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議論のための議論はいらない

仕事をしていると、すぐ「議論」したい、議論しようとする人がいます。まぁ、議論することは決して悪いことではないし、議論することも必要と思います。


ところが、「議論しよう」という人に多いのは「議論のための議論」になっていることがあります。わたしも三流サラリーマンをやり続けてしばらく経ちますが、過去にはそういう経験したことがあります。


何か課題があったとします。もちろん課題を明確にして、ターゲットを決めて、個々に対応をしていくために議論をするということも必要です。


でもですね。


少なくとも議論を始める前に「わたしは、この課題に対してどう思うのか?」くらいは準備して臨みたいです。


その思いが、間違っていることもあります。そりゃ、人間ですから、間違いはするでしょうし、見当違いのこともあるでしょう。大きな課題でも、小さな課題でも、それでも「自分はどう考えるのか?」は大事です。


議論好きな人に対して「では、あなたはこの課題に対して、どう考えて、どう解決しようと考えているのですか?」と聞いた時に、明確に答えを用意している人、残念ながら多くはないです。


議論に持ち込めば、課題は明確になるし、誰かがそれに対しての見解を出して、みんながそれに賛同すれば、なんとなく「やった感」が出ますよね。


そうなんです。


「やった感」を出すために、議論に持ち込みたがる人もいます。もちろん、そうじゃない人もちゃんといて、「わたしは、この課題に対して、こう思うし、こう実行していきたいと思っている。だけどそれが、最良のアイデアなのか、わからない。だから皆さんの意見を聞かせて欲しい」という人もいる。


どちらが好感をもてるか?と考えたら、もちろん後者ですよね。


まぁ、議論の題材というのは色々あるわけで、必ずしも後者ばかり、いつも用意できるわけではありません。


議論な上手な人は、「とりあえず、集まる、集める」ことはしません。もちろん議論が好きな人の中にも、目標と課題を明確に持って、語ってくれる人もいますから、ね。


わたしがどちらかというのは置いておきますが、出来るだけ議論のための議論にならないように努めています。


ドイツ人は「議論」好きですけど、タイプはやっぱり人それぞれで、自分で「どうしたい」という目的もなく議論したがる人もいれば、自分の主張を通すために「議論」を希望する人もいます。


まぁ、どちらにしても、議論をした末に、結論が出ればそれでいいのですけど。結論の出ない議論は、それこそ無意味です。


それでは、また。

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