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アラビアのロレンス~最後まで「自分の現実」と出会えなかった男

 映画『アラビアのロレンス』を観た。制作は1962年。
3.5時間超の長編映画自体が初めての経験だったが、これは今のSNS時代に再評価されるべき作品だと感じた。

 あらすじはこうだ。第一次世界大戦の頃、学問の道を歩いてきたロレンスは考古学調査を通じ得た中東地域の地理とアラビア語の知識を買われ、母国イギリスの将校としてカイロで軍事地図作成をしていた。当時イギリスはオスマン帝国(現在のトルコ)と敵対しており、オスマン帝国が支配していたアラビアの抵抗勢力の支援をしていた。新たにその任についたロレンスは語学力を用い現地との連絡役を担う中でアラビアの有力者ファイサル王子と出会い、彼の軍を率いて共闘。やがてアラブの解放と独立に尽力する英雄と称えられるようになっていく。しかし、最後には理想に挫折し、かつイギリス軍の上層部とファイサル王子の双方に疎んじられて失脚。ラストでは失意のままアラビアを去る。

 ロレンスは実在の人物であり、最後はバイクで事故死している。この映画では冒頭でそのシーンが描かれ、彼の死に対する様々な人の反応を見せた後、過去に飛びロレンスの物語がスタートする。この時間軸の倒置も本作を語るうえで重要なポイントであるが、それは後に譲る。

 まずは本作の舞台となる「砂漠」に触れよう。砂漠には灼熱、乾燥、不毛といった過酷な土地のイメージが浮かぶ。しかしこの映画の砂漠は、憧れるほどに美しかった。なだらかにどこまでも続くクリーム色の丘。その表面が波打ちながら描く模様。風が吹くと、宙を漂うベールのように舞う砂塵。また、広大な砂漠をバックにその中を歩く人を引きのカメラでとらえる、というアングルが効果的に多用されている。ラクダに乗った民が集団で動けば遊牧民の生活感が満ち、武装した馬で駆ける一群には勇壮さが表れ、一人で歩けば人の無力さを痛感させる。いずれも非常に絵になり、砂漠の光景がこの映画の大きな魅力であることは間違いない。

 そんな砂漠に対してロレンスは何を感じていたのだろうか。戦地のロレンスに随行していた米国の新聞記者ベントリーが「帰国前に2つの率直な質問がある。」とロレンスに問うシーンを見てみよう。
 1つ目の質問「アラブはこの戦争で何を得たがっているか?」に対し、「自由を望んでいる」と答えるロレンス。ベントリーが「儚い夢だ」と応じる。ロレンスはそれに「必ず手に入れる。私が与えてみせる。」と言い返す。英雄たる自負と意思に満ちた言葉だ。
 そして2つ目の質問をベントリーはロレンスに尋ねる。
「あんたは砂漠の何に魅せられている?」
ロレンスの答えは一言、「清潔さ(It’s clean.)」だった。
 
 このセリフを聞いた時に確信した。ロレンスは英雄なんかではないのだと。自己犠牲に溢れていたわけでも名誉欲や出世欲にまみれていたわけでもない。彼は現実感を持って生きられる場所を探していただけなのだ。

