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旧約聖書に見る教会(エクレシア)の型 その① ベテル

旧約聖書は「型」に満ちています。「型」とは、モノや人物を予め表す原型のようなものです。旧約聖書で登場するモノや人物は、新約聖書のモノや人物、又は概念「型」として予め表していることが多いのです。

例えば、ノアの日の洪水(創世記6-7章)は、バプテズマ(1ペテロ3:20-21の)の型だとされています。

この「型」を理解すると、旧約聖書が俄然面白くなります。無味乾燥と思われた記述が壮大なスケールを持っていることがわかり、立体的に読むことができるようになるのです。

この記事、新約聖書の教会(エクレシア)を予め示している旧約聖書の型を見ていきたいと思います。

教会っていったい何だろうな、ということを考えるときに、旧約聖書の「型」にまで遡ってみるといろんなことが見えてくるのです。

ちなみに、僕は牧師でもなく、神学者でもなく、聖書学者でもありません。神学校も通ったことがありません。ただの会社員であり、聖書好きな一クリスチャンです。ですので、この記事を読んでいただく方は、ぜひご自分で内容を吟味なさってください。

学生時代にプロテスタントの聖書研究サークル(キリスト者学生会)に属していたので、今考えると、そのときに聖書研究の基礎を築いたのかもしれません。そのころから教会って何だろうな、とずっと考えてきました。

さて、新約聖書の使徒行伝では、イエスさまが昇天された後、五旬節の日に初代教会が誕生する様子が描かれています。

そして、この教会は、へブル人への手紙では「神の家」とも呼ばれます。

「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと保ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(へブル人への手紙3章6節)

「神の家」というからには、当然ながらそこは神が住まわれる場所なのです。

旧約聖書では、モーゼやダビデも「神の家」に対して並々ならぬ情熱を抱いていましたが、一番最初に「神の家」を「見た」のはヤコブなのではないかと考えています。

創世期28章には、ヤコブが兄のエサウから長子の権利をだまし取った後、エサウの怒りから逃れるために、旅に出る様子が描かれています。いわば逃避行です。

そしてこの旅の途中、ヤコブは、夢の中で天に届く梯子とその梯子を上り下りしている天使達を見るのです。その後、彼は次のように語ります。

「彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家ほかならない。ここは天の門だ。翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上の油を注いだ。創世記28章18節)」

ヤコブは、神の家を見たことに感激して、自分が枕にした石をとって、石の柱として立て、その上に油を注ぎます。枕にしていた石ですから、それほど大きくないでしょう。せいぜい、幅が30-40センチ、長くても50センチ程度かと想像します。

それを「立てた」と記載されてありますが、ヤコブが石に何か彫り物したとか、何か加工を施したとか、そういったことは記載されていません。何の変哲もない石がただ立っていたのです。

なので、事情を何も知らない人が通りかかったら、「なぜここで石が立っているのだろう」と思うほかは、何か格別な感動を受けるような光景でもなかったかもしれません。そこが「神の家」だと気づいた人はどれほどいたでしょうか。

しかし、聖書では、ここがまぎれもなく最初に「神の家」として記載されているのです。そして、僕は、この立てられた石こそが、新約時代の教会の型になっていると思うのです。

石といえば、やはりキリストを連想します。第一ペテロ2章4節には、こう書いてあります。

「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

そして、続けて5節で集う一人ひとりも石に例えられます。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」

しかし、「神の家」であるのなら、なぜもっと立派な建物にしなかったのでしょうか。なぜバベルの塔や、シュメール人のジッグラド、エジプトのピラミッドを凌ぐようなすごい建築物にしなかったのでしょうか。

僕は逆にこのなんの変哲もない石にこそ、神の家の本質を見るのです。つまり、神と人とでは、家に対する考え方が根本的に違うのです。人は、見た目に立派なもの、荘厳なものをやたらと立てたがります。しかし、神は、人の目から見たら立派でもないように見えるものにこそ、ご自身の思いの本質を宿らせるのです。

僕は、この素朴で何の変哲もない石にこそ、教会のかしらであられるキリストのみ姿を見るのです。

ちなみに、ヤコブは、神の家を「天の門」であるとも言っています。門ということは、開ければ天に入ることができる扉です。

また、天使たちが梯子を上り下りしている様子を見ました。日本語の聖書では「梯子」と記載していますが、実際は階段のようなものであったようです。

天使は、御使いともいわれますが、いわば手紙を届けてくれる存在でもあります。

ですので、この神の家、天の門は、神が人に手紙を届け、人が神に手紙を届ける場でもあります。すなわち、神と人が交わるところ。それが神の家の本質なのです。

また、ヤコブは、この石に油を注ぎました。使徒行伝では、初代教会に聖霊が注がれました。聖霊はよく油に例えられます。なので、ヤコブが行った油注ぎは、後の聖霊の注ぎを表しているともいえるのではないかと思うのです。

この「型」を通して、神は多くのことを語っているように思われます。

以上をまとめると、ヤコブが見たビジョンには、以下の性質が見受けられます。

 天の門 ー 神と出会う場の入り口
 梯子 ー メッセージを届けてくれる者たちが昇り降りする、天と地をつなぐもの
 石 ー キリスト、一人ひとりの聖徒(saints)
 油 - 聖霊

次回はモーセの幕屋について書いてみたいと思います。

なお、ここで引用した聖書箇所はすべて新改訳聖書第3版からのものです。


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