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水平のアルパイン─ウルトラトレイル100マイルの旅─

趣味というより、ライフワークになってきたトレイルランニング。初めて100マイルに挑戦したウルトラトレイル・マウントフジ 2018年大会を振り返りながら、自分なりにこのスポーツについて思うことをまとめました。

UTMF 2018 回想

#0 「魔の山」

 心拍数が高止まりしたまま、なかなか落ちてくれない。故障している左膝は50kmすぎから悲鳴を上げ続けている。ペースを落とせ──そう言い聞かせるまでもなく、すでに全身の動作がスローダウンしている。にもかかわらず、心臓は急ピッチの拍動を続けていた。

 闇の中、ヘッドランプの明かりだけを頼りに、竜ヶ岳に向けて登っていた。富士山のシルエットが朧げに浮かび上がる。元旦に仲間と〝ダイヤモンド富士〟を見に来たときのことを思い出す。零下4度、草木も凍てつく寒さの中、ホットワインで体を温めながら初日の出を待った。あのときは楽しかったな……同じ山なのに、なぜこうも苦しいのだろう。

 深夜1時、ようやく山頂(1485m)に辿り着く。どさりとベンチに腰を下ろし、呼吸を整える。気温が低く、冷たい風も吹きつけている。山頂で休むのは得策じゃない。うまく動かない膝を引きずり、下山にとりかかる。この急勾配を本栖湖まで下りきれば、第3エイドステーション(65km地点)が待っている。ともかくそこをめざそう。エイドで仮眠をとり、善後策を考える──いまできるのはそれだけだ。

 左足の着地角度をいろいろと変えて、痛みが出ないポイントを探るが、そんなものはどこにも見あたらない。必死で200mほど高度を下ろしたあたりから、手足が痺れだした。発作の前兆だ。

〈やれやれ、踏んだり蹴ったりだな〉。独りごちながら、登山道脇の木の根もとに腰を下ろす。やがて痺れが全身に広がってくる。こうなるともう苦しくて動けない。ザックからダウンジャケットとレインウェアの上下を引っ張り出して着込み、ビバーク態勢に入る。

 標高の高い場所で長時間走り続けていると、ときどきこの症状に見舞われる。酸欠なのか、過呼吸気味なのか、低血圧や低血糖なのか、はっきりとした原因はわからない。もともと体が弱いくせに、根性だけはあるせいか、気づかないうちに限界を超えてしまうのかもしれない。

 うずくまったまま深い腹式呼吸を繰り返し、痺れが抜けるのを待つ。後続の選手たちは軽快につづら折りの山道を下っていく。僕も早く前に進みたい。でも、中途半端に動きだせば、またすぐにダウンすることもわかっている。いまは静かに待つほかない。

 クワイ=ガン・ジンのことを考える。『スター・ウォーズ エピソードⅠ』に出てくるオビ=ワン・ケノービの師匠だ。クライマックスシーン、クワイ=ガンは、シスの暗黒卿ダース・モールとライトセーバーで火花散る激闘を繰り広げる。そのさなか、ふいにエネルギーシールドが両者の間を隔てる。ダース・モールがシールドの前で猛り狂うのに対し、クワイ=ガンはその場ですっと正座し、シールドが上がるのを静かに待つ。とても印象的な場面だ。

 膝の故障、初めての100マイルレース、深くなっていく夜。いろんな要素が重なり、知らぬ間に自分を見失っていたようだ。呼吸に意識を集中し、心を鎮める。ジェダイ・マスターのように、強く賢くなれないものだろうか。

 停滞していたのは、時間にすると20分ほどなのだが、永遠のように感じられた。やがて痺れが抜け、血の巡りが回復してくるのが感じられる。何とかエイドステーションまでは行けそうだ。のっそりと立ち上がり、ザックを背負う。ともかくこの〝魔の山〟から脱出しなければならない。

 なぜここまで追い込まれることになったのか? 話は1カ月前に遡る──。

■UTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)2018年4月27-29日
2日目 1時59分 竜ヶ岳チェックポイント(61km地点)通過 タイム10時間58分59秒



#1 「ハセツネ30K」

 シュウちゃんは山の話を始めると口角泡を飛ばし、止まらなくなってしまう愉快なおじいさんだ。もともとはサーフィンをこよなく愛する海の人だった。営業マンとして日本各地を飛び回りながら波に乗っていたのだが、中年をすぎてからマラソンに夢中になり、なんと還暦を過ぎてからトレイルに足を踏み入れ、いまや完全に山の人になってしまった。

 ランニング仲間のクミさんの影響でハセツネのことを知り、昨年(2017年)の大会は浅間峠で応援。その後、夜中から翌朝までゴールに張り付き、僕らを出迎えてくれた。ハセツネの戦場のような光景に衝撃を受け、自ら挑戦することを決意。長谷川恒男の本も読破し、ますます登山とトレイルランニングにはまり、冬の間は何度もいっしょに山に登ることになった。

 シュウちゃんの走力は年齢からは信じられないほど高いが、なにぶんトレイルの経験は浅い。経験値を上げ、あわよくばハセツネ本戦の優先エントリー権を獲得するべく、クミさん、ヒロコさん、僕といっしょにハセツネ30Kに出場することになった。

秋川渓谷リバーティオ

 2018年4月1日、朝日に輝く秋川を眺めながら、会場の秋川渓谷リバーティオに向かう。沿道には今年も桜がきれいに咲いている。

 4月末に開催されるUTMFに向けて、この冬はみっちりトレイルを走り込んできた。初めての100マイルレース。できるだけの準備はしておきたかったし、これを機に富士山周辺の山域を理解しようと、何度も現地に通った。こんなにひとつのレースに意識を集中するのは初めてかもしれない。

 コース研究や試走に夢中になる一方、〈ちょっと入れ込みすぎだ。危ないぞ〉とも感じていた。登山では周到な準備と集中力が必要だが、心身をリラックスさせ、外部に意識を開いておくことも大事だ。そうしないと、自分と自分が置かれた状況を見失い、判断を誤る。同じことはトレイルランニングにもいえると思う。

 実際、3月にコース試走に行ったとき、足和田山で不整脈のような症状に襲われた。ゆっくり走っているのだが、胸が詰まるような感覚があり、心拍数が落ちてくれない。フルマラソンをこなしながら、トレイルの練習も続けたことで、知らぬ間に体に無理な負荷をかけていたのかもしれない。

 ただ、走りまくったおかげで、いままでにないトップフォームで春のトレイルシーズンを迎えたのも確かだ。これまで4月は冬のロードレースシーズンの疲れを引きずっていることが多かったが、今年はやけに気力、体力が漲っている。

 ハセツネ30Kではタイムが狙えそうな手応えがあった。とはいえ、シーズン初戦で、位置づけとしてはUTMFに向けての調整レース。ここでピークに持っていっても仕方がない。一方では、ショートレースで爆走したらどれぐらいのパフォーマンスが出るのか、リミッターを外して自分を試してみたい誘惑にも駆られる。う~む、どうしたものか……と考えているうちに会場に着いた。

 準備をすませ、軽くアップをしてからスタートブロックに向かう。ハセツネ本戦もそうだが、30Kもスタートの位置どり合戦が年々激しくなっている。予想タイムのプラカードが掲げられているのだが、みんな実力よりも前のブロックに入ろうとする。僕もその一人だ。シュウちゃんが5時間のブロックにいるのを見つけ、「もうちょっと前に行きましょう」と4時間台の後ろのほうに並ぶ。さすがのシュウちゃんも緊張しているのか、いつになく口数が少ない。

 北島良子さんの元気なMCを聞きながら1時間ほど待つ。スタート15分前、防寒着を脱いで戦闘態勢に入る。それと同時に心が定まった。後先のことを考えても仕方がない。いま目の前のレースに全力を尽くそう。

 8時30分に号砲が鳴る。「がんばりましょう! またゴールで」とシュウちゃんに言い、最初の下りをぶっ飛ばす。檜原街道に出てからは走路が狭いため、追い越しは諦め、すこし心拍を落ち着ける。

 沢渡橋を渡り、ロードの上りに入ってからは、日和らずに攻めていく。キロ5分前後のペースを維持し、北沢峠に51分強で到着。例年よりも早く着いたため、渋滞なしで登山道に入れた。これだけでもタイムはだいぶ縮むだろうと皮算用。

 トレイルに入ると、フットワークが滑らかで木の根の処理が上手い選手の後ろにつくことになった。おかげでいいリズムで峰見通りに入っていけた。市道山の分岐まではあっという間に来てしまった感覚だ。

 15kmすぎ、醍醐丸分岐から下りに入ったところで、脚のストッパーをはずすように加速する。篠窪峠でロードに下りた瞬間、見知った顔が目に入る。アマノさんが関門の責任者をしていたのだ。「いいところに付けてるよ~」。声をかけてもらって元気が出た。

 ロードの下りはキロ4分台で刻んでいく。ただ、ここでプッシュしすぎると、その後の登り返しで脚が動かなくなる可能性がある。腕にすこし痺れもあり、オーバーペースの可能性は高い。伸るか反るか──。一瞬の逡巡の後、冬場の練習を信じて、そのままアクセルを踏み続けることにした。

