見出し画像

【短編】いつも凄いよな

 浅倉はいつも凄いよな。
 浅倉慎吾は顔をあげた。柔軟体操を終え、バスケットシューズの紐を確認しているときだった。
 慎吾に声をかけたのは、バスケ部部長の六平健太郎だ。慎吾より背は低いが俊敏で、巧みなパスに定評があった。
「そんなことないですよ」慎吾は謙遜ではなく、思ったことを正直に口にした。
 いやいや、そんなことはない、と健太郎は笑った。「一年で浅倉ほど上手い奴はいないぞ」
「そうですか。早川は上手いと思いますけど」
 早川は健太郎よりも小柄だが、健太郎以上のスピードを持ち味としている。
「確かに上手いかもしれないが、浅倉ほどの向上心はないし、努力ができるわけでもない。そういう意味では、お前がトップだよ」
 トップと言われて悪い気はしないが、慎吾は何も言わずに視線を靴紐に戻した。
「俺はもうすぐ、部長をやめる。大学受験があるからな」健太郎はさびしそうに言った。「だから、次の部長を決めないといかん」
 慎吾は顔をあげた。「部長、まさか」
「お前に任せたい」健太郎は慎吾をまっすぐ見つめた。
「俺、まだ一年なんですが」
「お前なら誰も文句は言わない。他の一年や二年にも訊いてみたが、浅倉なら、と言っていた。お前がうちを強くしてくれたのは確かだ。それをみんな、認めてる」
 確かに、慎吾がバスケ部に入ってから部は変わった。慎吾は健太郎や顧問の蒲生俊樹と話し合いをし、朝練の追加や、敵チームの試合の映像を見て研究するといったことを提案した。練習メニューもあらためた。
 それから三か月ちょっとだが、チームは確実に変わりつつある。健太郎の話では、慎吾が入る前と後では、選手の動きがまったくちがうのだという。そう言われると、自分の努力には意味があったのだと、慎吾は嬉しくなった。
「でも、部長の話は待ってください。俺、一選手でいたいんで」
「わかった。でも少しでいいから考えてみてくれないか」
 健太郎が去ったあと、慎吾はシューズで軽く床を踏みながら、どうしたものかと思案した。
 部長になったら、本格的にみんなを引っ張っていかなければならない。もし、大勢の部員がそれを望んでいるなら、部長になってもいい。反発もあるだろうが、そこはていねいに話し合いをすればいいだろう。健太郎や蒲生顧問ともじっくり話ができたのだ。やれないことはない。
 しかし……。
 慎吾はコートを見て、誰にもわからないように小さくため息をついた。
 いつも使っているコートが、広く見える。こんなに広かっただろうか。
「浅倉、練習はじめるぞ」
 健太郎に肩を叩かれ、慎吾は軽くかぶりを振った。
 少し疲れているのかもしれない。それでも、身体があたたまればきっといつものように動けるだろう。
 慎吾は「はい!」と元気よく返事をし、駆けだした。

「貴様やる気があるのか!」顧問の蒲生俊樹の怒鳴り声が体育館中に響きわたる。
 十数名の部員たちの視線が自分の背中に集まっているのを、慎吾は感じていた。叱責されているのは、慎吾だった。
 三時間の練習の中、慎吾の動きはひどいものだった。シュートははずす、リバウンドは取れない、パスをまわしても妨害される。とにかく精彩を欠いていた。
「申しわけありません」慎吾にはそれしか言えなかった。
 だが、その言葉は蒲生の怒りに油を注いだ。
「バスケをなめてんのか!」」
 体育館中に響きわたる音に、部員たちが身をすくませる。蒲生の強烈な平手打ちが、慎吾の頬を打ったのだ。
「グラウンド五十周! そのあとコートの片づけ! お前がひとりでやれ!」蒲生は吐き捨てるように言い、体育館を出ていった。
 慎吾は打たれた頬に触れた。手加減したのかもしれないが、腫れている。あざにならなければいいが。
 背後から肩を叩かれた。
「大丈夫か?」健太郎が言った。
 慎吾は無言でうなずいた。
「お前は走ってこい。コートの片づけは俺たちでやる」
「でも、バレますよ」
「お前が走り終わるころを見計らって片づけるから大丈夫だ」健太郎はにっと笑った。部員たちを振り返り、「みんな、それでいいよな!」
「もちろんっす!」一年の早川がまっさきに返事をした。「浅倉ひとりにしんどいことさせられないっす!」
「だとさ」健太郎が言った。
「……すいません。できるだけ早く終わらせてきますんで、お願いします」
「先生はお前に期待してるんだよ」健太郎は言った。「だから怒ってるんだ。悪意はないって」
 はい、すみません、とこたえ、慎吾はうなだれた。

