見出し画像

『平凡と凸凹』

「今日ね、ナマケモノに会ってきたよ。とっても可愛らしかった。あの子たち必死に生きているのに、どうして"怠けもの"なんて名前が付けられちゃったんだろうね。あっちの世界では私たちのこと"働きもの"って呼んでるかな。」

僕は"なまけもの"の方がいい。"はたらきもの"なんて御免だ。

半額シールの貼られた弁当を食べながら、チョークで汚れた大学ノートを眺める。
前回の授業冒頭を思い返す。努力と成果の話。

「努力は必ず報われる」という格言があるけれど、先生はこれがいつでも正しいとは言えないと思う。「適切な努力をすれば、それだけ報われる可能性が高くなる」くらいが妥当じゃないかな。
少なくとも大学入試や受験の世界には、正しい努力と誤った努力がある。
あおくんはテニス部だから、素振りをイメージしてみるといいかもしれない。理想的なスイングを繰り返すことでよいフォームを身につけるというものだと思うけれど、よくない形で素振りを繰り返しても、きっと悪い癖がつくだけだよね。
適切でない努力をすれば、その意味がないだけでなく、むしろ状況を悪化させることさえある。だから闇雲に頑張ればいいわけではないんだ。
…でも不安にならなくて大丈夫。君たちの仕事は努力をすること。みんなの努力で希望が叶えられるように導くのは、僕たち講師の仕事だから。

よく無責任にも偉そうなことを言えたものだと、うんざりする。本当にくだらない。

どれも同じ体温をしたプラスチック容器の前をだらしなく彷徨い、立派に数分は悩むのに、食べ終えてみると何の弁当だったかハッキリ覚えていない。そんな日が続いていることに多少のうしろめたさを感じている。350mLの缶ビールを片手に、明日の授業の準備を進める。
きのこ帝国の『クロノスタシス』が頭をよぎる。
時計の針は0時を指している。

「この前スタバでね、隣の席のプチ喧嘩が聞こえちゃったんだけど。塩顔のセンター分けがずっとスマホ見てたの。そしたら向かいに座ってた可愛いらしいショートボブの子が怒っちゃって。『あんたの人生、半分スマホ見て過ごしてんだよ』って。私たちも実際に顔見たり声聞いたりするより、LINEでのコミュニケーションが多いわけじゃない?まあ1日会って話せば、LINE1ヶ月分くらいだけどね。」

来週に迫った免疫学の試験勉強には手をつけていないし、今日は講義へ行かなかった。片頭痛のせいにしたので、サークルの飲み会も欠席した。

2001年9月11日。世界が震撼した。僕は3歳だった。
小学4年生の秋、その特集番組をテレビ(自宅にあったのはブラウン管で、よく背面の暖かい空間でコソコソと過ごした)で観た自分は、同じときに同じ映像を観た多くの人々と同じように衝撃を受けた。地球の裏側では恐ろしいことが起こっていて、でもこの惑星ほしはひとつの球体で裏側とこちら側は繋がっていて、だから自分の住むこの"せかい"は平和とはいえないかもしれない。世界も伝統も政治も知らない、人間も道徳も倫理も知らない当時の僕は、"せかい平和"のために仕事がしたいと思った。
ジャンプの主人公のような明るさを持った当時の担任は、医療や教育を志す人になりなさいと言った。その日から「医師になること」が夢になり、目標になった。

多くのものを犠牲にして、大切にすべきだった人や守るべきだった時間を犠牲にして、"受験勉強"をした。もちろん、それが正解だと思った。

問5 傍線部D「ひとはみな それぞれのカンバンを せおう」とあるが、どういうことか。最も適当なものを次の①〜⑤のうちから一つ選べ。

明日は高校2年生の現代文の授業だ。

ー あなたの背負っている【カンバン】は何ですか。
医学生で、アルバイトの塾講師で、学生サークルの代表で、学童保育のお兄さんで、かなでの恋人で、小さなカフェの常連で、又吉直樹のファンで、臆病者で、弱虫で、嘘つき。

