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【掌編】有難い〈普通〉

 居酒屋に入ると店員が来るより早く「こっちだ」という、石井義一先輩の声が聞こえた。店はすいていたので、石井の声はよく通った。
 有馬光平は座敷にあがると、「お久しぶりです」と軽く頭をさげてから石井の隣に座った。マスクを取る。テーブルはアクリル板で四つに仕切られていた。
「元気そうじゃないか」石井は笑った。
 石井は高校の野球部の先輩である。小柄だが足が速く、盗塁の上手さはトップクラスだった。
 石井の向かいにはスーツ姿の男が座っていた。痩身で、静かにグラスを傾けている。有馬を見て、「はじめまして」とあいさつし、宇野大輔と名乗った。
「俺の大学の先輩だ」石井が説明した。「お前から連絡を受けたとき、きっと力になってくれると思って来てもらったんだ」
「ありがとうございます」
「気にすんな。進路のことで相談っつってたから、社会人の宇野先輩の意見は参考になるはずだ」
 宇野は、高校生の有馬でも飲めるソフトドリンクをすすめた。
「夏の大会、なくなったんだってね」宇野がいった。「高校野球も大変だ」
「あ、はい、まあ」言葉をにごす。「進路で迷ってるのは事実なんですが、その、野球が少しかかわってまして」
「え? プロに行くんじゃないのか?」石井は驚いたようだ。「俺とちがって才能がある。体格的にも恵まれてる。プロになれる逸材だって、現役のプロ選手にいわれたこともあるじゃないか」
「野球に興味がなくなってしまったみたいなんです」有馬は正直に告白した。
「どうして!?」石井は頓狂な声をあげた。
「夏の大会がなくなって、一年以上、大会らしい大会もなくて、練習試合も……そしたら、だんだんやる気とか、野球に対する情熱みたいなものがなくなってしまったんです」
 有馬自身も信じられなかった。あれほど好きだった野球への興味を失うどころか、TVの野球中継を見たり、バットを振ったりすることも苦痛になっていたのだ。
 自分の中に〈普通〉に存在していたものが、崩れてなくなってしまったかのようだった。
「そんなの、この疫病がおさまったらまた復活するだろ。すぐに野球やりたくなるって」石井がいった。
「それまで待てませんよ。来年、大学を受けようと思って、今年に入ってからはずっと勉強漬けなんです」
「えぇ……」
「わかる気がするなあ」
 有馬と石井の視線が、宇野に集中する。
「俺、被災者なんだ」宇野はグラスを飲み干した。
「被災者って……何年も前のあの震災?」
 石井の言葉に、宇野はうなずいた。「壊滅状態だった。とても住んでいられる状況じゃなかったから、家族そろって親戚の家に一時避難して、そこで部屋を探した。幸い支援を受けられたから、部屋も見つかって大学にも通えて、こうやって働き口も見つかった」
 有馬はじっと宇野の話を聞いていた。
「初めは、故郷に帰りたかった。当然だろ? 生まれてからずっと引っ越しなんてしたことなかったし、友達だっていた。それがバラバラになって、今もどこにいるかわからない奴も結構いて……」でも、と宇野は続けた。「新しい環境で作りあげた人間関係とか、築いてきた色々なものが捨て難くなった。そのせいか、いつしか故郷への執着が薄れていったんだ」
「そんなことも、あるんですか」
 有馬はいった。それは宇野の中にあった、古い〈普通〉が崩れていったということだろうか。
「有馬君が石井に本当に相談したかったことは、『今のまま野球を続けた方がいいかどうか』だろ?」
「はい」ずばりと当てられ、反射的に答えた。
「でも、今は勉強をしている。それは苦痛かい?」
「いえ……ちょっと大学で学びたいことがあって、頑張ろうかなという気持ちになってます」
「それは『有難い』ことだ、文字通り。今までのものが崩れて、新しいナニカを見つけられたってことなんだから」
 有難い。頭の中で反芻する。〈普通〉だと思っていたものが崩れて、ちがうものに目を向けたということか。
 ちがう。今までのものが崩れて〈なくなった〉わけじゃない。崩れて、新しい形になっただけだ。それを無理に否定する必要はないと宇野はいっているのだろう。それが今の自分の、新しい〈普通〉なのだと。
「なんか、わかったようなわからないような……」
「わからなくてもいいさ。でも、勉強はしっかりしといた方がいいかな」
 宇野の言葉に、石井がうんうんとうなずいている。お前は単位落とさないようにしろよ、と宇野は笑った。

(了)

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