 集落を駆け抜け、醍醐川を渡り、盆堀林道の登りに入ると、血管の中に鉛を注入されたように体が重くなった。ガクッとペースが落ちる。案の定、爆走のしっぺ返しを食らった格好だ。でも、よちよちとでも走っていれば、歩くよりは速い。懸命に腕を振って進む。

 入山トンネルまで来ると、目の前にそびえ立つ〝壁〟が見えてくる。初めてこのコースを走ったときは、「あれを登るのか? うそだろ?」と思ったものだが、最近では「はい、はい、登ればいいんでしょ」という感じで躊躇なく入っていけるようになった。

 コツコツ登りながら、行動食のシリアルバーをかじる。稜線に上がると、気持ちいい風が吹いていた。

 コース終盤、今熊山につながる稜線はいわゆる「走れるトレイル」だ。ここを快調に走れれば、それまでの労苦も報われる。ところが、ロード区間でだいぶ脚を消耗したせいか、どうもフットワークが鈍い。

 ザレ場の下りで、前のランナーに道を譲られたとき、いやな予感がした。『スター・ウォーズ』流にいうと、"I've got a bad feeling about this.” というやつだ。抜いたり、抜かれたり、リズムが崩れたときは転倒しやすい。気をつけねば……と思っているそばから、つま先が何かに引っ掛かり、持ちこたえられず体が前方に投げ出された。

 手をついて、すぐに起き上がり、損傷箇所をチェックする。左の手のひらを擦りむき、血が出ている。膝、肘も擦りむいたが、こちらは軽傷。手のひらにつばを吹きかけて拭い、そのまま走ることにする。

 転んだショックでアドレナリンが出たのか、むしろ体の動きがよくなった。しかし、それも長くは続かない。膝の踏ん張りがきかなくなってきたので、今熊神社からはペースを落とす。〈もう充分にファイトした。あとは堅実に体をゴールに運ぶことが大事だ〉と自分に言い聞かせる。

 フィニッシュタイムは3時間37分37秒。新コースになってから初めて4時間を切り、ささやかな満足感を得た……のはよかったが、ゴールしたら急に傷口が痛んできた。水でよく洗い、救護所に行って応急処置をしてもらう。ちゃんとグローブをしておけばよかったなと反省する。

 しかし、この怪我はまだ序の口。その後、転倒しまくるシーズンが待っていることを、このときの僕はまだ知らない。

   *

 とりあえず屋台でビールを買って一気に飲み干してから、ゴールするみんなを応援するために広徳寺へ向かう。ほどなく、クミさんが猛然とスパートしながら下りてきた。速すぎて写真撮影が間に合わない! あとから聞いたら、前の女子選手を必死で追いかけていたとのこと。この人は本当にファイターだ。しかも、風邪でコンディションが悪かったにもかかわらず、年代別で6位入賞を果たした。それなのに、ビールを飲んでいて表彰式に出席しそこねたというから、もうわけがわからない(笑)。

 その直後にヒロコさんもやって来る。落ちついて走っていたので、今度は桜をバックにいい写真が撮れた。去年はギリギリで優先エントリー権を逃してしまったのだが、今年は余裕でゲットした。

 気になるのはシュウちゃんだ。試走したときの感じからすると、6時間は切れそうだが、レースでは何が起きるかわからない。広徳寺からさらにコースを遡り、林の中で待つことにした。

 しばらくすると、意外な人物がやってきた。砂漠ランナーで、アイアンマンでもある松山貴史くんだ。彼とは自転車仲間で、ときどきいっしょにツーリングに行くのだが、山には関心がない様子だったし、まさかこのレースに出ているとは思ってもみなかった。

「あれぇ!? 松山くん?」。声をかけると、向こうも驚いている。とぼとぼ歩いていたので、「走れ!」と叱咤激励すると、苦笑いしながら駆けだした。あとから聞いたところによると、ナミビアの砂漠レースに3人チームで出ることになり、そのチームビルディングと調整のために出場したのだという。相変わらず激しい挑戦を続けているなあと感心する。

 その数分後、ついにシュウちゃんがやって来た。伴走しながら話を聞くと、途中で両足のふくらはぎが攣ってしまったそうだ。第一関門で「リタイア~!」と叫んでみたものの、その声が元気すぎて冗談だと思われてしまい、誰も相手にしてくれなかったという。「仕方ないから、そのまま走ってきちゃったよ!」。クミさんもネジが2、3本外れているが、シュウちゃんも相当なものだ(笑)。

 結果、みごと6時間を切ってゴール。自分がシュウちゃんの歳になったとき、同じことができるとはとうてい思えない。すばらしいチャレンジ精神だ。それだけに優先権も獲得してほしかったのだが、わずかに届かなかった。

 その後に行われたハセツネ本戦エントリーでも、あっという間に定員が埋まってしまい、シュウちゃんのハセツネ出場は叶わなかった。本人の落胆には及ぶべくもないが、そのことは僕にとっても大きな心残りになっている。でも、きっと来季、シュウちゃんはカムバックしてくれると思う。

■第10回ハセツネ30K(2018年4月1日)/距離約32km/累積標高D+1600m
タイム3時間37分37秒/総合121位(出走1625人)



#2 「暗雲」

 ハセツネ30Kのあと、怪我をした手のひらの痛みに加えて、膝まわりに重さと張りが残り続けた。少し不安を感じたが、トレイルランニングに膝の疲労はつきものだ。「まあ、走っているうちに回復するだろう」と考えて、週末は積極的に山へ通い続けた。なんといっても、4月末にはUTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)が待っている。体力とフットワークの感覚をできるだけ維持しておきたかったのだ。

 1週間後には名栗のトレイルを仲間と走り、その翌週、4月14日には「野辺山高原ウルトラマラソン」攻略のために峠走をするというナツキくんに付き合って、丹沢のヤビツ峠へ向かった。

 秦野駅から宮ヶ瀬湖までがちょうど30km。上りで心拍数が170bpmぐらいまで上がってヘロヘロになり、下りに入るとふくらはぎが攣りかけた。「こりゃ、自分で思っているよりも体が疲れているんだな」ということに気づく。

 宮ヶ瀬湖で切り上げる手もあったが、「疲れているときに、もうひと押しするのがウルトラの練習だろう」という気分もあった。そこで、午後は津久井湖を渡り、草戸山を経由して高尾山口駅をめざすことにした。

 正直なところ、同じ山越えでも舗装路を走るのは退屈だ。半日も走っているとだるくなってくる。ところが、登山道に入ると、体が生き生きと躍動し始めるから不思議だ。〈ああ、やっぱりおれはこっち側の人間なんだな〉と思う。がぜん調子がよくなり、下りをがんがん走って高尾山口へ到着。

 丹沢と高尾、二つの山の谷間を縫うように乗り越えたことになる。ランニングの練習のつもりが、最終的には山行のようになり、終わってみれば、ちょっとした旅の感覚もある。距離は約50km、累積標高はD+1600m。「なかなかやりがいがあったね」とナツキくんと握手。ビールで乾杯する。充足感とともに帰宅したが、膝まわりには強い張りが残った。

 いま思えば、そこでしっかり休養期間を設けるべきだったのだろう。しかし、UTMFのコースで、冬の間にまだ試走していない区間が残っていた。それを片付け、「やれるだけのことはすべてやった」と思える状態でレースに臨みたかった。

 そこで2日後、山中湖へ向かうことにした。レースの当日、サポートクルーを務めてくれるチームメイトのクミさん、ヒロコさんも同行して下見をすることになった。

 まずは湖畔から鉄砲木ノ頭へ登る。野焼きされてハゲ山になってしまっていた。不憫でならないが、おかげで眺望はいい。そこから高指山を経由して山伏峠へ。さらに石割山へと向かう。

 その途中、下りで大きな岩に着地した瞬間、ふいに靴底が滑った。何とか持ちこたえようと左足を踏ん張ったときに、強烈な痛みが走った。何が起きたのかよく分からないまま尻餅をつき、イテテ……という感じで立ち上がった。

 すると膝の前側がキーンと痛み、力が入らない。山で転んだことは数え切れないほどあるが、初めて経験するタイプの痛みだった。少し立ち止まって屈伸すると、いちおう膝は動く。骨は問題ないようだし、可動域も確保されている。捻挫だろうか?

