藤井風「満ちてゆく」は人生の万能曲
映像作品において、主題歌が監督やキャストと同等にあるいはそれ以上に注目されることも多い。特に邦画では人気アーティストによる書き下ろし曲が、話題喚起や視聴者数増加に寄与し様々な作品を盛り上げている。
確かに作品と主題歌がピタっとハマった時のカタルシスたるや!鳥肌ものだ。
藤井風の「満ちてゆく」もそのひとつだろう。
だが、この曲は主題歌の領域から大きく溢れ出ている。なぜなら、私は現時点で「4月になれば彼女は」を観ていないにもかかわらず既に満ち満ちちゃっているのだ。
この曲の公式映像は当該映画とその予告編、そしてMVだけ。なのに脳内では「満ちてゆく」を主題歌とした膨大な映像がドラマ化され日々感情を揺さぶってくる。東宝には申し訳ないが、もうこのまま映画を観なくても十分かも…と思うほど。
「満ちてくる」は今までの主題歌とは一味違う
ここ数年をチラッと振り返ってみただけでも、
など、”この作品にはこの曲しかない!”というタイアップ大成功例がいくつも思い浮かぶ。それらはドラマや映画を離れても、それぞれの場面とともにリスナーの記憶に深く刻まれていった。
ここが肝なのだが、曲と映像のマッチング密度が高ければ高いほどその時の感情との距離も近い。つまり、大切な人の死と密接に結びついている「Lemon」は喪失感を呼び覚ますし、「Subtitle」を聴けば誰かを愛する温かさや切なさが蘇る。
「満ちてゆく」はこの点において今までの大ヒット主題歌とは決定的に違う。
人生のどの場面をも包み込むパワー
試しに電車に乗っている時、車窓に流れる景色をみながら「満ちてゆく」を聴いてみてほしい。座席で無表情にスマホを見ている人たちに目を向ければ、彼らが抱えている孤独が透けて見えるような気さえしてくる。
公園で無邪気に遊ぶ幼い子供たちを眺めながら聴けば、わけも分からず鼻の奥がツンとする。そこにハラハラと桜の花びらが舞い降りてきたら泣いちゃうかもしれない。
「満ちてくる」が流れた途端に、日常の何気ない風景が映画のクライマックスシーンのようになるのだ。
静かに波が打ち寄せる浜辺、ビルの谷間に落ちてゆく夕日、遠くで打ち上がる花火…ありとあらゆるありふれた日常を尊く愛しく美しく変えてしまうマジック。
これとか!素晴らしい
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結婚式にも葬式にも大都会にも大自然にも、そして悲しみにも喜びにもシンデレラフィット。こんな曲、「満ちてゆく」以外だとバッハのG線上のアリアくらいしか思いつかない。
試しにネットに転がってるあらゆる映像と合わせて聴いてみたのだが、くだらない猫ミームでさえ、「あの頃、こんなのが流行ったんだよねっていつか笑い合うのかな….」とエモエモのエモに変換された。
恐るべし「満ちてゆく」の威力!
「満ちてゆく」が導き出す人々のドラマ
YouTubeのMVコメント欄にはあらゆる人たちの人生のドラマで溢れかえっている。この現象は「帰ろう」でもあったが、「満ちてゆく」は公開わずか3週間でコメント数12,733と、3年前の「帰ろう」のコメント約13,000に迫る勢いだ。
それだけこの曲には十人十色の人生の場面を想起させる力があり、それぞれの大切なものを豊かな音で彩っているのだろう。
個人的な話になるが、13年前、私は亡母をハワイの海に散骨した。
母は何にでも執着心の強い人だったが、晩年は体調のせいで様々なことを手放さざるを得なかった。それは「満ちてゆく」とは程遠い、”我慢”であり”諦め”だった。そしてある夜、脳卒中でポックリ逝ってしまった。
船上から見た青い海に真っ白な遺骨が流れていく様は、”供養”というより苦しみからの”解放”のように思え、悲しみではなく安堵で涙が出た。
まさに「手を放す、軽くなる、満ちてゆく」そのものを実感した朝だった。海は母の墓でもある。次に海を見るときは「満ちてゆく」を聴きながら、母の人生に想いを馳せたいと思う。
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