見出し画像

物事を始められない理由は溢れ過ぎている「情報」にあるのではないか。

皆様こんにちは PICOです。

私は毎朝仕事へ行く時にバスに乗るのですが、乗客の多くはバスに乗って席に座ると、すぐに携帯電話(スマホ)を取り出して、ゲームをし始めたり、漫画を読み始めたり、ネットニュースなどを見ている様に思う。

一昔前までは新聞を広げる人が居たり、書籍を手にする人が居たり、携帯ゲーム機で遊んでいる人が居たりと様々な人を目にしたのですが、最近は携帯電話がそれらすべての役割を果たし、多くの人が携帯電話に夢中になっている様に思う。

勿論、私もそのうちの一人で、最近バスからの景色を全く見ていない事に気が付きました。

そんなインターネット社会・情報化社会となった現代、多くの情報をボタン一つで簡単に調べられる便利な世の中になった訳ですが、その裏でその「情報」が人々の気付かないところで大きな壁を築き上げている事に気付いたので、今回はそんな「情報」と言う名の「壁」の話を記事にしてみようと思いました。

もし宜しければ読んで頂ければ幸いです。

◆「個人」が情報を発信する時代。

数年前から私は一人暮らしを始めたのですが、始めはまったく料理が出来なかったのですが、携帯電話片手にインターネットの力を借りて料理のレシピサイトなどをあちこち見て周り少しずつ料理を覚え、今では簡単な料理であればレシピを見ずに作れる様になりました。

同様に、仕事で分からない単語や製品が出てきてはインターネットで調べ、物の名前や使い方を知り、目的地の場所が分からない時は地図の検索をしたり、バスや電車の時刻表なども簡単に調べられるので、携帯電話は私達の日々の生活には必要不可欠な物になっている事を実感しました。

これらの「情報」は何処かの誰かが善意で提供してくれている物であり、ある意味ではサービスである。

【Twitter】や【インスタグラム】【YouTube】など、最近は「企業」がサービスを提供するばかりではなく「個人」が多くの情報を発信し、人々へ届ける時代へと変わり、近年では小学生の将来なりたい職業ランキングの上位に【YouTuber】がランクインする程になっている。

情報を利用する側から、提供する側へと時代は移り変わり、多くの人が様々なサービスを活用し、多くの情報を共有する様になった現代。

これによりある問題が生じ、私は見事にこの問題に何度も直面した。


◆「知っている」からこそ行動に起こせない。

私が医療業界で「介護・看護」の仕事をしていた頃『看護師にはどうすればなれるのだろうか…』と疑問に思った時、手元の携帯電話で『看護師資格』と検索すると、看護師になるための手順と言うか、看護師免許の取得方法がザックリと書かれたサイトにすぐに辿り着いた。

私はその記事に少しだけ目を通し、そして理解した。

『 私には無理そうだな 』

看護師には「准看護師」と「正看護師」の2種類があり、この違いを説明すると「准看護師」は都道府県知事発行の免許であり、コレは国家資格ではなく、医師や正看護師の指示がなければ業務を行えず、逆に「正看護師」は厚生労働大臣が認定する国家資格であり、傷病者若しくはじよく婦に対する療養上の世話又は診療の補助を行うことを業とする者であり、自らの判断で業務を行えると言う違いがある。

簡単に言えば【国家資格か否か】と言う事なのだが、いずれにせよこれらの資格を取得するためには専門学校や看護大学へ通い、とんでもなく厳しい実習を潜り抜け、とんでもなく難しい資格試験に合格した一握りの人間しか看護しにはなれないと言う事である。

・・・とは書いたものの、私はその「厳しい実習」も「難しい試験」も当然、受けた事が無いし、経験した事が無いのだが、私には無理だと思わせた明確な理由が【経験者の体験談】と言うなの「情報」なのだ。

『私は看護学校でこんな経験をした』

『先輩には毎日怒鳴られ、馬鹿にされ、医者には呆れられ散々だった』

『毎日寝ずに勉強したのに資格が取得出来なかった』…etc

数え切れない程の多くの経験者の体験談がそこには溢れており、これらの情報も他の情報同様に簡単に知る事が出来た。 ・・・と言うより、調べている過程で目に入ってしまったのだ。