 ペースを落として、しばらく様子を見ながら進んでいく。しかし、時間がたっても、鈍い痛みが通奏低音のように居座り続ける。緩斜面は走れるが、急な下りは着地のたびに痛みが走り、うまく走れない。

 う~ん、これはちょっとまずいな……と思いつつ、本番ではエイドステーションが置かれる二重曲峠(にじゅうまがりとうげ)へ到着。そこから、クミさん、ヒロコさんは山中湖に戻り、僕はレースコースを辿って富士吉田へ向かうことになった。

 独りになり、冷静に転んだときの状況を思い返してみる。滑らかな岩の上をまっすぐにズルッと落ちたので、捻ってはいない。ただ、無理にブレーキをかけようとしたことで、腿側と脛側のジョイントが縦にずれる格好になり、靱帯がむりやり引き伸ばされた──膝の動きと痛みの状況から、その可能性が高いような気がする。それでもこれだけ動けるということは、靱帯は切れていないのだろう。ただ、損傷を負ったのは間違いない。

 その時点では下山することも、病院に行くことも考えなかった。冷静に状況判断をしているつもりだったが、レースに頭をとらわれて、ちょっとおかしくなっていたのだろう。

〈怪我をしてしまったことは悔しいし、情けない。考えていたレースプランはすべてパァだ。でも、ゆっくりなら動けるからDNS(棄権)する必要はない。とはいえ、今回は距離が100マイル(168km)もある。痛みを抱えた状態でどれぐらいやれるだろうか? 想像がつかない。ただ、考えてみれば、いまの状況はまさに膝の痛みを抱えながら、コース終盤の最難関にさしかかったときのシミュレーションになる。こうなったら、この膝で杓子山を越えられるかテストしておこう〉

 狂った発想だが、そのときはそう思っちゃったんだからしょうがない(苦笑)。

 杓子山は山頂直下が切り立ち、手を使って攀じ登る岩場もある。1598mという標高のわりには厳しい山だ。しかも、レースでは140km以上走ったあとに登ることになる。そのときの精神状態、フィジカル面がどうなっているのか、まったくイメージが湧かない。

 三点確保で岩場を登る。膝は深く曲げるとつらいが、登りの動きにはまあまあついてきてくれる。時間をかけてじっくり山頂へ向かう。登りきると、頂上には「天空の鐘」というモニュメントが建っていた。カーンと鐘を鳴らして、登りラウンド終了。あとは一気に下るだけだ。

 屈伸して膝の状態を確認する。痛みはあるが、この登りをこなせたのは大きい。これならレースも何とかなるかもしれない……と自信を持ちかけたのも束の間、下りに入ると、激痛が走るようになった。

 左膝の角度を一定に固め、右脚中心で走る。緩斜面なら走るには走れるが、これを何十キロも続けられるとは思えない。

 う~む、参ったな……と思いながら富士吉田に下山。クミさん、ヒロコさんと合流した。心配をかけたくないので、二人には膝のトラブルのことは言わずにおいた。

 とりあえず近くの葭之池温泉へ向かった。安政3年(1856年)に創業したという鄙びた温泉だ。湯船に浸かり、木の梁を見上げながら、あれこれと考えをめぐらせる。

 冬の間、何度も富士に通い、コース研究を続けてきた。100マイルは未知の距離ではあるが、区間ごとに着実にこなしていけば攻略できないことはないように思えた。練習を重ね、持久力もずいぶん高まっているのを感じていた。前哨戦となるハセツネ30Kのパフォーマンスもよかった。UTMFの結果についても、心に期するものがあった。

 その一方で、うまく行きすぎていることに対して不安も感じていた。〈あまりにも順調で怪しい。何か落とし穴があるかもしれない〉。これまでの人生や、いろんなスポーツ選手を取材してきた経験から、嫌な予感がしていたのだ。

 振り返ってみれば、膝の張りや、不整脈という形で、悪い兆候は現れていた。それをレースに向かう興奮の中で無視してきた。

 愚かだったなあ……とつくづく思う。「でも、まあ、それが人生ってもんだろう」と他人ごとのように見ている自分もいる。

 長く献身的な努力の果てに、わずかなミスですべてを失う。人生でも、スポーツでも、まま起こることだ。マラソンの世界ではよく「練習は裏切らない」と言われるが、それは若く、健康で、才能と希望に満ちあふれたアスリートの言葉だ。われわれのようにくたびれた中年ランナーは、往々にして練習に裏切られる(苦笑)。

 ともあれ、時間を巻き戻すことはできない。問題はこの試練をどう乗り越えていくかだ。もちろん、克服できずに終わる可能性もある。事実は小説よりも奇なり。結末は読めない。

 でも、だからこそやってみる価値があるのだと思う。途中でどんなことが起きても、受け入れる心構えはある。歳をとってよかったことのひとつは、ある種の諦観を持てるようになったことだ。若いときだったら、とてもそんなふうには思えなかっただろう。

 その日、絶望に陥らなかったのは、走ることは難しいにしても、歩くことはできたからだ。ところが、一晩寝て起きると、膝の関節が滑ってしまい、うまく歩けなくなっていた。

 やれやれ。この足でどうやって100マイルもの道のりを進めっていうんだ?



#3 「故障日誌」

 石割山で膝を怪我をしたのは2018年4月16日のことだ。それから数カ月の間、日々の膝の状況について「故障日誌」を付けることにした。

 よい出来事であれ、悪い出来事であれ、何か起こるたびに「これは文章のネタになるかな?」と考える習性が物書きにはある。だから、気がつくと、いつもいろんなことをメモしたり写真に撮ったりしている。

「故障日誌」なんて愉快なものじゃないし、書くことで問題が解決するわけでもない。ただ、少なくとも状況を客観的に見て、心を整える役には立つんじゃないかと思って記録することにした。ところが、いま見返すと、ぜんぜん状況を客観視できていなかったことに気づく。

   *

 とりあえず1日目は完全休養することにした。

《家の中を歩くことはできる。可動域も確保できているが、深く曲げると痛む。しばらくトレーニングを休んで、様子を見てみよう》

 2日目は外を歩いてみた。

《膝の関節がぐらついて、うまく歩けなかった。やはり十字靱帯が損傷しているのだろうか。手術になったらなったで仕方ない。それもひとつの経験だ》

 3日目は仕事で外を1万歩、約6kmほど歩きまわった。

《朝、レッグエクステンションをしてみると、痛みが減っている気がした。ただ、歩くとやはり膝がぐらつく。駅の階段の上り下りでは痛みが出た。耐えられないほどではないが、まだ山へ行くのは無理だ。千里の道も一歩から》

 上り下りができるか確認したかったんだろうが、「素直にエスカレーターを使え」と言ってやりたい。

 4日目は自転車で取材現場へ行ってみた。走行距離は約11km。

《やや膝に引っかかりはあるが、ペダリングはできる。上り坂でダンシングすると痛むが、耐えられないほどではない》

「ダンシングなんかしちゃだめだ、ばか!」と叱ってあげたい。ただ、膝のリハビリにバイクが最適なのは確か。そこは褒めてあげたい。

 5日目、「洋服ポスト」のボランティアで武蔵小杉へ行ったのだが、これまた自転車で往復している。走行距離は約50km。いくら自転車が膝にいいといっても漕ぎ過ぎだ。

《昨日の自転車で自信がついたので、今日は武蔵小杉までロングライド。最初は膝に引っかかりがあるが、漕いでいるうちにスムースに回るようになった。ただ、ダンシングや漕ぎ出しではまだ痛みが出る。でも、最初の絶望的な状況を思えば、5日でここまで回復したのは驚き。体が動くことのありがたさをあらためて感じる。膝は消耗品。大切に使っていかなければ》

 自転車で自信が付いたのか、6日目はジョギングをしている。

《おっかなびっくり走りだす。痛みはあるが鋭いものではない。膝が滑る感覚はなし。大事をとって3kmで終了》

 7日目、8日目はジョギングの距離を6kmに伸ばした。ペースはキロ6分。

《とりあえず平地はゆっくり走れるようになったので、たぶん十字靱帯は大丈夫なのだろう。走り終えた後、突っ張りを感じるが、痛みまではいかない。問題は長時間、山道のアップダウンに耐えられるかどうか。これはレースになってみないと分からない》

「耐えられねえよ!」というのは、いまだから言えることで、このときはとにかく必死に希望を持とうとしていたんだと思う。違和感、痛みがありながらも、それなりに走れてしまったことが、判断を狂わせた。自分にとって都合の悪い情報を無視する「正常性バイアス」が生じていた気がする。

 9日目は自転車を6km。そして、10日目はもうレース前日。最終チェックのため、ジョグとキロ4分半を交えた変化走で5km走った。

《朝起きたとき、久しぶりに膝のことを考えなかった。いい傾向だ。膝に違和感はあるが痛くはない。レース中に炎症を起こすかどうかはやってみなければわからない》

 こうして毎日、膝の動きと痛みを確認しながら自己診断を続け、結局、病院へは行かなかった。病院が苦手なのに加えて、こんなふうに考えたからだ。

《病院へ行けば、十中八九ドクターストップがかかる。それでも、自分の性格を考えると、結局は強行出場することになる。だったら、ひとつでも迷いの要素は少ないほうがいい。病院はレースの後だ》

 なんて頑迷な人間なんだろう(苦笑)。我々が自分の愚かさに気づくのは、たいてい事後のことである。

   *

 UTMF直前の試走で転倒し、左膝を故障したのはもう2年前のことになる。いまは病気の手術のために入院しているのだが、窓から冠雪した富士山がきれいに見える。よくあの膝で、あの巨大な山のまわりを100マイルも走ったものだなあと思う。今回もうまく回復して、春からのトレイルシーズンに臨めるといいのだが……。