僕は信用に値しない人間。やることはいつだって他人より曖昧で、妥協も多い。責任感も希薄だし、周りの人々に対する敬意が足りない。
そして、医療を志す学生は、正義感があり、理性的で、常識的なものであるらしい。

「私のいるパン屋さん、ときどき接客態度に意見される常連さんがいるって言ってたじゃない? 今日その方が来られて、緊張しなかったって言ったら嘘になるんだけど。帰り際に2つ下の後輩が『毎回文句言うくせにまた来るなんて、何がしたいんでしょうね。毒吐きたいだけなら、Twitterありますよー。』って。なんか寂しかったな。」

”青い鳥”("黒い交差点"とでも言うべきか)の視点で世の中を覗けば、無垢な笑顔や善良な願いの間で、攻撃的で品格に欠けた言葉たちが、悪性腫瘍がんのように自己増殖を繰り返しているようにも感じる。
悪意に満ちたこの世界は、不安定ながらも暫くの間は続いてゆくのだろう。きっと。

  • わざわざ有給とって遊びに来たのに最悪。散々待たされた挙句、レジで注文急かされるわ、常連の老夫婦に付きっきりの店員もいるわ。爺さん婆さんいつも来てるくせに図々しいよ。往復の電車でも押しつぶされて、本当うんざり。返してよ、私の貴重な休日。

  • 流石にあり得ない。いい雰囲気かと思ってたけど、俺の話をまったく理解しようとしないし、職場の不平不満ばかり。ガソリン代とか高速代も払う素振りすら無かったからLINEは即ブロック。普通にナシだわ。

暗転したiPhoneの画面に映る顔は決して穏やかではなかった。
寒い冬の朝、超満員のバスに揺られながら、母親が泣く子を必死にあやす。怯えるように、祈るように。「静かにしてくれよ!」ベルトにだらしなく贅肉を乗せた中年男性が女性を罵る。その脂が浮いた顔面へ、驚愕と軽蔑の眼差しが一斉に向けられる。
そのときの視線が、6.1インチの黒い鏡の奥からこちらを覗いていた。
我に返り、中途半端に残った常温のビールを乾いた喉へ滑らせる。

「今朝ね、駅で私の前歩いてたVaundyふうの大学生が、ヘッドホンで髭ダンの『ビンテージ』を聴いてたの。なんで分かったって、本人は自分の中だけで響かせているつもりの振動が、私の鼓膜を微かに揺らしたから。(いつものなぎくんの真似です。やっぱり上手く言葉にできないや。)これじゃ"怪獣の鼻唄"だよね笑。でも彼のおかげでとっても素敵な歌詞に出逢えた。
『キレイとは傷跡がないことじゃない。』
『傷さえ愛しいというキセキだ。』
あの瞬間、控えめな威厳をまとって歩く彼のなかで、ボーカル藤原聡さんの歌声が推進力になってたのかなぁなんて。今日の上野は快晴です。」

「グ・リ・コ!」
緊張感のない、透き通った声が響く。
僕は潰れたアルミ缶の前で、咄嗟に短く吸った息を、ゆっくりと吐く。同時に身体の中心から溶けるように力が抜けていく。窓から差し込む陽光の明るさと鳥や草木の賑やかさから、ずいぶん眠っていたらしいことがわかった。

時々あたかも世界を運営する一人にでもなったかのように夢や理想を語る自分があらわれて、次にスポットライトの下にいるのは、怠惰な生き様で他人を失望させてばかりの自分である。

非常識で、不誠実で、野蛮な人物が世界を潤すことに誰も期待などしないだろう。それでも、他人から受ける優しさには一時的な喜びが伴う。
少し落ち込んだときに、久しぶりに会った先輩から応援の言葉をかけられ、救われた感覚になることがある。長いトンネルの中で一筋の光を見つけ、暗がりから解放されるかのような、そんな錯覚をすることがある。しかし、やがてすぐに、実際にはこの胸が優しく固く締め付けられているのに気が付く。
「頑張れ」という言葉には、充分にひとりの人間を潰してしまう力がある。

