記憶の中の魔物が寝ない

ひとりの人間のこころのどこかを探す旅は、そんなにすぐ答えが見つかることばかりではないと思う。それが自分自身の心であるなら、時間のかかる気ままのようで人生のことだとも思えてくるけれど。他人、他者という存在の心をどうにか旅しようとすることはびっくりするほど怖いと思う。
わたしは、いつからか内側を外側に向けて何かを考えていた。

思い出す、言葉のふしぎ

1文字削れば思い出。いまの自分にわずかな時間影響を与えてきたりする。言葉や日々の考えごとを大きく揺るがすような過去に、ひっそり驚きの連発になった時期もある。けれども、「それがあってもなくても、いまって変わらないですよ」っていう微風みたいにさりげないおまじないが、自動で複雑化していく感情をひとつひとつ句読点つけてくれてる。
時はそのように過ぎてきてしまったしね。
落ち着けばそうだった。
あのときを忘れても、そのときの自分がいまはもうわからなくなっても。半分は泣いている。ほんとうは、つらい日だったことを伝えることはなかった。だから、知らないしわからないと子供の頃から度々言われていた。いまも心を表すことが会話でうまい人を知らんけど、そういえば学生の頃から感情を言葉にすることが上手な人は、突然不満に牙を剥く人もいた。
一年かけて、また新しくひたすら自分と向き合い、なぜかそこに他人が鏡に映りこむような考えごとをする。少しずつ、好きな歌やこれまでにも支えられてきた歌に感情への感謝を度々気づかされ、ここに書くのをためらっていたときより文章が穏やかになった。
ひとりの人間のそういう一面や答えは、言葉になるだけでは特に正面から伝わらない。そういうことがあると、別のことで知ってしまった。それは空振りに似ている。「自分がそっと思い出しただけでしょ?あるよね、そういうの」これでさっぱり片付けられて、ふわっと持ち上がって落ちた感覚にどこかをぶつけた感じのまま「?」が浮かぶ出来事になる。

どこもぶつけない言葉はあるのか?

まだ、わたしは自由の柵の内側で少しずつ「日常がしんどかった」出来事を思い出す。勝手にならないように呪文のような言葉も考えたりしてしまうのは、過去がそのように向きが変われば責められることもあって、それが危険な流れだと知らせてくる気もする。あのときからみれば未来への影響が出ているところだと思う。
いまとなっては、記憶の中に出てくる登場人物でもあり他人でもある人物の印象だけが、わたしにとっては勝手に切り替わるものかもしれない。過去をふりかえっても、得られる何かはだれかを他のだれかに代えることにはならないのだから、ひとりで思い出したものはひとりで再びしまい続けていく。それらをたまに書いてるのは、わたしのいらぬ悩みを放り投げられる部分を探しているから。
それさえも記憶に入り込んだ相手に悟られればものすごく怒られるから、当たり前だろうけどそういうことは言わないほうが良いものだった。

20年以上かけて振り返り続けた人間関係は、寝つきを悪くするし、寝る前の考えごととして全然良くないものでこまりもの。わたしにとっても、そんなことをしても良いことはなさそうなのに、カンガエロって輪唱でゲロゲロ鳴かれてるみたい。きれいに響いていたら、もうおうたのようだ。
人の印象がガラリと変わる出来事を何らかの方法で忘れさせられたことはなぜなのかを後回しにしても、本当に驚くことばかりだった。日常的に自身の印象が変わらないことを積み上げていくと、御こころ問題にすごい速度で問題が作成されていくようなこわさもある。それをわたしは問題文にはできそうにないからトボトボため息を書いてるんだけど、騙す、騙されない分野でバトルをするお仕事の難易度に改めて正座をしてしまいそう。

何年経過していても、困ったときの感情が難しすぎて過去にまで泣けてくる。ふしぎな答えが難問、問題は単純なのに複雑化する自動迷路。入口は出口でトラブルの搬入口。