【追記】(2023年)
 このパートを書いたのは2020年2月で、腫瘍の手術を受けるために入院していた。幸い悪性ではなく、手術後しばらくしてランニングや登山を再開できた。
 しかし、その頃にはコロナ禍が始まり、レースは軒並み延期、中止となっていた。その後、東京五輪の延期をめぐる騒動もあり、個人的にもスポーツの価値を考え直すことになった。
 スポーツ馬鹿のようでいて、じつは競技スポーツに対する疑問が僕の中にはずっとある。一方で、アマチュアである自分がウルトラを走る理由、100マイルにこだわる意味についても疑問を持っている。だからこそ、走り続け、考え続けているのかもしれない。
 結論が出て、すっぱり〝競技〟を辞めて、ジョガーに戻れれば幸せだろうなと思う。そのほうがきっと心身の健康にはいい。でも、もはや POINT OF NO RETURN を越えて、泥沼の塹壕戦に入ってしまった気がする。スポーツって本当に厄介ですね(苦笑)。



#4 「100マイルを走るための装備」

 最近のトレイルレースは「必携装備」のチェックが厳しくなっている。とくに100km超級の場合、レインウェアや防寒着、ライト、水分量などについて事細かな規定がある。国内のレースでは、UTMF、信越五岳、FTR100Kあたりの規定はかなり厳しい、というか指示が細かい。「防寒用長袖シャツ。裏が起毛したシャツ、フリースやソフトシェルなど。綿素材は不可」といった具合だ。

 走るほうとしてはできるだけ装備を軽量化したいから、「これは使わないなあ〜」と文句を言いたくなる。実際、必携品を持っていなくて失格になる人もときどきいる(正直に言うと、僕も水の量は少ないことがあります。すみません……)

 プロトレイルランナーで信越五岳をプロデュースしている石川弘樹さんは、「本当は必携装備なんて指示したくないんです」と言っていた。たとえば、本当に強いランナーは信越五岳110kmをウインドブレーカー1枚と給水ボトル1本で走りきることができる(エイドステーションが充実しているからこそだが)。その一方で、山岳経験、装備の知識、コースの理解度が浅い人によるトラブルも増えてきたため、仕方なく必携装備のチェックを厳しくしたそうだ。

 本来、山岳スポーツにおいては「必携装備を持たされる」のではなく、個々人が判断して「自分の身を守るために必要な装備を持つ」べきだろう。

 その点、UTMFに関していえば、必携装備=必要装備だと感じた。4月末の夜に天子山地(1575m)、竜ヶ岳(1485m)、杓子山(1598m)を通過する場合、大会側が指定している装備はどれも納得できるものばかりだ。とくに防寒、雨対策は重要で、自分の登山経験から考えても省く理由がない。問題は必要な装備をすべて持った上で、どれだけ軽量化できるかということだ。

 そこで、試走時にいくつかのザックやウェアを試しながら、以下のような装備を持つことにした。

■ザック
 サロモンのレースベストADV SKIN 12と、給水フラスク500ml×2本(合わせて約400g)。

■シューズ
 アシックスのゲルフジ ライト(約230g)。UTMFは距離が長く、ターマック(舗装路)も多いので、本当はもう少しクッションがあるものにしたかったのだが、このときは幅広な僕の足型に合う、厚底・軽量モデルが見つからなかった。

【追記】(2023年)
 ちなみに、ゲルフジ ライトはトレイル版ターサーとでもいうべきモデルで、長年愛用していた。ところが、このあと廃盤になってしまいシューズ難民に。
 困ったなあと思っていたとき、UTMB王者グザビエ・テベナールがアシックスのトラブーコ プロを履いているのを見て、2019年から試すことに。ちょっと重いけど、グリップがとてもいい。とくに雨の日は頼りになる。
 さらに、その後はトラブーコライト、フジライトと乗り継ぎつつ、並行してHOKA ONE ONEのCHALLENGER ATRや、ナイキのペガサス トレイルも使用している。

■ウェア
 ベースレイヤーは半袖のTシャツとショーツ。レインウェアはサロモンのBONATTI(2.5層生地、上は約200g、下は約110g)。昼の暑さが予想された2日目は、ドロップバッグを利用して軽量なモンベルのバーサライト(約170g)にチェンジ。
 防寒着はモンベルのダウンジャケット(約190g)。さらにバフを1枚とグローブ。グローブは防寒用でもあるが、転倒したときの手の保護も兼ねている(なんせ直前のハセツネ30Kで手のひらを擦りむいて痛い思いをしたので)。

■電装系
 ライトがペツルのリアクティックプラス&予備バッテリー。サブライトはモンベルの小型。リアの点滅ライトはネイサン。
 GPSウォッチはガーミンForeAthlete935。心拍計を兼ねている。
 スマホは普段のiPhone 6s Plus(192g)はでかくて重いので、レース中のみ以前使っていたiPhone 5s(112g)に戻した。さらに充電用のモバイルバッテリー。

■小物系
 コップ、熊鈴、ホイッスル、サバイバルシート、テーピング、携帯トイレ、ティッシュ、地図、保険証、現金1000円、ジップロック(濡らしちゃいけない装備を入れる)

■行動食
 試供品の粉飴ジェルとトレイルバター。さらにカロリーメイト、アミノバイタル、塩分タブレット。ドロップバッグにゼリー、おにぎり、ナッツ、練乳。エイドが充実しているから、手持ちの行動食はあまり使わないだろうと予想していたが、その通りになった。

 結果的に滅茶苦茶なレースになってしまったので評価が難しいところだが、装備についてはおおむね正解だったと思う。冷え込んだ竜ヶ岳と二十曲峠でリタイアせずにすんだのは、防寒対策のおかげだった。

 ちなみに、スタート前の装備確認だけでなく、途中のエイドでもチェックがあったので、きちんと持っていてよかった。まあ、それがあたりまえなんだけど(苦笑)。

 失敗したのは、痛み止め(ロキソニン)を持たなかったこと。「クスリを飲むぐらいなら、潔くリタイアしよう」と思っていたのだが、途中で「膝の痛みを止めて、何とか完走したい」と気持ちが変わったからだ。

 あと、ドロップバッグにワセリンを入れておくのを忘れた。終盤、右足の裏にブリスター(水ぶくれ)ができてしまったのだが、これは対策しておけば防げたトラブル。ウルトラでは小さいミスが後々大問題になることをあらためて痛感した次第。



#5 「ジキル博士とハイド氏」

〈なぜこんなに走れるんだろう?〉

 そう訝しみながら序盤の林道を走っていた。滑らかに脚が前に出る。膝はまったく痛くない。

 試走禁止区間なので走るのは初めてだが、コースプロファイルによると8kmまでは下り基調。まわりのランナーがみんな飛ばしていることもあり、自然とペースが上がる。ガーミンを見るとキロ4分50秒になっている。路面には硬いコンクリートの部分もあり、着地衝撃はけっこうある。

〈ここで飛ばすとあとでたっぷりしっぺ返しを食らうぞ。自重しろ〉

 脳内のジキル博士が忠告してくれる。しかし、ハイド氏が悪魔のように囁く。

〈膝が動いているうちに進めるだけ進んでしまえ!〉

 100kmのレースだってこんなにスピードを上げることはない。どう考えてもオーバーペースだ。でも、下りで無理にブレーキをかけると、かえって膝まわりの筋肉に負担がかかる気もする。どうする?

 関節のロックを解くように、脚が走りたいように走らせることにした。〝馬なり〟ならぬ〝脚なり〟だ。

〈筋力は使っていない。きっと大丈夫だ〉

 こうして早くも最初の判断ミスを犯した。国際格式のビッグレース。自分では落ち着いているつもりだったが、華やかな雰囲気の中で平常心を失っていたのかもしれない。

   *

スタート会場・富士山こどもの国

 4月28日金曜日の朝、マイカーとシャトルバスを乗り継ぎ、スタート会場の富士山こどもの国へ向かった。気分は意外に落ちついていた。憧れの100マイルレースを走るんだという昂揚感と、故障による不安がせめぎ合い、奇妙な平衡状態に入っていたのかもしれない。

 富士山こどもの国には11時ぐらいに到着した。何本も鯉のぼりが翻っている。「そうか、もうすぐこどもの日か」と気づく。この10日間、膝とレースのことばかり考えていて、視野が狭くなっていた。

 空は曇天。風が吹くと少し肌寒いが、Tシャツにウインドブレーカーぐらいでちょうどいい。外国人ランナーが多いせいか、会場には他の大会にはない独特の雰囲気がある。

 受付の後、必携装備をトレイに載せてチェックを受け、さらに植生に配慮して靴底も洗う。

 STY(90km部門)に出る友人たちのスタートを見送ってから、ブースを見て回る。お目当てはペツルのサービステント。ライトのセッティングについてノウハウを教わる。ノーマルの光量で照らすと一晩は保たないそうなので、おすすめの3パターンの光量をセットアップしてもらった。

