Bessie Williamsonさんを訪ねて:家族経営の蒸留所はいつ売却を決定するのか
アイラ島へ旅行に行ったとき、どうしてもやりたかったことの一つが、ラフロイグ蒸留所の「中興の祖」とも「ファーストレディ」とも呼ばれる、Elizabeth Leitch "Bessie" Williamson(ベッシー・ウィリアムソン)さんを訪ねることでした。
…ベッシーは、“No half measures” (中途半端は許さない) が口癖で妥協知らずのハンターから、ウィスキー造りの一切を伝授された。ベッシーに託された責務は、ラフロイグの高い品質を維持し、かつ生産性を向上させることだったが、彼女はそれ以上の仕事を成し遂げたのである。
…三か月間の臨時雇いのつもりでやってきたベッシーだが、半世紀の歳月をアイラで過ごし、ついにはその地で天に召された。享年71。蒸留所を見下ろす小高い岡の上の墓地で、彼女は今も静かに眠っている。
引用:土屋守『新版シングルモルトを愉しむ』光文社、2014年、pp.27-28。
ベッシーさんの、ウイスキーづくりへのひたむきな興味と情熱、知識、実行力により、事務職から経営を任されるまでになったその姿は、思わず自分自身の仕事への向き合いかたを省みてしまうほど、心に深く響きました。そしてアイラ島に行くからには、ぜひ訪ねたいと強く思うようになったのです。
Bessieさんはどこに眠る?
ベッシーさんのお墓を、クリスティーン・ローガンさんとともに見つけ出してくださった方が、その経緯をインターネットに書いていてくださったので、私も滞在中の1日だけクリスティーンさんに依頼し、小雨の降るなか、ベッシーさんのもとへ連れて行って頂きました。
1910年誕生、
1927~1932年グラスゴー大学、
1934年24歳で臨時の速記タイピストとしてラフロイグ蒸留所へ、
1938年イアン・ハンター氏が脳卒中で倒れたためより責務拡大、
1944年イアン・ハンター氏の指名により蒸留所責任者に、
1954年イアン・ハンター氏逝去により蒸留所オーナーに、
1961年51歳でWishart Campbell氏と結婚、
1963年慈善活動によりOrder of Saint John(聖ヨハネ勲章)授与、
1967年新しい蒸留棟を建設し蒸気加熱を導入、
1972年61歳で蒸留所引退、
1982年71歳で永眠。
ベッシーさんが、アイラ島のコミュニティにおいてどのような存在だったのか、あるいはどのようなお人柄だったのか、とても心惹かれます。クリスティーンさんにもっとしっかりお聞きすればよかったのですが、ベッシーさんについて懐かしそうにお話される一方で、「あの結婚はだめだった」とおっしゃっていたように記憶しています…。
上記のベッシーさんの年譜は、Iain Russell氏によるscotchwhisky.comの記事を参照して作成しました。誤訳や読解間違いがありましたら、恐縮ですがご指摘ください:https://scotchwhisky.com/magazine/whisky-heroes/9386/bessie-williamson-laphroaig/
ラフロイグ蒸留所の所有者の歴史:The Johnston Family
製造からマネージメントまですべて手掛けた女性の蒸留所長兼オーナーはベッシーさんだけですが、ベッシーさんの以前にも、女性のオーナーとして、IsabellaとKatherineのジョンストン姉妹がいらっしゃるようです。
姉妹の時代には、ホワイトホースで知られるブレンダー会社「Mackie and Co」とのトラブルを抱えていたようで、1908年には、宿敵?であるPeter Mackie氏によって、スタッフまで引き抜いたうえで全く同じ設備ですぐ隣に位置するラガヴーリン蒸留所内にMALT MILL蒸留所を建てられてしまうなんて、隣人トラブルがひどすぎて、とても興味深いです。
ラフロイグ蒸留所HPを参照して抜粋、一部Marcel van Gils氏のHPから補足しています(誤訳や読解間違いがあったらすみません、ご指摘ください):
1815年 Donald and Alexander Johnstonにより蒸留所設立
1836年 DonaldがAlexanderの持分を£350で買い取る。
1847年 Donaldが桶に転落して死去。
1857年 Donaldの息子のDugald Johnstonが蒸溜所を引き継ぐ。
1877年 Dugald死去。DugaldのいとこAlexanderが蒸溜所を引き継ぐ。
1887年 Alexanderの姉妹William Hunter夫人IsabellaとKatherine Johnston、及び甥のJ. Johnston-Hunterが蒸溜所を引き継ぐ。
1907年 Alexander死去。
1921年 Isabellaの息子Ian Hunterが蒸溜所を引き継ぐ。
1954年 Ian死去。Elisabeth “Bessie” Williamsonが蒸溜所を引き継ぐ。
1962年 BessieがSeager Evans & Coに蒸留所を一部売却する。
1967年 BessieがSeager Evans & Coに蒸留所をさらに売却する。
1975年 Seager Evans & CoがWhitbreadに売却される。
1990年 WhitbreadがAllied Lyonsに売却される。
2005年 蒸溜所がFortune Brandsに売却される。
2011年 Fortune BrandsがBeamになる。
Suntoryになる。
2015年 蒸留所200周年。
