見出し画像

はじまりは、自分の笑顔だった😄

SNSのほとんどを非公開にしたり、アカウントを公開していても見ない状態が続いていた数年。どんどん自分がかすれていく感覚に意味がわからなくなって泣く日もありました。

なぜ、自分がそっちを選ぶのか。
続ければいいのに。

続けられなくなったのは、「気にしない」でいることさえも含めた行き止まりのような悩みでした。それまでのわたしが気にしないでいたものに、薄っすらよぎってくる言葉が見え始めても、「いまやめたくない」と思い、わたしはその言葉を考えないようにしていました。

その言葉は、そのとき立ち止まればもっと早い段階でSTOPすることもできたのかもしれないものでしたが、わたしはそのときはまだやめたくありませんでした。
それから5年ほどかけてSTOPしたのは、ブログを書くことだった。ひたすら書いていた時期はそれが静かな楽しみに変わったけれど、やめようと思い始めてからは溜まっていた負の感情がどうしようもなくなりました。

わたしには、SNSは情報が大きな川をどんぶらこと流れる場所にみえた。やがて、世間そのものにみえてきた。ものの見方や会話の流れがいちいち傷つけるような、でもそれが当たり前で何の罪悪感もない状態を維持しないと、社会の荒波で溺れてしまう。溺れてから流れ着いたところにはインターネットにある他人にもらう評価の残がいみたいなレッテル。インターネットは本当の言葉を見せていると思うときは、笑い声がきこえてきそうな雰囲気。いろんな価値観があふれて、ぶつかり合って消滅。

残ったものは浸透しているもの。
「言われたくない」
泥だらけになっても、がんばる姿を褒めてくれる歌詞の歌を知る。みえない泥にまみれて、泣きながらなんかぶん投げるように言った言葉もあったかも。

わたしのインターネットの思い出ボロボロ。
ぼろろろって打ってしまう。いつかは、そういうのもそのまんまにして投稿したい😀
わたしは、インターネットは流れていくものだと認識するようになってからは、気持ちが楽になった。それも、さまざまなサービスを渡り歩いて知った捉え方でした。
流動的と言われていたものは、新しい感覚をつくっているようにも思えました。どうしても、画面が静止しているように思える文章には、それがいつのことだったかを語りかけるようなフレーズはあまり意味がもたされないのでしょう。日付を見ない、記事に表示しない場合もあるといわれています。

それをわかりやすく書くから意味がある!
読む側にとってもいい!
そういう記事が多くの人に読まれるっていうのは本当だと思う。わたしも、そういう記事を見つけて読もうとする。自分のは、自分で書いた何かだと思いながら読むんだけど、とくにおもしろくない🙂

わたしは、わたしが書く何かをそんなにわかってもらわなくていいと思ってる。
このアカウントの基本的な使い方が過去や日常的な何かを記すだけだし。ふり返って書くことが多くなったし、わたしは何かを教えるように書けない。
10年以上前の学校生活の謎くらいしか、こそっと教えられるものがないよ🙃

もう書かないほうがいい、やめたほうがいい。書くことがない。やめたくなったからもう書かない。
4年間、呪文のように繰り返しました。
そしたら、忘却が訪れて心が静かになり、書いたものを見ていると自分だと思える安心感がありました。そのヘンテコな流れも10年ほどになるから、トボトボ書こうかなと思えてきて、たまに書いてる。
気持ちの比喩も難しいんだけど、10年くらいかけて戻ってくるブランコって距離が長いのかな🤔風をきりはじめたら、果てしないかな😵‍💫