米国で医療を受けることの何が大変か
国民皆保険と医療価格の統制がない米国の医療制度がとても高価で評判が悪いことは日本でも知られていますし、米国の平均寿命が77.5歳程度と、日本の84歳や西欧先進国の81~83歳よりも大幅に短いばかりでなく、エクアドルやクロアチアよりも短いことも統計を見ればすぐに分かります(出所:Wikipeia経由World Bank)。しかしながら、普通の健康状態の一般人にとっても米国で医療を受けることがいかに大変かということは、現地で生活をしていないと分かりにくのではないでしょうか。そこで今日はその実態をまとめてみようと思います。
米国の医療保険の仕組み
米国の医療は完全な自由市場であるため、各自が医療保険を購入しています。50名以上を雇う雇用主はフルタイムの従業員に医療保険を提供しなければならず、多くの大規模な雇用主は複数の医療保険のオプションを用意しています。こうした制度になっているのは、企業でフルタイムで働く労働者は健康上のリスクが低く、彼らの医療保険料は個人で申し込む場合の医療保険料よりも安くなるからです。ただしこれは雇用主の経済的負担で医療保険を提供することは意味しません。全額を従業員負担としている雇用主もありますし、全額を企業負担としている雇用主もあります。
医療保険にはいくつかの種類があります。最も高コストかつカバレッジが広いのは トラディショナル(traditional)と呼ばれるどこの病院でも自由に受診できるタイプのプランです。使い勝手としては日本の健康保険に近い制度だと考えてもらえれば良いでしょう。次にコストとカバレッジが高いのは、PPO (Preferred Provider Organization)と呼ばれるプランで、ネットワーク内であれば好きなクリニックや病院にかかるか事ができるタイプです。より安くてカバレッジが低いのは、HMO(Health Maintenance Organization)と呼ばれるプランで、実質的にネットワーク内の病院のみかかることができる仕組みはPPOと変わりませんが、専門医にかかるためには予めかかりつけの医師からの推薦状を取る必要があるという仕組みです。
医療保険料の具体例
具体的なイメージを掴んでいただくため、私の職場を例にあげましょう。私は米国の大学に勤めていますが、医療保険の従業員負担は一流企業よりは高く、多くの民間企業よりは低いという感じだと思います。私の職場では、大学が複数のプランを用意しており家族3人以上の場合、トラディショナルプランの保険料は年間約4万3千ドル(1ドル160円換算で約690万円)で自己負担は同2万5千ドル(約400万円)、PPOの保険料は同4万ドル(650万円)で自己負担は同1万3千ドル(約200万円)、HMOの保険料は同2万2千ドル(約350万円)で自己負担は同5400ドル(約87万円)となっています。なお最も安いHMOの自己負担は私が働き始めた15年前の約3倍になっています。大学教員は大して給料の高くない職種であるため、年間数万ドルもの保険料を自己負担することは現実的ではなく私はHMOに加入しています。そして健康に特段の不安のない同僚の多くもHMOプランに加入しています。ちなみに、これらの保険料は累進ではなく一律です。入る保険の選択は健康状態次第ですから、人によっては給料よりも雇用主負担を含めた医療保険料の方が高いというケースも当然あります。
米国HMOの本質
こうして見ていく限りでは、年間100万円弱の負担で医療を受けられるというのはあまり悪くないように見えます。しかし、なぜHMOの保険料はトラディショナルの半額程度で済んでいるのか想像してみて下さい。病院を指定しただけで何もせずに医療費が半額になるはずはありません。そして重篤な患者に関しては結局、専門医が見ることになるのでその費用はあまり変わらないはずです。HMOという制度の本質は、患者に受診を諦めさせるということにあるのです。
先日、私は眼底に水が溜まり見るものが歪むという症状が出ました。こうした場合、まずかかりつけ医 (Primary Care Provider)で受診して「専門医に診てもらう必要があるかどうか」を判定して貰わなければなりません。私の使うPCPは米国では例外的に好きな時間に行って名前を書くと順番に見てもらえるという日本のクリニックと似た仕組みですが、米国のほとんどのPCPでは予約が必要です。そして、こうした緊急ではない案件の場合、予約は典型的には1週間半後くらいになります。PCPは家庭医か内科医ですから眼の病気が分かるはずもなく、まともな医者であれば「確かに眼に問題がありそうですね」くらいのコメントをして眼科医を紹介しますし、医療費を抑えて保険会社のポイントを稼ぎたい不親切な医師であれば「そんなに問題なさそうなので様子を見ましょう」と適当なコメントで追い返されます。米国ではどんなに些細なクリニックの訪問でも数百ドルを請求され、自己負担としては最低支払い額の10~30ドル程度を払います。なお、私の使う保険ではその会計年度の最初の100~200ドル程度は免責で全額自己負担になるという仕組みで、PCPの利用を抑える仕組みになっています。こうした医療費抑制の仕組みは年々シビアになっています。