 蒲生俊樹は厳しい顧問だった。中学時代の顧問も厳しかったが、それ以上だ。
 動きの悪い者には厳しい言葉を飛ばし、「やる気があるのか!」と自分がはいているシューズを投げつけてくる。ときには、バスケットボールが飛んでくることもある。
 物理的な暴力も、言葉の暴力も、日常茶飯事だった。しかし慎吾は、それが嫌だとは思わなかった。中学時代も似たようなものだったし、その厳しさについていけたから今の自分があるのだと思っていた。
 今、不調なのはただのスランプであり、基礎からもう一度見直せば、きっと脱出できる。中学時代にも一度は経験した状況。きっと克服できると慎吾は思っていた。
 慎吾は日本の選手の試合だけではなく、海外のプロの試合も見ている。自分たちでは届かないレベルの存在だが、盗める技術はあるはずだと考えたからだ。スランプ脱出のため、慎吾は今まで以上にプロ選手の動きをよく見るようになった。
 朝練も欠かさず続けた。ときおり、起きられなくて休む部員がいたが、そういう部員にはひとり残らず蒲生の鉄拳制裁が待っていた。
「蒲生先生って、昔からああなんですか?」ふと気になって、慎吾は健太郎にたずねた。
「蒲生先生は去年からバスケ部の顧問になったんだ。先生が来る前は今の倍の部員がいたんだが、蒲生先生があまりに厳しいんで、どんどんやめていったってわけ」
 この程度の厳しさでやめるなんて、根性なしが多かったんだなと、慎吾はやめていった顔も知らない部員たちを心の中で嘲笑った。
 その日も、慎吾は蒲生に怒鳴られたが、気にはしなかった。それだけ期待されているのだと、自分に言い聞かせた。うまくできない自分が悪いのだ。
「部長」帰り際、慎吾は健太郎に声をかけた。「このあいだの話ですが、受けようと思います」
「次の部長の件か」喜ぶかと思ったが、健太郎は少し困ったような表情を見せた。「大丈夫なのか?」
「大丈夫って、何がですか」
「お前の体調だよ。ここんところ、あまり調子よくないだろ。朝練もきついんじゃないのか?」
「少しスランプ気味なだけです。中学のときにもこういうことありましたから、大丈夫です」
 健太郎は納得しなかったようで、「とりあえず保留にしておこう。今すぐ決めないといけないことでもないし」と言った。
 用事があるからと足早に校門を出ていく健太郎の背中を見ながら、慎吾は、裏切られたような、期待を裏切ってしまったような、怒りとも悲しさともとれない感情をいだいていた。