 当初のプランでは27〜30時間でゴールするつもりだったので、夜間セクションは1晩プラス3時間程度と見積もっていた。しかし、膝を故障したことで時間がまったく読めなくなった。予備バッテリーもサブライトもあるが、まるまる2晩、20時間ほど点灯する可能性も考えて、なるべくエコモードを使うことにする。

 顔なじみの文藝春秋のカメラマンが撮影に来ていたので、スタートまで世間話。おかげで緊張をほぐすことができた。何枚か記念写真も撮ってもらう。

 スタート前、ブロックに入ってから、妙に装備のことが気になって、ザックをおろして何度も確認する。やはり緊張しているのだろう。シューズの紐を結び直し、体を冷やさないように着ていたレインジャケットを脱ぐ。

 大会の副実行委員長でミュージシャンでもある福田六花さんのギター演奏が響き渡るなか、15時にスタートが切られた。

   *

 15km地点、粟倉のウォーターエイドはスルーして、そのまま先に進むことにした。ここまでの区間タイムは1時間19分。順位は分からないが、周囲のランナーの密度から、少なくともボリュームゾーンの前にいる感じはする(あとで確認したら271位だった)。

 これなら天子山地の入り口で渋滞にはまることもないだろうと考え、意図的に少しペースを落とす。膝は不気味なほどに快調だ。

■1日目 17時07分 A1 富士宮(22km地点)IN タイム2時間07分22秒(253位)

 この先に待ち構える天子山地は、富士山と南アルプスに挟まれた南北に長い山脈で、このコースを攻略する上でのキーポイントのひとつだ。渋滞の問題もさることながら、地形的に冷え込みやすいというリスクもある。夜が深くなる前に脱出しておくに越したことはない。

 とはいえ、あまりに気持ちがはやりすぎている。心をスローダウンさせるために、あえて座って休憩をとることにした。補給をとりながら、エイドを行き交う人々を眺める。

 テントの前には様子を見に来た大会実行委員長の鏑木毅さんがいて、にこやかに記念撮影に応じている。一方、脇目も振らず、先を急ぐランナーもいる。

 ここは我慢だ。自分は何者で、いまどこにいて、何をやっているのかをあらためて問い直す。

 膝を故障した冴えない中年ランナーが、初の100マイルレースに挑み、夜を迎える天子山地に入ろうとしている。

〈まともじゃない。でも、これがおれのやりたいことなんだ〉

 10分が過ぎ、これ以上休むと体が冷えそうだった。おもむろに立ち上がり、ザックを背負う。大好きな山登りの時間の始まりだ。

■1日目 17時19分 A1 富士宮 OUT 2時間19分25秒(350位)



#6 「変調」

 天子ヶ岳(1330m)の登山道に足を踏み入れると、スッと心が落ちついた。やっぱり山はいいな、おれのフィールドはここだと思う。

 登り始めてほどなく日没し、ヘッドランプを点灯した。宵のうちはエコモードの光量で充分だ。

 標高差800mを淡々と登り詰めて、天子ヶ岳山頂へ。その先はハセツネの峰見通りにも似た、のこぎり上の稜線が待っている。アップダウンを繰り返し、ガリガリと脚を削られた後は熊森山(1575m)への急登が待っている。

 ここで最初の変調を感じた。それほどプッシュしているわけじゃないのに、やたらと心拍数が上がってしまう。冬場にも出ていた不整脈に近い症状かもしれない。吐き気まではいかないが、そこはかとなく気持ち悪さも感じる。胃酸の問題なのか、酸欠、血圧の問題なのか……?

 体の声に耳をすませ、深い呼吸を心がける。膝よりも前に心肺が、しかもこんなに早くへたるとは思ってもみなかった。ただ、熊森山さえ乗り越えれば、しばらくは下りで休むことができる。

〈人生楽ありゃ苦もあるさ……〉と呟きながら、熊森山の〝壁〟を処理していく。

 そういや、試走のときもここでへこたれたなあ、と思い出す。日中なら景色で気が紛れるが、いまはヘッドランプが照らし出す地面と、前を行く選手の背中しか見るものがない。

 山登りやランニングをしていると、忘れていた過去の記憶がポコッと湧き出してくることがある。腹が立った出来事がマグマのように噴き出して、あらためて怒りが込み上げたりもする。

 やれやれ、なんだって山まで来て、そんなことを考えなきゃいけないんだ? とげんなりする。そういうときは怒りも力に変えて登ることにしている。ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、強い感情はエネルギーになる。

 コノヤロウと思いながら熊森山を乗り越え、急勾配の下りにとりかかる。フットワークの感覚は悪くないようだ。

 登山道から出たあと、しばらく舗装路を走り、第2エイドの「麓」へ向かう。天子山地とはここでいったんお別れだ(竜ヶ岳で再び登り直すことになる)。やっぱり苦戦したが、早めに脱出できたのはよかった。

■1日目 22時18分 A2 麓(50km)IN 7時間18分09秒(263位)

 遊園地の回転木馬から木馬を取り去ったような、不思議な形の建物が暗闇に浮かび上がる。「麓」エイドは不夜城のごとく活況を呈していた。中はボランティアとランナーでごった返している。友人のナツキくんがここでボランティアをしていると言っていたので、探してみるか……と思う間もなく、すぐに見つかった。ペンギンのかぶり物をつけていたからだ(笑)。

 UTMFはボランティアの人気も高く、人数も多い。オーガナイズするほうはさぞや大変だろうと思う。これだけの大会を運営できるのは、鏑木さんがかつて群馬県庁で公務員をしていたこととも関係している気がする。近年、プロトレイルランナーがプロデュースする大会が増えてきたが、その中でも群を抜いてすべてが行き届いている。

 給水作業をしているナツキくんに「おつかれさん」と声をかけ、とりあえずベンチで休むことにした。心肺の問題を何とかしなければならない。だいぶ冷え込んできたので、ダウンジャケットを羽織って横になる。ところが、普段なら数分で下がる心拍数がなかなか落ちない。

 このあとコースは東海自然歩道に入り、しばらく平坦区間が続くから、体への負荷は低い。とはいえ、慌てて出発し、途中でダウンしたら余計に時間をロスする。腹を括って長い休憩をとり、回復をはかることにした。

 しばらくすると、ナツキくんが様子を見にきてくれたので、ここまでの展開について話をする。名物の富士宮やきそばを食べ、コーヒーで体を温めてから出発。結局、47分も滞在してしまった。序盤の貯金をすべて使い果たした格好だ。

■1日目 23時05分 A2 麓 OUT 8時間05分06秒(354位)

 竜ヶ岳に向かう草原を走っているとき、ついに左膝に痛みが出た。

〈ああ、やっぱり来たか……そりゃそうだよな……〉

 ここまで下りと平坦が多かったとはいえ、すでに距離は55kmに達している。痛まないのが不思議なくらいだった。むしろ、よくここまで保ってくれたと感謝したいぐらいだ。

 しかし、ゴールまではあと113kmもある。だましだましやっていくにはあまりに長い。

〈どこかでリタイアすることになるんだろうか? リタイアするとしたらどこだ? どこまでやれば納得がいく?〉

 もうひとつの気がかりは、2日目からチームメイトのクミさんとヒロコさんがサポートに来てくれることだ。

〈せめて二人と合流するまでは続けないとな……〉

 いろんな思考が頭を駆け巡る。

〈それにしても、いてえなあ、ちきしょう……〉

 痛みの質は腸脛靱帯炎と似ていて、左足を着地するたびにズキッと来る。ストライドを狭め、何とか走る動きを保とうとするが、痛みはどんどんひどくなる。もう走るのは無理か……と思ったところで、竜ヶ岳への登りに差し掛かった。

 そこで歩きに切り替えると、痛みが和らいだ。走りと下りの動きはだめだが、登る動きは大丈夫なようだ。前後ある十字靱帯のうち、片方だけが損傷しているということだろうか? はっきりとは分からないが、ともかく登れるのはありがたい。

 これなら何とか……と希望を持ちかけたところで、今度は心肺が苦しくなってきた。そして竜ヶ岳からの下山中、完全にダウン。その顚末はすでに書いた通りだ。

 これまで12本、オーバーナイトのウルトラトレイルに出てきたが、夜間はいつも体調がおかしくなる。心肺の問題に加えて、神経系にも何か問題がありそうだ。まあ、体が寝たがっているのに、むりやり徹夜で走るわけだから、おかしくなってあたりまえかもしれないが(苦笑)。

 命からがら本栖湖に辿り着き、ロードをよちよち走りながら、キャンプ場に設けられたエイドステーションをめざす。膝に痛みが出ない走り方を探すが、それは徳川埋蔵金を探すよりも難しいと悟り、諦めた。でも、まだレースを諦めるつもりはなかった。

■2日目 2時23分 A3 本栖湖(65km)IN 11時間23分05秒(441位)



#7 「停滞」

 これまでのエイドステーションはテントや屋外施設だったが、A3 本栖湖エイドはキャンプ場のしっかりした建物の中に設置されている。ストーブが焚かれて室内は暖かく、奥には毛布が用意された仮眠スペースもある。