無事にPCPに推薦状を貰うと、次に専門医を受診しますが大病院という訳ではなく、地域の小さなクリニックです。こうした専門医はより混んでいるので予約は1週間から数ヶ月後という感じになります。訪問前に自然治癒したり悪化したりするケースも多いでしょう。今回の場合は幸運にも翌週に予約が取れました。ようやく専門医にかかれたものの、ここでは簡単な検査をするのみです。病名が判明し、大病院の医師にかかるように指示されます。その予約はまた数週間後になります。私は似た症状を10年前にも経験しているのですが、その時も同じ手順を踏んだので、常にこういう順序で受診することになっているのでしょう。
今回の場合は、運よく2週間後に予約が取れて一時帰国の予定とも重ならず比較的すぐに受診することができました。そこではもう少し精密な検査を受け専門医の診察を受けましたが、結局は「2ヶ月様子を見る」ということで、特に何も処方や処置をされることはありませんでした。ある程度の期間で自然治癒することの多い病気のようではありますが、治癒を促進する内服薬の処方すらされなかったことには失望しました。
3週間ほどすると、専門医の小さなクリニックから請求書が届きました。眼底の検査をしたということで金額は370ドルでした。メモがあり、PCPからの推薦状(referral)が正しく処理されていないのでPCPに電話して処理をやり直してから再度電話をしてほしい、再度請求書を送るから、という内容でした。いきなり請求書だけ送られてくるケースが大半なので、親切なクリニックだと言えそうです。PCPが正しく処理しなかなった可能性もありますし、保険会社が難癖をつけた可能性もあります。今回は言われた通りに双方に連絡して手続きは無事終了したことになっていますが、修正された請求書が来るまでは油断できず、引き続きフォローが必要です。
ちなみに保険会社が難癖をつけてくるケースはかなり厄介です。保険会社のエージェントは保険料支払いを抑えることで成果報酬を得ていますし、エージェントは氏名や発音から顧客が英語ノンネイティブだと踏むと、露骨にプロファイリングして支払いを渋ります。かつて妻が出産した際には、保険会社は出産費用を払わずに着信拒否をしてきましたし(粘り強く数週間に渡り毎日複数回電話してメッセージを吹き込んだところ担当者が代わって処理されました)、知人が手術したケースでは「手術は切開と縫合の2回行ったが、保険でカバーされるのは1日1回までなので半額しか出さない」と言われたという話も聞きました。私が経験したもう少し小さな額の案件では、保険会社が「電話したのに出ないので正しく処理されなかった」と難癖を付けてきたものの、きちんと詰めたら電話自体がでっち上げだったということもありました。また、個人的には経験がありませんが、全く埒があかなかったけど、英語ネイティブの男性に頼んだら解決したというケースも聞きました。
まとめ
米国における医師への受診の煩雑さを具体例をもって知ると、米国で医師を受診することのハードルがいかに高いかお分かり頂けるのではないでしょうか。高価な保険に入っていればそうしたトラブルはある程度は軽減されるでしょうし、英語ネイティブで百戦錬磨の米国人であれば問題の深刻さはやや小さくなるかも知れません。それでも多くの米国人が医師を信用せず自己判断で薬だけ買って済ませているというという事実があります。
まとめると、米国の医療の問題は表に出てくる医療費の高さや平均寿命の短さだけではありません。際限なく上がる高い医療費という歪みを抑制するために病院に受診するハードルがとても高くなっており、庶民は高いストレスの中で暮らさなければならないという問題があります。
付記:一時帰国中の出来事
先日、(ER以外は)無保険で一時帰国中に足首を捻挫してしまい、ホテルから歩いて5分のところにある整形外科をふらっと訪問して受診してきました。無保険なので100%負担の自費診療ですが、何の問題もなく診察を受けられ、レントゲンを取り、医師の診察を受け、サポーターと湿布および内服薬をその場で処方してもらって料金は1万4千円弱、米ドル換算だと90ドル未満。おそらく同様の処置を米国で受けると、保険があっても最低支払額(copay)や免責額(deductible)だけで同程度の金額がかかります。支払いもその場で完結しました。日本の医療体制は素晴らしいですね。