早に歩く。

パスポートとカード、ユーロは首から下げたケースの中。
デイバッグは前に抱えて歩く。
カッコ悪いけど、治安が悪いんだからしょうがない。

ツーリスト向けの案内所に着いた。
ほっとして、長い息を吐く。

「何かお困り?」
サン・セヴェーロ礼拝堂へ行きたいんです。
「ちょっと待ってね。」
A4の地図を渡してくれた。
「今ここ。ナポリ中央駅ね。礼拝堂はここ。この道をこう行けばいいわ。」
何で行けばいいですか?
「歩きね。」
あの、危なくないですか?
「は? あたしが毎日歩いて通ってるのよ。安全に決まってるじゃない。
質問はそれだけ? 他にはない?」
それだけです。ありがとうございます。

教えられた道の安全性を疑うような訊き方が、機嫌を損ねてしまったようだ。ごめんなさい。

交差点の向こうに、人通りが少ない裏道が見える。
散乱したゴミが、風に飛ばされている。
明らかにヤバそうな人がいる。
あの道は、絶対ダメだな。

混んでるけど、言われた通りの道を行こう。
道幅の狭い、石畳の道。
歩いて行くと、どんどん人が多くなる。
黒人でも白人でもない、日焼けした人の密に巻き込まれた。
想像以上のカオスだ。

同じ国なのに、人種から違うのかな。
ベネチアやローマとは、全然違う雰囲気。
列車を降りてから、ずっと緊張してる。
今日、無事に帰れますように。

やっと着いた。
サン・セヴェーロ礼拝堂美術館。
観光客らしい人の列に、なんだかほっとする。
チケット売り場がわかりにくい。なんとか買って並ぶ。
もうすぐ、あの像に会える。

礼拝堂の中に通された。
一歩入ると、空気が一変する。
静かに、中央へ向かう。

あった。
ヴェールをかけられたキリストが、目の前に横たわっている。
もう、涙が出て来た。
早過ぎるよ。

1753年。ジュゼッペ・サンマルティーノ作。
クリストヴェラート。(ヴェールをかけられたキリスト。)

十字架から降ろされたばかりのキリスト。
冷たくなった身体に、薄いヴェールが掛けられている。
ヴェールを通して、浮き出た骨、血管が見える。
足の甲と手の甲には、太い鋲を丁寧に抜かれた跡。痛々しい。

思わず、手を合わせる。
さっきまで、酷い痛みに苦しんでいらしたんですね。
薄いヴェールの下に、今、息絶えたかのような表情が見える。

気が付いたら、呼吸をしていなかった。
目を奪われて立っていた。一歩も動けずに。
2000年前のゴルゴダの丘に、タイムスリップしていた。

ここはナポリ。美術館。今、石の彫刻を見てるんだ。
もう一度、大理石の彫刻。美術作品として見てみよう。

彫刻にかけたヴェールを、錬金術で大理石に変化させた。
そんな話が信じられたらしいけど、むしろそうであって欲しい。
人の手で彫ったと言われる方が不思議で、信じられないから。

十字架に架けられたキリストは、見れない。
痛みが伝わってきて、苦しくなってしまうから。
今まで一番長く見たキリスト像は、ミケランジェロのピエタだ。
息絶えたキリストを抱くマリア様の表情が、悲しくて美しかった。
でも、この像は、それを上回る。
人として生きたキリストが、目の前に横たわっているようだ。
来てよかった。本当に。

「自分を愛すように隣人を愛しなさい。」
あなたの教えを、僕らはまだ、実践できていません。
みんなができれば、平和に暮らせるはずなのに。
神の子であるはずの僕らは、今も殺し合いを続けています。
もう、2000年も経つのに。

どうすればいいか、わかりません。
あなたが磔になって殺されてまで、進むべき道を示して下さったのに。
罪深いままの僕らを、お許し下さい。

(2016年 52歳)







 

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,537件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?