 序盤のエイドは活気に満ちて騒がしい雰囲気だったが、深夜2時を回り、さすがにみんな疲労の色が濃い。椅子に座って一点を見つめ、微動だにしない人もいれば、体調を崩して救護を受けている人もいる。さながら野戦病院の様相だ。とりあえず温かいコンソメスープとロールパンをもらい、人心地つく。

 当初のプランでは、長く停滞するならドロップバッグを受け取れるA4 精進湖を想定していた。しかし、ここからA4までは12kmある。フレッシュな状態ならいざ知らず、膝が壊れ、呼吸にトラブルが出ている状態では何時間かかるかわからない。ここでいちど仮眠をとることにした。

 仮眠スペースの一角に隙間を見つけ、毛布にくるまって横になる。近くでは胃が痛いと訴える選手が、救護のドクターとボソボソ話をしている。眠る努力をしてみるが、興奮とざわついた雰囲気のせいで入眠できない。脳を休めるのは諦め、体だけ休ませればいいと割り切って、今後の展開を考える。

 この先は富士五湖を順番に辿るように山中湖まで進むことになるが、その間、一級の山岳はなく、舗装路も多い。タイムを狙うのならスピードを出して、がんがん進むべきゾーンだ。しかし、この膝では歩き中心で行かざるをえない。

 ただ、それは心肺への負荷が減ることも意味する。呼吸のトラブルは解消するはずだ。膝の痛みさえ我慢すれば、スローペースで進み続けることができるかもしれない。

 その場合、制限時間が問題になるが、UTMFの場合はトータル46時間とかなりゆとりがある。3日目の13時までにゴールに辿り着けばよく、まだ34時間残っている。亀のように堅実に動き続けていれば何とか……と皮算用する。

 ネックとなるのは痛みだ。準備段階で痛み止めについては何度か考えたが、これまでレースで痛み止めを使ったことは一度もない。感覚を失うのが嫌なのと、そもそもプロ選手じゃないんだから、そこまでして走る必要はないと思うからだ。

 ただ、今回の怪我や年齢のことを考えると、100マイルを走るのはこれが最初で最後になるかもしれない。ならば、クスリを使ってでも完走したい……そういう気持ちも湧いてきた。

 スマホを取り出し、明日サポートに来てくれるクミさんにロキソニンを持ってきてくれるようにメッセージを送る。ただ、クミさんの到着は午後になる。それまで耐えられるかどうか……と考えているうちに、90km地点の勝山で、友人のフルヤさんがボランティアをしていることを思い出した。ひょっとして痛み止めを持っているんじゃないか? そう思ってメッセージを送ってみる。

 1時間ほど横になっていたが、少しウトウトしただけで、ほとんど眠れなかった。これ以上うだうだ停滞していても、精神衛生上よくない。毛布から抜けだし、出発することにする。

 コーヒーを一杯飲み、外に出ると、湖畔の冷気が頬を刺した。あたりはまだ暗いが、空気には朝の気配が漂い始めている。フリーズしたコンピュータを再起動させるように、脳のスイッチを入れ直す。命を削る100マイルの旅、2日目の始まりだ。

■2日目 4時08分 A3 本栖湖 OUT 13時間08分13秒(715位)

 キャンプ場の奥にある登山道から、つづら折りの斜面を登っていく。登りの動きはやはり大丈夫なようだ。壊れかけながらもまだ動いてくれる膝に感謝し、一歩一歩進む。

 中ノ倉山からパノラマ台まで、本栖湖の北西をぐるりと巡るこのトレイルは、絶景の富士が見られる気分のいいルートだ。稜線にとりつこうとしているとき、富士山の背後から太陽が昇ってきた。スペインのランナーが「ワオ!」と言って、その様子に見入っている。「最高の眺めだね」と話しつつ登っていく。今日は快晴が期待できそうだ。

 昨日は曇りで、スタート後ほどなく夜になってしまったので、眺望とは無縁の一日だった。暗闇の中を走っていると、どうしても意識が内にこもる。すると、必然的に痛みや苦しみのことばかりを考えてしまう。しかし、眺望があれば、意識が外に開かれ、痛みがあっても楽天的になれる。

──光の中を一人で歩くよりも、闇の中を友人と共に歩くほうがいい(ヘレン・ケラー)

──光あるうち光の中を歩め(レフ・トルストイ)

 どちらの言葉も真理だろうが、いまの気分は後者である。

 ヘッドランプを外してザックにしまう。停滞時間が長かったこともあり、バッテリーはまだ1個目でもっている。これなら2回目の夜を歩き通すことになったとしても大丈夫だ。

 稜線に出て小走りを始めると、板張りの廊下のように、膝がギシギシと軋みだした。パノラマ台からの富士は絶景だったが、その先の下りでは着地のたびに五寸釘を膝の皿に打ち込まれているような衝撃がはしった。

〈もう少しの我慢だ。あと一息でドロップバッグを受け取れる〉

 それで何かが解決するわけじゃないが、それだけを心の支えに精進湖をめざした。

中ノ倉峠 展望地

#8 「避けがたい痛み」

《Pain is inevitable, Suffering is optional. それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。》(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』より)

 もともとはルーマニアのマラソン選手、リディア・シモンの言葉らしい。そのマントラを頭の中で何度も唱えながら、精進湖への森を走る。左膝の痛みは耐えがたくなっているが、朝の光を浴びて気力は戻ってきた。

「ドロップバッグ、着替え、補給、トイレ……」。TO DOリストを口の中で呟きながら、精進湖民宿村のエイドステーションに入っていく。体育館の入り口には大勢のボランティアが並び、「ナイスラン!」と言って、元気にランナーを出迎えてくれた。

■2日目 6時52分 A4 精進湖民宿村(77km)IN 15時間52分39秒(683位)

 ドロップバッグを受け取り、仕込んでおいたおにぎりやゼリーをパクつきながら、タオルで体を拭き、汗と泥で汚れたシャツとソックスを新しいものに替える。トイレに行って顔を洗い、歯を磨き、髭も剃る。

 タイムを狙って走る選手はそんな悠長なことはしないが、われわれのような一般ランナーがオーバーナイトのレースを走る場合、そうした日常のルーティンを丁寧に行うことも大事な気がする(プロランナーの石川弘樹さんも歯磨きをすすめていた)。それで心身ともにずいぶんリフレッシュできるし、山道を走る獣から、まともな人間に戻れる感じがするからだ。

 ただ、今回はここでもひとつミスを犯した。足裏のブリスター(水ぶくれ)予防に、ワセリンを塗り足しておこうと思っていたのに、ドロップバッグに入れ忘れていたのだ。

 体育館の一角ではコンディショニングケアのサービスが行われていたので、脚のマッサージを受けてみることにした。今回のUTMFでは9つあるエイドステーションのうち、じつに6箇所でこうしたサービスが行われていた。これほど至れり尽くせりの大会は他にない。

 僕は普段、マッサージや治療はまったく受けないし、走るために痛み止めを飲むこともない。小さい故障は自然に治るのを待つ。プロじゃないんだし、そこまでして走る必要はないと思うからだ。しかし、いまはそんな思想信条はどうでもいい。膝の痛みが少しでも和らぐなら、悪魔と契約してもいい気分だった。

 おにぎりを頬張りながら、ケアを受ける選手の列に並ぶ。このエイドで施術を担当していたのは Polar Bear Trainer’s Team。僕の脚を診てくれたのは、悪魔どころか天使のような女性のトレーナーだった。

 彼女は職業人らしい手つきで脚を一通りチェックし、「筋肉は全体的に柔らかいですけど、腸脛靱帯はかなり張っていますね」と言う。故障をかばってバランスの悪い動きをしたことで、腸脛靱帯に負担がかかっていたのかもしれない。

 さらに、「大腿四頭筋は強いけど、ハムストリングや大臀筋など裏側の筋肉が弱いですね」という指摘も受けた。10分ほど施術を受けながら、トレーニング法などについても教えてもらい、とても勉強になった。

「テーピングはしていないんですか?」と訊かれる。「ええ、普段からしていないんですよ。やっぱりしたほうがいいですか」「いや、必ずしもそんなことはないですよ。怪我の予防にはなりますけど、それよりもやっぱり体の使い方のほうが大切ですから」

 トレイルランナーには、膝の皿を囲むようにテーピングをしている人が多い。あれは「効き目がある」と心から信じることで効果を発揮するのだと思う。僕にはそういう〝信仰心〟が欠けているので、貼っても効かないだろうと考えてきた。でも、この際、理屈や信心はどうでもいい。腸脛靱帯に沿ってテープも貼ってもらうことにした。

 結局、エイドに1時間以上も滞在してしまったが、先に進むために必要な時間だったと考えることにする。急がば回れだ。

■2日目 8時00分 A4 精進湖民宿村 OUT 17時間00分31秒(675位)



#9 「ハンドパワー」

 A4 精進湖民宿村(77km地点)を出ると、昨日の曇天から一転、空はきれいに晴れ上がっていた。小走りしてみると、予想以上に脚が軽くなっていて驚く。普段マッサージを受けないから、余計に効果を感じるのかもしれない。