1847年の創業者Donaldさんの死後、当時11歳だったDugaldさんが成人するまでラフロイグ蒸留所を託されることになったラガヴーリン蒸留所のWalter Graham氏との間にはどのような関係があったのか、その後どのような経緯でジョンストン家とPeter Mackie氏の関係がこじれていったのか、1890年にホワイトホースが誕生したようなブレンデッドウイスキーの台頭がそれぞれの蒸留所にどのような影響を与えていたのか等、文献探しを含めて、もっと深掘りしてみたいです。
さらに言えば、OwnerとManagerの関係が整理しきれなかったので、改めて調べてみたいところです。
Bessieさんが蒸留所を売却した理由
ラフロイグ蒸留所の歴史をたどってみると、DonaldとAlexanderのジョンストン兄弟が蒸留所を設立した1815年から、イアン・ハンターさんが亡くなる1954年まで、ジョンストン家による家族経営が139年にわたって続いたことがわかります。
そのイアン・ハンターさんから1954年に蒸留所を受け継いだベッシーさんですが、1962年と1967年に、段階的に蒸留所を売却することを決定しています。
ベッシーさんが蒸留所の売却を決定した理由について、ラフロイグ蒸留所のHPでは、伝統を継続しながらも、海外市場に展開するための財政力を有する国際的なグループの支援が必要であったからと記載されています。
ラフロイグ蒸留所HPより引用:
Bessie was a pragmatist and knew that for Laphroaig to continue to grow worldwide, it needed the support of an international group, one that would continue the old traditions but had the financial muscle to carry the brand through to new global markets. So in the 60’s, she gradually sold Laphroaig to Seager Evans & Co (a subsidiary of Schenley International) via its Scottish asset Long John Distillery. Seagar Evans acquired its first share in 1962 and completed the acquisition in 1967. Seagar Evans would go on to rebrand as Long John International.
さらにIain Russell氏は、ベッシーさんが売却先を外資であるSeagar Evans社に決定する前に、地元のMcTaggart家への売却を模索していたことも指摘しています。
Iain Russell氏によるscotchwhisky.comの記事より引用:
Laphroaig may have been one of Islay’s most in-demand whiskies, but Bessie realised it required substantial investment to modernise production facilities and increase warehousing capacity. She approached local landowners the McTaggart family with an offer to sell them the distillery for just £80,000: the McTaggarts owned one of Scotland’s leading construction companies and had the deep pockets required for long-term investment projects.
When the family declined her offer, she came to an agreement instead with the American-owned Long John Distillers. They acquired the share capital in the distillery company from Bessie in three instalments, in 1962, 1967 and 1972.
ベッシーさんは、生産設備の近代化や増産のために多額の資本投下を必要としていたため、蒸留所の売却を決定したようです。
おわりに:これから調べてみたいこと
ベッシーさんが蒸留所を売却した1960年代から1970年代は、ウイスキーの製造工程に変化が生じ、施設拡張をはじめとする生産規模を強化する傾向があった時期です。となると、この時期に、他の蒸留所においても、資金獲得手段としての蒸留所の売却があったことも考えられます。
「1960年代から70年代にかけては、ウイスキー造りの一部に変化が起きている。ステンレス製発行槽の導入や、蒸留熱源として石炭の代わりに石油ボイラーを使用したスチーム間接加熱の導入などの設備面の変革が行われ、また多くの蒸留所が、それまで自ら行ってきた製麦作業を、外部の麦芽工場(モルトスター)に任せるようになった。」
引用:土屋守監修『ウイスキーコニサー資格認定試験教本2015下巻』pp.9-10。
ベッシーさんの経歴をたどっていったなかで、いつの間にか「家族経営の蒸留所はいつ売却を決定するのか」という疑問が膨らんできましたので、これから少しずつ、各地のウイスキー蒸留所の歴史について調べていきたいと思います。