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ドラマをみる楽しみは日常のよろこびになる

見出し画像は、わくわくが前のめりになったときのテレビへの関心をイメージして選んでしまいました。🐱

テレビがつまらなくなったと言われるようになって何年も経ちましたが、たまにバラエティで笑う日があります。ドラマも見るおもしろさ復活を祈るように、いつも新しいドラマの季節になるとひとつくらいは見たいドラマを見つけておこうと思うようになりました。いまは、TBSのあるドラマを1話目から楽しみに見ています。宣伝されたときから新しいドラマの中でも「これ、見たいな」と思わせてくるちからがありました。

見たくなるきっかけ
 ・出演者に見たい人がいる。
 ・内容、基本設定に興味をもつ。
 ・番宣をみたとき。

大人になるにつれて、学生の頃のようにドラマやバラエティなど見たい番組で1週間の気分を構成しなくなり、いろいろつまらなくなったわたしはドラマを毎週楽しみに見ることも自然となくなっていきました。
10年前に、もう一度テレビやドラマを楽しむために自ら変わる部分として、ひとつのドラマを最終回まで見れたら◎ そして、毎週見ることに慣れていこうと考えました。一度忘れた楽しみはすぐには戻りきらないもので、ドラマを見ても話の展開についていこうとしないこともありました。自分が見ているドラマをつまらなく思う理由のひとつでしょうか。そのドラマ(フィクション)の話をどうでもよくなってしまい、なかなか楽しみスイッチが入りませんでした。
期待と諦めを何度か繰り返し、最初から最終回までを毎週楽しみに見れることは新しいよろこびにもなりました。
その静かな苦戦を考えていたとき、学生の頃のように当たり前ではなくなってしまったことにも気づきました。
楽しめなくなったのは、見る側の環境の変化や世代の移行も複雑に重なったりして、いろいろなことが幅広く関係しているのかもしれません。もし、ドラマの制作側が反応を手にとるように本気で知ろうとしたら、視聴者のほんとうにたくさんの感想や見る理由、見ない理由が静かに隠されている祠のようなものが佇んでいそう。

これまでにも主題歌が響いてきたドラマ、出演者が話題になるドラマ、展開が話題になるドラマ。さまざまな話題性は用意されているのに、拾いきれないままスタート&ゴールが訪れるときにも、自分自身に仕方ないと諦めながらも、それでも見れてよかったと思うドラマは記憶に留めたくなります。
話題にあがるドラマというものは、わかりやすいくらいにインターネットで人々を楽しませていることを知らせていて、変わらない賑わい方をしているように思えたことがあります。なんだか、そういうドラマが最終回を迎えるということでホッとする効果を与えてきたりもします。日常に並走しているテレビというポジションは、消えたりしながら飛んでるようなインターネットの比喩とはちがうものなのかなと考えては、ふしぎな光景に思えてきます。

TVドラマ史の分厚さに驚くきっかけも、テレビ番組やインターネットからおくられるものです。2000年を過ぎてからは勢いや威勢というより、日常の中のゆっくりタイムになったのかなと思ったこともありました。時間が経つことを忘れられるドラマをみると、「見れて良かったドラマ」というカテゴリーに入れたくなります。そのカテゴリーは類似する表現で「思い出」や「記憶」を表すことがあります。それは、お話の内容が半分以上占めている気もします。出演者情報も、そのドラマを見る基準を多く含むので、見れてよかったドラマは総合的にピタゴラスイッチのような動き方をして、さまざまな関心を集めて最終回までいくんだろうなと思います。
人々の心を動かしていくとき、どんな歯車が動き出すんだろう。🥲

ドラマに見入るような時間も、ぐっすり眠るために必要です。いつの間にか、活力に。