学園祭回顧録:大学1年の頃(Cruising Party)

【1996年(平成8年)】

大学の学園祭というのは、少なくとも僕にとっては、中学や高校の学園祭とはまるで違うものであった。参加する企画の数や種類も、そして学園祭を運営する方法やシステムも、そのほとんどが今までとは大きく違っていた。その違いは「山形」と「東京」の違いに起因するものもあったのだろうが、当時の僕にとってその違いは大きく、そしてそれは学園祭への新たな興味へとつながっていった。

新フェスは、受験開けの僕に学園祭の楽しさを久しぶりに思い出させてくれた。ただその楽しさは、あくまで中学や高校で僕が感じていた楽しさだった。それに対して、大学の学園祭の新しい楽しさを僕に最初に教えてくれたのは、6月下旬のCruising Partyであった。

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5月上旬の新フェスが終わり、次に僕が関わった行事は5月下旬の五月祭であった。五月祭の準備は五月祭常任委員会という、僕が入った駒場祭委員会とは違う委員会が行っていたのだが、2年生の先輩や元駒場祭委員の3,4年生の先輩が数多く関わっていたので、1年生もその準備を手伝っていた。

しかしこの五月祭は、僕はそんなには手伝えなかった。ちょうど5月中旬に、家の都合で山形に帰らなくてはならなくなったこともあり、五月祭1週間前の準備にも参加できず、前日と当日にちょっと手伝ったくらいだ。

前日は五月祭参加企画の責任者から学生証を預かるという仕事を行い、当日は正門や赤門でのプログラム販売や、来場者の道案内などを行った。迷子になった子供の親御さんを探したりもした。日本人だと思っていたが実は外国の子供で、言葉が通じずとても苦労した覚えがある。

五月祭の企画もいくつか見ることができた。クラスの友達がやっていた民族舞踊を見に行ったり、委員会の先輩と一緒にWorld Wide Warter展という、水を使った不思議な展示企画を見に行ったりした。他にもたくさんの企画があり、その規模の大きさにさすがと感じたものだ。

その五月祭も無事終わって、6月上旬に渋谷で打ち上げを行うことになり、1年生もそこに呼ばれた。そのコンパである先輩が、6月下旬にCruising Partyというのを行うのだという話をしていて、詳しく聞いてみると、横浜の山下公園に船を借りそこに都内の大学生などを集めて、演劇やバーなどの様々な企画を行うのだという。明日その準備があるけど参加するかと言われ、急ではあったが、面白そうなので参加してみることにした。

準備は朝7時から始まった。その日の準備は宣伝用の立て看板(通称「立て看」)の作成だった。立て看というのは、木材を切って作った四角い枠にベニヤを釘で打ちつけ、そのベニヤに様々な絵や文字をペンキで描き、最後に倒れないようにするために足をつけたり重石をつけたりしてできる簡単な看板で、うちの大学では主要な宣伝方法の一つとして、構内の至る所によく設置されていた。

この日作ったのは普通の立て看の1/6ほどのサイズのミニ立て看で、背景を青く塗り、そこに赤でRという文字を書くというシンプルなものだった。最初は何でRと書くか分からなかったが、そのCruising Partyの題名が「Raido」という、何語かで「航海」を意味するものであることが分かり納得した。構内には既にCruising Party用の巨大な立て看(こちらには企画の内容や日時なども全部書いてある)があったのだが、それだけではまだ宣伝不足なので、Rだけを書いたミニ立て看をつくり、見る人に何だろうと思わせたところで、これまたRが目立つ巨大立て看を見せ、ああなるほどと思わせる戦略だったようだ。

このミニ立て看、作りは簡単なのだが、なにぶん数が多かったので、全部完成させるのにはかなりの時間がかかった。人手は僕と誘ってくれた先輩の他に、駒場祭委員会の先輩が3人と、生協の学生委員会の1年生が3人いた。生協の学生委員会というのは、生協の様々な活動に関わる学生だけの組織で、このCruising Partyはもともとそこの企画だった。先輩もそこのメンバーであることが後から分かった。

総勢8人いた訳だが、他の仕事があった人もいたので、大体4、5人で作業を行った。午前中にベニヤと木材をカッターとノコギリで切って、午後は木材で枠を作りベニヤを打ち付け、夜はベニヤにRの下書きをして青と赤のペンキで色を塗り、早朝に足をつけてようやく完成した。そう、結局僕はその日大学に泊まってしまったのだ。今ではもう何百(は大げさだが)と泊まったので慣れてしまったが、その日は一日中(一応3時間くらいは寝たが)作業していたこともあって、次の日はかなり疲れてしまった。

この立て看作成の後、僕は正式にCruising Partyのスタッフに加わることになった。スタッフといっても人数はそれほど多くなく10名程度で、その内半分は入学したばかりの1年生だった。僕は「組織局」という、客入れや客出し、当日の受付や荷物の預かり、最寄り駅から会場への誘導などを行う部局についた。ある先輩と2人で準備をしていたのだが、当日が近くなるとその先輩が全体の統括の方に回ってしまったので、僕1人でそれらの準備を全て行うことになった。

高校の頃に多少学園祭で仕事をしていたものの、こういう大きなパーティーの会場整理やお客の誘導などは全く経験がなかった。最初はかなり焦ったが、先輩が残した資料やマニュアルがあったので、それらを参考に一通り計画書を作り上げた。計画書を作り上げると、それを元に必要なものをリストアップし、あるものは探し、ないものは作った。苦労したのは案内用のプラカードだ。これはパーティーの前日から作り始めたのだが、同じ1年の友達が協力してくれたので、何とか当日まで間に合わせることができた。