隣の公園は晴れた土曜日の朝、太陽が少しずつ"しぼり"を開放するのに合わせて、賑やかな空気が膨らみ町内を包んでいく。
「チ・ョ・コ・レ・ー・ト!」「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル!」
きっとラジオ体操の帰りだろう。
チョキとパーが同じ6歩であることに、今頃気が付くとは思わなかった。

シャワーを浴びながら、ふと、様々に形を変えて身体を滑り落ちる白い泡とともに、自分から何かが流れていくような気がして、渦を巻く排水溝をしばらく眺めてしまった。その正体にぼんやりと考えを巡らせつつ、髪を濡らしたままベランダへ出ると意外にも日差しが心地よかった。

「Everybody is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid. 」
「自分を周りの人と同じものさしで測っちゃダメなんだって。たとえ小さな傷や穴があったって、他人と比べて劣等感を抱く必要なんてない。自らが輝く文脈と才能を見つけなくてはならない。そんなこと言われても、難しいよね。」

ベージュのアルトラパンが停まる。
プラタナスの若葉がゆれている。スズメは落ち着きのよい場所を探すかのように、小さく飛んだりじっとしたりを繰り返している。運転席の女性はシートベルトを締めたまま、それを眺めている。数十メートル離れた角から、スマホのインカメで髪型を整えながら歩いてくる彼は、オーバーサイズのブルーシャツにより爽やかさを況してみえる。彼女と目が合うと運転席へ優しく手を振る。温かい春の匂いが二人の間を吹き抜け、彼は助手席へ乗り込む。「おまたせ」か「ありがと」を言い、短いキスをする。マウントレーニアのカフェラテを彼女へ渡し、自分はノンシュガーにストローを差す。
静かに発進したアルトラパンは、誰もいない駐車場で、駐車スペースを横切ることなく何度かウインカーを出して曲がった後、ゆっくりと環状通へ出ていった。

他人の放った『大丈夫』で安心できることなど果たしてあるだろうか。
私と小鳥と鈴と。美しい詩が戯言にしか聞こえない自分の卑屈さを恨みたい。

今日、この世界から僕がいなくなったとしても、地球は変わらず同じ速度で回り続け、昼と夜は駆け足で行ったり来たりするだろう。それでも自分の音を残そうと踠くのは、迷惑な我儘わがままだろうか。健気な尊い願いだろうか。
たとえば、いま目の前にいる子どもたちが、かつて僕が描いたような善良な夢に誠実に向き合い、誇りをもって実現し、互いに愛を伝え合って過ごせたら。そんな願いはどうだろうか。

「ねえ見て!」
クローバーに止まるナナホシテントウの写真が送られてきた。向かいのガラスに映った彼女は、ちいさな生命の成長を見守る太陽のように、優しい表情で微笑んでいる。
「アパートの入り口で出逢ったの。今日はきっといいことあるね♪」

消えてしまいたいと思うことなんて、これまで何度もあったけれど、毎回うまくいかないのが、情けなくて、悔しくて、だけど、嫌いになれない。

五線譜の上に並べられた楕円のように、浮きつ沈みつ揺蕩たゆたいながら、それでも最後にこの僕を"はたらきもの"の世界に繋ぎ止めているもの、その重石となっているのは、かなでの存在である。
極端な低音も不協和音も、魅力なんだ。音が響かない瞬間も、楽曲には必要なんだ。意味がないと思える時間も、無駄ではないんだ。と。

いつもと変わらぬ平凡な一日が、二度と訪れることのない特別な一日が、流れてゆく。
彼女の鼓動、呼吸、瞬きがメトロノームのように、僕の中で響いている。小さく、けれど確かに、響いている。

----- inspired by 『僕は今日も』Vaundy


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?