 精進湖から忍野にかけては平坦な区間が多く、タイムを出すにはここをしっかり走る必要がある。僕にはもうタイムは関係なくなっていたが、それでも走れる場所で歩いていると気持ちがダレてしまう。ひょこひょこと、ぎこちない動きではあるが、走れるようになったのはありがたい。

 舗装路をしばらく走ってから、足和田山(五湖台)に登る。西湖〜河口湖の眺望がよく、昔から好きな山だ。遠くから見ると、稜線が牛の背中に似ているので「寝牛山」と呼ぶ人もいると、地元の人に聞いたことがある。

 登りは膝の痛みが出ないこともあって快調に歩くが、下りにさしかかるとまた痛みが強くなった。ただ、この先の勝山ではフルヤさんがボランティアをしている。とりあえずそこをめざして走る。A2にナツキくんがいたのも励みになったが、所々に知り合いがいるのはありがたい。「何としてでもそこまでは行こう」という気になるからだ。

 足和田山を下り、勝山のエイドに向かう路上でコース誘導をしていたフルヤさんとぶじに会うことができた。痛み止めをもらい(結局飲まなかったが)、少し立ち話をしてからエイドに向かう。

■2日目 11時00分 A5 勝山(94km)IN 20時間00分53秒(620位)

 勝山エイドでもコンディショニングケアのお世話になった。ここでケアを行っていたのは X-PORT KOBE という団体。小沢健二と羽生結弦を足して二で割ったようなイケメンのお兄さんにマッサージをしてもらう。

 台に横たわると、「やる前の脚の感覚を覚えておいてくださいね」とにこやかに言われる。この人の施術は精進湖のトレーナーさんとは違い、筋肉を揉むというより、脚を揺らしたり、皮膚を撫でる動きが多い。いわゆるリンパマッサージというやつだろうか。

 数分間、両脚の施術を受けた後、「脚を上げてみてください」と言われたので、台の上で持ち上げてみると、スッと上がって驚いた。施術前は鉄アレイをくくりつけられているかのように重かったのだが、明らかに軽くなっている。脚に溜まっていた体液が血管に戻ったということか。

「すごい! 本当に軽くなりましたよ」と感謝すると、トレーナーさんは「いい反応です」と言ってニヤリと笑う。〝超魔術〟を決めてみせた後のMr.マリックのようだ。

 マッサージ師の中には、マジシャンや宗教家と似たタイプの人もいる。たとえば、ニューエイジ系のグル(導師)は目の前で〝ハンドパワー〟を見せたり、〝癒し〟を体感させたりして、信者を驚かせ洗脳する。こうして体に変化が起きたりすると、たしかに信じるかもしれないなあ……と思う。

 それはともかく、いまは少しでも脚が動くようになれば御の字だ。オザケン風トレーナーさんにお礼を言って、エイドを出る。

 ゆっくり走ってみると、左膝の痛みは変わらないが、少なくとも右脚は軽くなっていた。本来の動きが戻ることはもうないだろうが、エイドで休んでケアを受ければ、その後、一定時間は走れる。2回の施術でそれがわかったのは収穫だ。

 頭の中を支配していた「リタイア」という言葉は消えた。こういう状態でどこまで行けるか? ひとつの実験としてやってみよう。再びついた小さな灯火が消えてしまわないように、よちよちと走り始めた。

■2日目 11時38分 A5 勝山 OUT 20時間38分59秒(615位)



#10 「援軍」

忍草山からの富士山

 試走のときから「えぐい登りだなあ」と思っていた忍野(おしの)の忍草山(しぼくさやま)の山頂をめざしているとき、海外の女子選手に追いついた。ゼッケンにはイタリアと書いてある。映画『アメリカン・ビューティ』でケビン・スペイシーを魅了した美少女、ミーナ・スヴァーリに似ている。はちきれそうな若さが眩しい。

「タフな登りだね」と声をかけ、前後しながら登る。イタリアン・アルプスに比べたら、山というより丘のようなものにすぎないかもしれない。しかし、100kmを超えてから現れると、2000m峰に匹敵する破壊力がある。

 頂上に着くと、彼女は笑いながら木の幹を抱きしめて目を閉じていた。徹夜で走ってきて、眠さも限界に来ているのだろう。

 UTMFは日本で唯一と言っていい国際格式のウルトラトレイルレースだ。外国人の参加者が多いので、ちょっと〝本場〟の雰囲気を感じることができる。

 忍野の里に下り、エイド会場の学校に向かっている途中、ハセツネ・フィニッシャーのピンクのTシャツを着た応援の人が見えた。ん? と思ったらヒロコさんだった。予定ではもうひとつ先のA7「山中湖きらら」に来てくれることになっていた。想定より早い援軍の到着に、うれしさを通りすぎて呆然としてしまう。エイドの前まで行くと、クミさんが補給物資を詰め込んだクーラーバッグを持って待っていた。百人力である。

 ただ、このエイドでは私的サポートはできないことになっていたので、とりあえず今後の動きについて相談し、エイドに入る。

■2日目 15時04分 A6 忍野(113km)IN 24時間04分03秒(569位)

 エイド内で3回目のコンディショニングケアを受ける。ここの受け持ちは青虎会リハビリテーションチーム。ベテランの男性トレーナーさんに診てもらう。一通りマッサージをしたあと、脚の動きをチェック。持ち上げた膝がカクッと落ちる動きを見て、トレーナーさんは驚き、呆れたような表情を見せた。

「膝を痛めたことがありますか?」

「あります」(つい10日ほど前に、とは言わないでおいた)

「これでよく走ってるね。後十字靱帯が完全に緩んでるよ。膝を痛めたら医者に診せなきゃ。これじゃどうにもならないよ」

〈やっぱり十字靱帯だったか……もうこれからは昔のようには走れないんだろうなあ……〉と暗澹たる気持ちになる。と同時に、〈まあ、その状態でもここまで100km以上走ってきたんだからなあ。人間の脚って大したもんだ〉と、他人事のように感心する。

 このトレーナーさんにも、臀筋やハムストリングスをもっと鍛えるようにアドバイスを受けた。よっぽど前側の筋肉(大腿四頭筋)に頼って走っていたのだろう。

(その後、数年かけてフォーム改造と筋力トレーニングを続け、最近ようやくトレーナーさんが言っていたことが理解できるようになった)

 僕には速く走る才能はない。それはレーシングカートやロードバイクをやっていたときにも痛感した。スピードに対するセンスのようなものがないのだ。その代わり、ひとつのことをコツコツ続ける忍耐力は持っている。うまくいかなくても、諦めずに続けてみる。その能力だけで人生を打開してきた……いや、打開できなかったことのほうが多いか(苦笑)。はたして今回は打開できるのか、できないのか?

 怪我の実態が明らかになったことで落ち込む気分もあったが、この先はサポーターの二人とチームで戦える。それはプラス要素だ。ともかくエイドを出て、前に進もう。

■2日目 15時46分 A6 忍野 OUT 24時間46分08秒(566位)

 しばらく平坦な田園地帯を走ったあと、林道に入り、大平山の稜線に向かう。山中湖と富士山の眺めが素晴らしく、ハイカーにも人気のコースだ。長い木段を登りきると、今日も絶景が待っていた。

 石割神社では名物の石の隙間に入ってみる。普段のレースだったら先を急ぐところだが、もうタイムは関係ない。ゴールまで辿り着けたとしても、おそらく3日目になるだろう。こうなったら、この奇妙な旅をとことん味わおうという気分になっていた。

■2日目 19時00分 A7 山中湖きらら(128km)IN 28時間00分43秒(546位)

 きららの屋外ステージの芝の上に、クミさん、ヒロコさんがシートを広げ、補給の準備をしてくれていた。ありがたい。

 2回目の夜がやってきた。夜空には白い月が浮かび、気温も下がり始めている。この先は山伏峠、石割山、杓子山と、難関の山岳区間が続く。もう夜になってしまった以上、急いで突っ込んでも仕方ない。すこし仮眠をとることにして、エイド内の仮眠スペースに向かう。

 30分ほど眠っただろうか。体は疲れたままだが、少し頭が動くようになった気がする。

 外は4月とは思えないほどの冷え込みだ。防寒ウェアを着込んで出発の準備をする。次に私的サポートを受けられるのは、二つ先のA9 富士吉田。この脚では何時間かかるか読めない。サポートの二人にも徹夜を強いることになってしまう。「もうしわけないですけど、たぶん朝になります」と先に謝っておく。「とことん付き合いますよ」。力強い返事に励まされる。エイド滞在は2時間。もう21時になっていた。

■2日目 21時06分 A7 山中湖きらら OUT 30時間06分34秒(672位)



#11 「夜明け」

 試走の際に怪我をした、因縁の切通峠〜高指山をじわじわ進む。スリップした岩を見定めようとしたが、暗くてよく分からなかった。

 夕方にいちど通過した石割山に、今度は裏から登り、二重曲峠へと下っていく。エイドの灯りがずっと見えているのだが、なかなか着かないのがもどかしい。

■3日目 1時58分 A8 二十曲峠(141km)IN 34時間58分08秒(673位)