朝早く他大に行っては、道行く学生に宣伝のビラをまいた。会場の下見のために山下公園にも行った。夜遅くまで仕事をした後みんなで食事をしに行ったりもした。それまではほぼ家と大学の往復しかしていなかった僕だったが、このおかげでかなり行動範囲は広がった。移動のたびに載っていた先輩の車が、今ではとても懐かしい。

企画を練り当日の計画を立てていたのは10名程度であったが、当日のパーティーには多くの人たちが協力してくれた。まず女子大の人たちが10名程度いて、受付と客の誘導(つまりは僕が受け持っていたパート)を手伝ってくれた。また駒場祭委員会からも何人か手伝いが来て、バーでのウェイターやウェイトレスをやってくれた。

その他船内の企画の劇やダンスやディスコなどで、もっと多くの人がその実行に参加してくれたのだが、僕はそちらの方に関わっていなかったので、残念ながらあまり思い出すことができない。ただ最初はどうなるか全く予想がつかなかったこのCruising Partyが、当日無事行われそして無事終了した時には、僕は今までの学園祭では味わえなかった何かを得ていた。

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Cruising Partyの準備は確かに辛いものだった。僕が準備に参加した立て看づくりの日は既に本番の3週間前であったし、そこから客入れや客出しなどのシステムを考え、受付や誘導に必要な様々なものを作り、また暇があっては他大にビラを配りに行き、あるいは会場の下見に行きと、まさしく怒濤のような日々を送っていた。僕はそれまでの緩やかな生活がいきなり急流に飲み込まれたみたいで、最初は焦りを、時には怒りすら感じたこともあった。

しかしその準備は僕にとって大きな糧となった。僕は、今までに関わったことのない大きなイベントの重要な部分を担い、それを計画し、そしてそれを実行できたことで、何か大きな自信を得ることができた。そんな大きなイベントの中心メンバーとして関われたことに、大きな誇りを感じることができた。

そしてまた僕は、何かを「創り上げる」楽しさと、そのための様々な手段を得た。今まで僕が携わってきた中で、その全てを1から創り上げるというものはそう多くなかった。中学でも高校でも、確かに行事を完成させてはきたが、それはいわばプラモデルを組み立てるようなもので、パーツの部分は既に用意されており、そのパーツの設計にまで関わることは少なかった。

またそのパーツの設計に携わることがあっても、自分の思い通りのパーツを創り上げるには至らなかった。高校3年の時、僕は企画コンテストの実行のために色々なアイデアを出してみた。けれどもそのほとんどは実行できなかった。それは僕にその時間と、力がなかったからだ。そしてまた実行するための方法を知らなかったからだ。

しかし僕はこのCruising Partyを通して、そうした様々な方法を学んだ。特に先輩方は、そんな様々な方法や技術を持っており、僕はそれを目のあたりにし、そしてそれを自分のものにするよう努めた。最初の立て看づくりの日には、立て看の作り方を教わった。パソコンで企画書を作っているのを見ては、自分もパソコンで計画書を作ってみた。ビラの刷り方も学んだ。その配り方も学んだ。図と写真を駆使してパンフレットを作成しているのを見て、パソコンを使えばこのようなことができるのかと感動もした。

そういった全てのことが、当時の僕にはひどく新鮮だった。それは中学や高校にはなかったことだ。そしてそういうことを利用して、自分でも色々なことを考えてみた。自らパーツを設計してみた。そしてそれを実際に創り上げてみた。

本番直前に作ったプラカードは、まさにそうして作ってみたものだった。当時プラカードなど作ったこともない僕だったが、パソコンのWORDを使ってきれいな文字を打ち出して、それをコピー機で拡大コピーして下絵をつくり、カーボン紙を利用してその下絵をベニヤに写し、そしてそのベニヤをペンキとマジックで塗った。最後にベニヤに木材をつけてプラカードを完成させた。

今思えば何でもないようなことも、当時の僕にはとても嬉しかった。生まれて初めて作ったプラカードの出来に自分でもすごく満足したのを、今でもはっきりと覚えている。

このようにCruising Partyは、僕に今までに感じたことのない、新しい楽しさを教えてくれた。それは言うならば、僕が「白いキャンパス」でふれた「絵を描く」楽しさだ。すなわち、何らかの青写真を自分で描き、そしてそれを自らの手で実行し、自らの手で現実のものとする楽しさだ。そしてその青写真が大きければ大きいほど、それを実現した時の喜びと感動は更に大きくなるのだ。

Cruising Partyは当時の僕にとって、描くに申し分ない大きさのイベントだった。そしてまた僕はその中で、自分の頭で物事を考え、自分の手で実行することが許され、そしてそのための術(すべ)と力を学ぶことができた。

この「絵を描く」楽しさの虜となった僕は、Cruising Partyが終わると、次なる「絵を描く」場を求め始める。そしてその場というのが、第47回駒場祭だったのだ。

なお、余談だがCruising Partyは、イベントは無事終了したものの、収支的には赤字であったようで、2年生以上の先輩方はその事後処理にだいぶ苦労されたようだった。1年生の僕がそれを知ったのは後のことだったが、イベントを企画する際も、ただ楽しいだけではだめだという教訓も、Cruising Partyから僕は学ぶことができた。

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