「今日も朝練か?」仕事へ行く準備をしている父が言った。
「大会も近いしね」慎吾はこたえた。
 スマートフォンを見ながら話をしていた父は、画面から目をはなし、慎吾を見た。「それじゃあ、もう少し食べた方がいいんじゃないのか?」
 え? と声をあげ、慎吾はテーブルに並んでいる自分の朝食を見た。みそ汁にベーコンエッグ、ごはんというメニューだが、口をつけたあとがない。箸は持っているのに、食べることを忘れたようだ。
 食べることを忘れる? ありえない。腹は減っているはずなのに。
 はっと顔をあげて時計を見やる。家を出る時間が近づいていた。
「お母さん。俺行くわ」
「え? 食べないの?」
「ごめん。お母さんがお昼にでも食べて」
 慎吾はボストンバッグを肩にかけ、玄関へ向かった。腰をおろし、靴をはく。
「何してるんだ?」
 気がつくと、父が自分の後ろに立っていた。
 朝練のとき、慎吾は父より十分以上早く家を出る。後ろに立っている父はすでに出勤の準備を整えていた。ということは……。
 そもそも、自分はなぜ玄関に腰をおろしているのか。靴をはくためだ。いや、靴をはくだけなら立ったままで十分だ。ただのスニーカーなのだから。
「母さん、ちょっと来てくれ」父が母を呼んだ。「慎吾、具合が悪いみたいだ」
「大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてただけ」
 言いかけたところで、強烈な吐き気が襲ってきた。スニーカーを脱いで洗面所に駆けこむひまもなく、慎吾は玄関で嘔吐した。胃が空なので胃液しか出てこないが、父の革靴にかからなかったのはさいわいだった。
「慎吾!」父が慎吾の背中をさする。「母さん、慎吾が吐いた!」
 あわてて飛びだしてきた母に連れられ、慎吾はソファーで横になった。熱をはかってみたが平熱で、風邪ではなさそうだった。
 玄関を掃除してくれている母や、出社を一時間おくらせることにした父のことを申しわけなく思いながらも、慎吾は少しずつ体調がよくなってきていることを感じた。
「もう、大丈夫だよ」慎吾はソファーから身体を起こした。すでに体調はもとに戻っている。
「駄目だ」いつもは優しい父が、厳しい表情をしている。「今日は休みなさい。それから、必ず病院へ行くんだ」
「でも」
「行きなさい」
 有無を言わさぬ父の言葉に、慎吾はうなずくしかなかった。
 ベッドで横になった方がいいのでは、と母に言われ、慎吾は二階の自室に向かった。
 今ごろ部長たちは練習をはじめているころだろうが、いくら体調がよくなったとはいえ、また嘔吐でもしたら迷惑をかけてしまう。父の言うとおり、行かなくて正解だろう。
 しかし、
「休めるのは助かるなあ」
 階段をあがりながら、心の中で思っていたことをぼんやりと口に出してしまった。はっと口を押え、誰も聞いていないことを確認してから、慎吾は部屋のドアを開けた。
 強烈な圧迫感に襲われたのは、そのときだった。
 掛け布団はきちんとたたまれ、カーテンは開いている。朝の日差しがさしこみ、目が痛くなるほど明るい。いつも以上に部屋が広々として見える。
 だというのに、この圧迫感はなんだ。
 ふと、壁に目を向ける。ポスターが貼ってあった。海外のプロバスケット選手が、ダンクを決める瞬間の姿だ。大勢の観客が見守る中、選手は軽やかにジャンプし、ボールを叩きこもうとしていた。
 慎吾はポスターの上をつかむと、思いきり引き下げた。ポスターはまっぷたつに引き裂かれた。
 こんなものが壁に貼ってあるから、気分が悪くなる。乳白色の壁紙が見えないから、圧迫感をおぼえるのだ。
 棚の上に置いてあったトロフィーをつかんだ。中学時代、大会で優勝したときにもらったものだ。優秀選手として表彰され、チームの仲間たちは喜んでくれた。
 トロフィーを、無造作に床に叩きつけた。トロフィーは砕け、細かな部品が散乱する。
 こんなものが置いてあったら、ほこりがたまって、掃除しにくいじゃないか。
 部屋の隅に置いてある、網に入ったバスケットボールが目に入った。
 ああもう、いらいらする。何でこんなところにボールがあるんだ? 何も知らずに入ったら、転んでしまうじゃないか。この部屋の人間は何を考えてるんだ。
「慎吾!」
 母の悲鳴にも似た叫びに、慎吾はようやく我に返った。
 慎吾の顔や手には、少量だがガラス片が刺さっていた。足は、砕けたトロフィーを踏んで傷だらけだ。
 バスケットボールは、窓ガラスを突き破り、隣の家の庭に転がっていた。

 父がすぐに救急車を呼んだ。慎吾は言われるがままに救急車に乗ったが、「大した怪我じゃないんですけど」と救急隊員に言った。こんなことで救急車を呼ぶなんて、おおげさだ。救急車の無駄遣いだと怒られそうだ。
 しかし隊員は怒ることはなく、「すぐに手当てするから」と包帯を取りだした。
 外で父の声が聞こえる。別の隊員に事情を話しているようだ。隊員は父の話にうなずき、「様子がおかしいことは、こちらでも把握しています」とこたえた。
 病院へは父も母もつきそった。父は今日、会社を休むことになった。
 外科で傷の具合を見てもらったあと、内科へ移された。嘔吐した状況について聞かれたが、突然気分が悪くなったとしかこたえられなかった。
 次に案内されたのは、驚いたことに、心療内科だった。訊かれることにすべてこたえると、聞いたことのない病名を告げられた。外科や内科に通ったことはあっても、心療内科ははじめてなので、何を言われてもわからない。
 ただ、「心神耗弱」という言葉だけが、妙に頭に残った。