 そう思う理由は、ロレンスという男が随所で見せる「奇行」にある。まず映画の冒頭、彼は新聞を持ってきてくれた男のタバコにマッチで火をつけてやるが、その後マッチを眼前に構えてその火をつまむ。やがて火は消え、ロレンスは表情を変えずに指を離す。驚いた周囲に熱くないのかと問われたロレンスは「熱くても熱くないと思うんだよ」と答える。
 次にロレンスがアラビアへ派遣される命を受けに上官の元へ赴くシーン。その途中、将校専用のバーに立ち寄る。そこにあったビリヤード台の上では、おそらくロレンスより立場が上と思われる年恰好の男性がビリヤードの球を組んでいた。ロレンスは不意にそばにあった球を手に掴み、組んでいた球の群れへぶつけ崩してしまう。球を組んでいた男性は驚きと怒りと「なぜこんなことをするんだ?」という当惑の眼差しをロレンスに向ける。当のロレンスはいたずらっ子のように笑うわけでも謝るわけでもなく、形ばかりのぎこちない挨拶をして部屋を出る。
 また、変装して潜入している敵地の中、無為にぶらつき道の真ん中の水たまりに入って服を汚し、車に引かれそうにもなる。やがて敵の見回り兵に呼び止められるが、「自分は透明人間だ」と無茶苦茶な理屈で過ぎ去ろうとして結局捕まってしまう。
 ストーリーの流れ的には、この逮捕から敵に受けた凌辱が英雄の挫折として描かれるのだが、個人的に印象深かったのはそういったストーリーの起伏ではない。むしろ上記3つの例のように終始ブレることなく続いたロレンスの「ズレた反応」である。

 おそらくロレンスには、世界を生きている現実感がそもそも無いのである。そう考えるとロレンスの行動が全てつながる。目の前にはリアルな世界があるのに、まるで感覚を薄められたかのように現実味がなく、対処方法がわからない。だからしばしば現実を普通に生きてる人からしたら「ズレた」対応をする。そして時には自傷行為に近いような無謀で極端な体験をして感覚を取り戻そうとしたり、現実を理解している他者から求められることに素直に従って「現実をわかってるフリ」をしたりするのだ。

 誰もが無理だと思う作戦をやってのけたのも、英雄としての自分で人々に応じたのも、根っこにはこの現実感の希薄さがある。そこを彼の知性と幸運が補助し結果的に成功してしまった。また、戦闘に向かう彼の表情は躁鬱性がある。馬で駆ける時、彼はテンションが上がりつつも危うさのある躁の顔をする。しかし砂漠の厳しさに直面すると、こいつを頼っていいのかと思うほど鬱な顔もする。ロレンスが素の表情や心情をさらす場面は劇中にほとんどない。筆者はその数少ない一つが「It’s clean.」だと感じる。おそらく彼は、多くの原始的な損得と少しの理想で動く(=本能的人間性の純度が高い)アラビアの社会、そして厳しくもシンプルで美しい砂漠に、「根源的でリアルな生の感触」を肌で感じられる可能性を見ていたのではないだろうか。自分の専門である考古学から学んだかつてのアラビアの繁栄、その復興を自分の手でという純粋なロマンを投影した自己実現の意味もあったのかもしれない。しかし、それは叶わなかった。

 映画の冒頭、ロレンスは登場とともにバイクで疾走する。その表情は馬で駆けていた際と変わらない。もっと、もっと、この先に何かある気がする、と言わんばかりに彼はスピードを上げ続け、事故を起こして帰らぬ人となる。そう、彼は人生の「最後」まで届かぬリアルに触れようとあがき、叶わず死んでいったのだ。そこを「最初」に置く本作の倒置構造自体が、ロレンスの生き方へのアンチテーゼなのである。

 彼が本来求めていたものを得るためには、人々の希望の先頭に立とうとするべきではなかった。手を伸ばした先の世界ではなく、もっと手の届く現実世界の手触りを集めてリアルを形作るべきだった。しかし、自身が世の期待を背負った英雄となり得る機会にたまたま恵まれてしまったところにロレンスの悲劇がある。これは現在のSNSで人々が世の正義を代弁するかのように語り、承認欲求を満たしている姿とも重なる。第一次世界大戦から100年以上の時を超え、今や誰もがネットワークの力を借りてロレンスになりうる機会を得ている。時には意図せずロレンスのようになってしまいかねない。そんな現代だからこそ、この映画を観る意義があると思う。

好き勝手なことを気ままに書いてるだけですが、頂いたサポートは何かしら世に対するアウトプットに変えて、「恩送り」の精神で社会に還流させて頂こうと思っています。