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便利な事は良い事ばかりか?「不便」はかつて「普通」だった事・・・と言う話。


皆様こんにちは PICOです。

現在、私は某中小企業に勤務しており、日々慣れない営業をしているのですが、特に年配の方と会話をしていると『便利な世の中になった』とか『今はこんな事も出来るのか・・・』などと言った、今と昔を比較する様な話になる事があるのですが、私の年齢でも同様に今と昔を比較して便利になったなと思う事は多々ある。

例を挙げるなら、携帯電話だろう。

子供の頃、友達と遊ぶ約束をするにはいつも家の固定電話を使っていた。 頻繁に電話する友人の家の電話番号は完全に暗記していて、ポチポチとボタンを押して電話を掛けていた。 電話を掛けると基本的に友人の母親が出て、必ず最初に『あ、○○君のお宅でしょうか?○○君は居ますか?』と言うやり取りをして、受話器の向こう側で母親が『○○ー!PICO君から電話よー!』なんて声が聞こえたりなんかして、友人が電話に出ると『おう!○○!今日遊べる?××公園で待ち合わせな!』なんて感じのやり取りを毎日の様にしていた事を今でもはっきりと覚えている。

今では固定電話が無い家も多く、一人一台携帯電話を持ち歩いている時代。

そんな今では当たり前だけれど、昔と比較すれば便利になった・・・そんなアレコレの話しなんかを今回は書いてみようと思う。

◆携帯電話が普及して気付いた事。

冒頭でも少し触れた通り以前は携帯電話などはなく、皆当たり前に家の固定電話を使っていたが、それもほんの20年ほど前の話。 今では携帯電話は一般に普及し、多くの方が当たり前に携帯電話を持ち歩いている世の中になっている訳だが、そんなつい最近の出来事なはずなのに、携帯電話は当時とは比べ物にならないほどに進化し、そして世間に浸透して一般的な物になった。

しかし、そんな今では当たり前となった携帯電話の事を考えると、私はいつも思う事があるのだ。

電話番号を覚えなくなったなぁ・・・と。

仕事柄、営業でお客様の工場などへ入る際、工場の守衛所にサインをする事があるのだが「連絡先」の記入欄で手が止まる事が何度かあった。

昔は自分の家の電話番号は勿論のこと、親戚の電話番号や、友人の家の電話番号なんかもかなりの件数が頭の中に記憶されていた。

それが今では携帯電話のメモリーに一度登録してしまえば、ボタンを押す事もなく、名前を出して通話ボタンを押すだけで電話が出来るのだ。

とても便利になったと思う。

とても便利になったと思うのだが、多分多くの人が登録の時以外に人の電話番号を見る事が無くなったのではないだろうか。

これは言ってみれば「電話番号を覚えなくなった」のではなく「電話番号を覚える必要が無くなった」のだと思うのだ。 これについて皆はどう考えているのだろうかと思う。 多分こんな事は些細な事で普段の生活で誰も気にすることの無い事だとは思うのだが、携帯電話が何かの切っ掛けで壊れてしまったり紛失してしまった時・・・公衆電話などから家族や友人に電話が出来るのだろうか・・・と思うのだ。

「覚える必要が無くなった」と言うのは、それだけ脳の容量を使わずに済む訳なのだが、こう言う言い方には御幣があるとは思うが、敢えて書かせて貰うとすれば携帯電話と違って「脳に容量は無い」と私は思うのだ。

携帯電話は電話が壊れてしまえば中に入っているデータは一瞬で消えてしまうけれど、携帯電話が壊れたところで人が記憶している事は特に影響は受けない。 勿論、事故に遭って怪我をした場合や、老化による認知症など・・・忘れるという事で言えば色々な事は起こりうるが、今話しているのはそう言う話ではない。

「覚える必要が無い」からと言って、すべてを機械に任せて、自分の目で見ず、耳で聞かずに居ると、いつか後悔する事があるのではないだろうか・・・と私は思うのだが、この「後悔」が差すものは、多分未来の子供達には無いもので、今のそれなりの年代の人達だけが理解出来る、きっと大切な何かだと私は思うのだ。


◆一人暮らしをして気付いた事。

私は一人暮らしをする前、一切料理が出来ない男だった。

勿論今でも人に誇れるほどの物が作れる訳ではないが、以前は炊飯器でご飯を炊く事すらよく分からない、そんなレベルの男だった。 両親からは『男でも多少は料理出来ないと困る』『早く料理が出来る彼女でも見付けて~』・・・などと言った具合に「料理を覚えろ」と言う事を何度も言われてきたが、蓋を開けてみれば世の中には「冷凍食品」や「お惣菜」と言う便利な物が溢れ、料理など全く出来ずとも少しも困らない世の中になっていた。