 気がつくと、ベッドの中だった。外は夜だ。病院でもらった薬を飲み、そのまま眠ってしまったのだ。
 慎吾は腹が減っていることに気づき、部屋を出て居間に向かった。母がはじかれたように振り返り、「大丈夫?」と訊いてきた。
「大丈夫だよ。心配しないで」TVに目を向けると、もう六時すぎだった。「何か、食べるものないかな」
「食べられそう?」
 うん、とうなずくと、すぐにおかゆを作ってくれた。医者が、胃が弱っているのであまり刺激のあるものは食べさせない方がいいと言ったらしい。慎吾はまったくおぼえていなかった。
 父が帰ってきた。スーツ姿だが、たしか今日は会社へは行っていないはずだ。
「蒲生という教師に会ってきた」父は慎吾の前に座った。「バスケ部の子たちからも話を聞いた。ひどい指導を受けていたんだな」
 慎吾はほうけたような表情になった。ひどい指導? 何が?
「殴られたりもしたらしいな」
 慎吾は頬に触れた。あざにはならず、ただ少しだけ赤くなった頬。母も気がつかない程度のものだった。
「お父さんはな、慎吾」かんでふくめるように、父は言った。「裁判を起こそうと思っている」
「どうして?」
「常軌を逸した指導をしてきたからだ。蒲生という男がやっていることは、指導じゃない。ただの暴力だ。そのせいで、慎吾は心神耗弱状態に陥ったんだ」
 心神耗弱。先生が言っていたことを思いだした。心神耗弱とは、精神の異常により、悪いことをとめるストッパーが働きづらくなる状態のことらしい。
「俺、おかしくなったの?」慎吾の手が震えはじめた。
「おかしくはない。ただ、異常な状況に置かれただけだ」父の言葉は優しい。息子を傷つけないよう、言葉を選んでいることが慎吾にもわかった。
 いいか、と父は前置きした。
「人間というのは、がんばりつづけることはできないんだ。たとえどれだけ強い人間でも、必ず限界がある。慎吾は、限界をこえてがんばってしまったんだ」
 浅倉はいつも凄いよな。
 あのとき、そんなことはないと慎吾はこたえた。それは偽りのない本心だった。ただ自分は努力をしているだけ、がんばっているだけだと思っていた。
 だが、知らず知らずのうちに無理をしていた。バスケが好きだから。チームを勝たせたいから。だから、がんばった。がんばりつづけて、そして──
「……限界だったのか」慎吾はぽつりと言った。
 部屋にある、破れたポスターや壊してしまったトロフィーを思いだす。無意識のうちに、バスケに関わるものを排除しようとした。もう嫌だ、がんばりたくない、と、慎吾の心が悲鳴をあげたのだ。慎吾はずっと、自分の心に蓋をしてきた。
「少し、休みなさい」父は優しく言った。「そうすれば、またバスケを楽しめる。先生もそう言っていた」
「でも、部長が……」
「六平君とは話をした。慎吾が体調を崩したことに、ひどく怒っていたし、同時に謝ってもいた。あの教師がしてきたことを受け入れていた自分が馬鹿だったと」
 部長が、そんなことを。
「試合もあるのに」
「早川君という生徒が言っていたぞ。慎吾のぶんまでがんばるって」父は慎吾の肩に手を置いた。「とにかく休みなさい。部のことは、体調を戻してから考えればいい」
「うん……」これ以上何も言うことができず、慎吾は小さくうなずいた。
 これからバスケ部はどうなってしまうのだろう。新しい部長の件は? そして、蒲生顧問は?
 考えようとしたが、何もまとまらなかった。今は、父の言うように休みたかった。
 浅倉はいつも凄いよな。
 そんなことない、と慎吾は言った。ただがんばっているだけだと。
 だが、「凄い」と思われたい自分がいたことに、慎吾はようやく気がついた。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?