 二重曲峠の標高は1134m。4月末でも夜中の冷え込みは厳しい。テントの中では選手がストーブに吸い寄せられるように集まっている。コース上で熊が出たらしいが、そのことに反応する元気もない。大声で話しているのは中国人のグループだけである。

 このエイドではプロランナーの石川弘樹さんが炊き出しをしてくれていた。「エイドにいたいだろうけど、がんばって出ないとだめだよ」と励まし、追い出しの声をかけている。分かっちゃいるけど出られない。行く手にはコース最高峰の杓子山(1598m)が待っているのだ。

 スープを飲み、体が少し温まったところで、意を決して外に出る。さ、さむい。ストーブに当たった後だけに、冷気がこたえる。山に入るのが嫌だなと思ったのは初めてだ。しばらくは震えながら進む。

 やがて本格的な岩場の登りに差し掛かると、立ち止まる選手が増えてきた。こちらは膝は壊れているものの、登りには対応できる。それだけが救いだ。

 名物の鐘を鳴らす音が聞こえてくる。山頂が近づいている証拠だ。ハイキングで登るには楽しい山なのだが、トレイルランニングの最中に現れると地獄のような山である。やっとのことで山頂に着くと、眼下には富士吉田の夜景が広がっていた。

 その先は急勾配の下り。走りたいところだが、再び膝が悲鳴をあげる。脚を引きずりながら下山し、さらにグラベルの林道を走って(歩いて)、富士吉田の工業団地へ。あたりは薄明に包まれつつある。

 人生で最も長い夜──と言うと大げさだが、暗闇の中を歩き続け、時間が歪んだような感覚がある。脳も疲労困憊している。ベートーベンの交響曲を1番から9番までぶっ通しで聴いたような感じだ。

 エイドへ向かう道でサポートの二人と感動の再会を果たした──と言うと、やっぱり大げさかもしれない。でも、目的地があり、待っている人がいるからこそ、人は前に進める。自分のためだけにがんばるのは難しくても、人のためならがんばることができる──人間にはそういう習性があるんじゃないだろうか。

■3日目 6時03分 A9 富士吉田(155km)IN 39時間03分32秒(644位)

 富士吉田エイドでは名物のバリ硬のうどんを食べる。ヒロコさんが「おかわりしておいたら?」と言うので、2杯食べたところ、さすがに食べ過ぎだったようで、そのあと腹の膨満感に苦しむことになった(苦笑)。前に信越五岳でカレーを2杯食べたときも、しばらく走れなくなったっけ。

名物・吉田のうどん

■3日目 6時32分 A9 富士吉田 OUT 39時間32分17秒(629位)

 エイドを出てほどなく、突然、足裏が痛み出した。知らぬ間にブリスター(水ぶくれ)ができていたようだ。途中でワセリンを塗り足しておくべきだったのだが、後の祭り。道ばたで靴を脱ぎ、安全ピンで皮膚を刺し、水を抜く。その上からテーピングをして再び走り出すが、着地のたびに刺すような痛みが走る。

 なんだか満身創痍になってしまった。それでも太陽が昇り、ゴールが近づくにつれて、心には活力がみなぎってくる。

 ところが、霜山に登っている最中、腹の膨満感が便意に変わった。一難去らずにまた一難。一刻も早くトイレに行くべく、下りは足の痛みを我慢して走る。この上お漏らしまでした日には、目も当てられない(笑)。

 河口湖に下山したところに観光トイレがあって助かった。顔も洗い、すっきりした気分でゴールへ向かう。



#12 「ぼくたちの失敗」

 太陽光が湖面できらきらと乱反射している。昨晩の冷え込みが噓のような快晴だ。観光客にまじり、河口湖の湖畔をゆっくり走る。痛みは続いている。タイムはひどい。山に登るのが嫌になったのも初めてだ。うまくいったことは何ひとつない。

 それでも、喜びが体にじわじわと広がっていく。河口湖大橋を渡り、大池公園に入ると、走り終えたランナーや応援の人たちが花道を作ってくれていた。ハイタッチを繰り返す。仲間が写真を撮ってくれる。振り向いた瞬間、足のブリスターがまたひとつパチンと弾け、激痛が走る。それでも顔は笑っている。

 フィニッシュテープの向こうには、この大会を作った鏑木毅さんと福田六花さんがいた。足かけ3日間、43時間の旅がようやく終わった。福田六花さんとハグ。汗臭い中年男でなんだかもうしわけないけれど(苦笑)。

 ゲートの奥で待ってくれていたクミさんとハイタッチ。ふと『ガンダム』のラストシーン、アムロ・レイの台詞を思い出す。「僕には帰れるところがあるんだ。こんなにうれしいことはない」。

 100マイルはチームで走るものなんだなと実感した。走っている間は一人かもしれないが、じつはサポーターやボランティアをはじめ、多くの人に支えられている。

 膝の故障は長引くかもしれない。寿命もちょっと縮んだ気がする。それでも最後まで走ってよかったなと思う。走ってみないと分からないことがたくさんあったから。

■3日目 9時43分 FINISH 大池公園(168km) 42時間43分46秒(637位)

 レース後、家に帰ると、ドアの木目にびっしり漢字が書いてあった。なんだ!? 目を凝らして読もうとするが読めない。しばらくして、あ、幻視かと気づく。風呂で汚れた足裏を洗っていると、パスポートの入国スタンプのようなものが押してあった。擦ってもとれない。やはり幻視だった。レース中も、あるはずのない山小屋が何度か見えた。3日間で1〜2時間しか寝ていないせいだろう。

 数日が経ち、レースの興奮から醒めてみると、反省や失望が頭をもたげるようになった。魂の一部分が欠落したように感じるときもあった(たぶんレースの途中、コースのどこかに落としてきてしまったのだろう)。

 膝については、病院へ行きMRIを撮ってもらった。十字靱帯は回復しつつあるようだが、半月板が潰れていることが判明した。長年の酷使のせいか骨棘もできていた。どちらも特別な治療はせず、そのまま様子を見ることになった。

   *

 2018年の夏〜秋シーズンはリハビリをしながら、予定していた大会に出場し続けた。ショートやミドルのレースではまずまずの走りができた。一方、野辺山100kmと富士登山競走では制限時間をオーバー。失望を深めることになった。

 そんな中、燕岳(つばくろだけ)の登山中に沢で足を滑らせ、今度は裂傷を負った。よりによって左膝に。病院へ行き、傷口をステープラーでバチンバチンと縫合してもらいながら(飛び上がるほど痛い)、おれは何をやっているんだろう? と自問する。

 この年はその後も転倒することが多く、最終的には近所の公園で階段を走っているときに転んで顔や手の指を負傷した。

 おれはいったい何をやっているんだろう?

 得たものと失ったもので言えば、失ったもののほうが多いのかもしれない。でも、人生はビジネスじゃないんだから、バランスシートのように損得で判断するべきじゃないとも思う。ずいぶん考え込んだが、やがて〝失敗〟にこそ大きな意味があるんだと思うようになった。

 登山では、限界まで自分を追い込んで動けなくなるわけにはいかない。そんなことをしたら遭難して死んでしまう可能性がある。それに対して、レースではサポートを受けながら、一定の安全が確保された状態で、自分を試すことができる。登山や実人生では許されない挑戦と失敗ができるのが、レースという時空間だとも言える。

 ランナーの中には、目標と計画を綿密に立て、着実に結果を出す人もいる。あるいはあまり深く考えずに、普通にウルトラを走ってしまう人もいる。

 それに対して、僕は対象に夢中になるあまり、やりすぎて失敗することが多い。おまけに、そうした失敗とハプニングに満ちた〝旅〟に惹かれるという厄介な性格もある。そのほうが物語としておもしろいじゃないか、と思ってしまうのだ。

 もちろん、失敗するために走るわけじゃない。僕もアマチュアのおじさんなりに結果を求めている。でも、レースを辞めたあとも登山を続けるであろう僕にとっては、あの一連の失敗にこそ価値があったんじゃないか──。負け惜しみも込めて、そんなふうに思う。

【追記】(2023年4月)
 100マイルは UTMF 2018 が最初で最後になるかと思ったが、その後もトライし続けることになった。そして、性懲りもなく〝失敗〟を繰り返している。
 じつはいまも膝のリハビリ中だ。冬に杓子山でトレーニングしていて、スリップしたのがきっかけだった。よほどあの山域には因縁があるらしい。
 その後、小江戸大江戸200kというウルトラマラソンを走ったことで悪化した。今回は右膝なので、これで左右のバランスがとれるんじゃないかと思ったりもする。たぶんちょっと頭がおかしくなっているのだろう(笑)。
 今シーズンも100マイルを走る。夏には念願のヨーロッパアルプス遠征も控えている。期待と不安が入り交じる。いや、不安のほうが大きいかもしれない。そろそろ失敗から学びたいところだが、はたしてどうなることか……?

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