街には24時間営業のコンビニエンスストアが溢れ、スーパーには大量の食材が並び、全く料理をする必要の無い環境が出来上がったのだ。

仕事帰り、スーパーへ立ち寄りお惣菜売り場で適当な物を買って帰る。それだけで今日の夕飯が出来上がる。

料理をする必要が無くなったのだ。

そう思うと、これも携帯電話の話同様、料理を覚える必要が無くなり、脳の容量を使わずに済むのだ・・・。 確かに料理を覚えれば美味しい料理が作れるかもしれない、けれど、ほんの数十年で冷凍食品もお惣菜も物凄い勢いで進化を遂げ、より美味しい物が溢れた。 それであれば別に個人が努力するよりも早いスピードで社会が、世界が進化し、便利になるのを待った方が楽で良いのではいか・・・と。

そう考え始めてしまうと、携帯電話の話し同様に人はどんどん脳の容量を使わなくなっていくのではないだろうかと思うのだ。


◆出来る必要の無い事が溢れた世界。

以前、とある戦争系の映画のワンシーンで、戦時中「普段着の着物をもんぺへ仕立て上げる」と言ったシーンを目にした事があるのだが、祖母にそんな話をすると『昔の女性は皆、当たり前に裁縫が出来た、私も着物くらいは自分で作れた』と話してくれた。 しかし、今では学校の授業で多少裁縫に多少触れる程度で「玉止め」「玉結び」すら出来ない学生は多いのではないかと思う。

勿論、これを「良い」「悪い」と言う訳では無い。 ただ、昔は「当たり前」だった事が、今では「当たり前」ではないと言うのは事実だと思うのだ。

多くの物事が便利になり、不自由無く暮らせる世の中。

多くの事をやる必要が無くなった世の中。

かつては不便だった事が、今の当たり前、普通に変わり。 かつて当たり前だった事が、今では当たり前では無くなった。

『女の子なんだから料理、裁縫は出来なくては』と言う時代は終わり、別に「出来る必要の無い」時代になった。

それはとても良い事だと思う。

一人一人が誰に何を強制される訳でもなく、誰に何を強いられる訳でもなく、自由に暮らせる世の中になった事は素晴らしい事だと思う。

けれど、そんな便利と引き換えに、何か大切な事を一つずつ忘れていってしまうような気がして、私はならないのだ。


◆最後に・・・。

今回の記事に関しては特にオチは無い。

「私はこう思う」と言う個人的な思いも敢えて書かない。

けれど、学生時代、修学旅行などで親に持たせて貰ったインスタントカメラを片手に、あちこちの写真を撮り「あと何枚残ってるから何か撮らなきゃ」なんて会話をしたり、すべての写真を撮り終え、カメラ屋さんへカメラを持って行き、家族や友人と現像された写真を見ながら『写真がブレていて駄目』だとか『何か斜めに映ってる』などと言って笑っていた時間が私は楽しかった様に思う。

スマホを片手に手軽写真を撮影して、その場で確認。 気に入らなければ何度でも撮影をし直して、お気に入りの一枚が撮影出来る。

撮影した写真はSNSに投稿したりして、あっという間に友人や世界中の人と共有できて「いいね」が貰えたり、シェアして貰えたりする世の中。

世界中の人と手軽に、気軽に繋がれる様になり。 結果がすぐに分かる。

多くの人に見てもらえて、多くの人から評価して貰える。

そんな素敵な今と言う時代。 便利な世の中。

果たして、人と人との距離はどれだけ近くなり、一人一人の持つ「普通」と言う基準はどれだけ変わったのだろうかと、思う。

『便利』と言う言葉の裏側には、いつも『必要が無い』と言う事がある。

必要が無い事は、本当に出来なくて良い事なのか。

出来る意味の無い事なのか。

『不便』と言う言葉の裏側には何かあったのか・・・。

改めて『便利』と『不便』について今回は私の思いを少し書いてみました。いつか不便の裏側にある何かに私自身がちゃんと向き合い、忘れず、変わらずに居られるように、そう思います。


それでは・・・また次回の記事でお会いしましょう。

有難う御座いました。

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