コレが何を指すのか。 私は何を言いたいのか。

それは【欲しい情報以外の情報も手軽に入る】と言う事であり、その手に入る情報が必ずしもポジティブな情報であるとは限らないと言う事である。


◆「情報」と言う名の「壁」の正体。

ここまで書いてしまうと、もう何となく「壁」の正体に気付いた人は多いかと思うのですが、今回私がこの記事で言いたい事は『興味を持って調べた事に関するマイナスの面が視界に入る事で、挑戦しようと言う意思や意欲が削がれる可能性がある』と言う事なのです。

上記では私の経験を元に「看護師」と言うワードを使用しましたが、別の事に例えても同じなのです。

例えば、先に挙げました【YouTuber】になりたいと思った時、上記の内容同様に『YouTuber』のなり方を検索してみたとしましょう。

そこには「動画の撮影にはどんな機材が必要か」「編集するにはどんな編集ソフトがお勧めか」「面白い話題とは」「今話題のゲームは何か」「人はどんな事に興味を持つのか」…etc

そんな膨大な情報が画面一杯に並ぶのである。

手軽に始められると思って調べた結果、とんでもない量の情報が溢れ、そしてどれも自分には難しそうだと思わせる事が、どの記事にも多く書かれている。 人はそれを目にすると『やめておくか…』となってしまうのである。

勿論、本気でそれを目指す人にとってはそれらの情報はとても役に立つ価値のある情報なのかもしれないが、そうではないちょっとした興味本位で調べた人にとって、その壁はあまりにも高く、多くの「何かをはじめたい」人の足を引っ張っているのは案外こうした溢れ過ぎた「情報」なのではないかと私は思うのだ。


◆最後に・・・。

以前、私の知り合いの看護師さんが話してくれた話がある。

『私は昔、病院の看護師さんを見て、凄く素敵で「あんな風になりたい」と思い、看護師を目指した。 一生懸命勉強して、実習では何度も怒鳴られ、何度も泣いた。 看護資格が取れた時はとても嬉しかった。』

『昔はそんなに情報なんて無かったから、何となく魅力的に感じたからと言う理由で看護師を目指したけれど、学校へ入学したら実習はキツイし、勉強は難しいしで物凄く苦労した。 けれど、こんなにキツイと知っていたら私は看護師を目指さなかったかもしれない。 なんとなくで始めたのが案外良かったのかもしれない』…と。

今の世の中、インターネットでちょぃと検索すれば大抵の事が調べられる時代だが、調べた時に不意に視界に入るネガティブな文字。

そうした他人の発信した「経験」と言う名の「情報」を目にする事で人は二の足を踏み、なかなかはじめの一歩が踏み出せないのではないかと思うのだ。

これだけインターネットが普及した現代。 インターネットで調べない訳にもいかないし、何かに興味を持って調べれば、そうしたマイナスの部分を目にする事は避けられないと思う。

しかし、まずは『興味を持った自分』を誇って欲しいと私は思う。

何かを始める前の第一歩として『何かをはじめようと思った』自分をまず最初に褒めるべきだと私は思う。

多くの情報が溢れる時代。 個人が情報を発信する時代。

「経験」と言う名の「情報」は何もマイナスな事ばかりではない。

受け取るばかりではなく、今度は自分が発信していく側になればいいだけだと思うのだ。

視界に入る多くのマイナスの中で、一際目立つ「プラス」をこの記事を最後まで読んで下さった方が発信していってくれたら嬉しく思う。


私は今年の1月から【note】を書き始め、もうすぐ1ヶ月が経ちますが、なんて事の無い記事ばかり書いている私の記事に「スキ」を下さる方がいる事を私はとても嬉しく思うのです。

インターネットで【note】と検索すると、基本の記事の書き方だとか、閲覧者数の伸ばす方法だとか、色々なサイトが現れますが、私はそのいずれも見ていません。

ただ、なんとなくはじめて、ただ何となく記事を書いています。

閲覧者数は伸びませんし「スキ」の数も多くはありません。

それでも、ただなんとなくはじめた【note】に書いた記事に「スキ」を下さった方がいたのです。

これは紛れも無く、私と言う個人が発信した「プラス」だと思っています。


今、何かをはじめようかと悩んでいる人へ。

まずは何も調べず、はじめてみて下さい。 そして、楽しんで下さい。

その楽しんでいる姿が必ず誰かの「プラス」になると思います。


『ただなんとなくはじめた』事がいつか誰かのプラスになりますように。



それでは・・・また次回の記事でお会いしましょう。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?