学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:6月~8月)

【1996年(平成8年)】

11月下旬に行われる第47回駒場祭の準備が本格的に始まりだしたのは6月頃であった。4月と5月にも毎週ちょっとしたミーティングは行っていたが、顔合わせや新入生への学園祭紹介が主で、そんなに深い話はまだあまりなかった。

6月になって最初に決めたことは、委員会内での役割分担(人事)であった。4月や5月から新入生を中心にどんな仕事をやりたいかの希望をとっていたのだが、それを正式に決めたのが6月の最初か二回目の総会(駒場祭委員会の会議)であったと記憶している。僕は4月の時点では組織局という参加企画の場所割り・時間割りなどを行う部局を希望していたと思うが、結局6月の時点では広告局長という役職に就くことになった。そうなった経緯はほとんど覚えていない。

広告局長というといかにも偉そうだが、その当時広告局は2人しかいなく、その中で僕がチーフを勤めたに過ぎない。駒場祭委員会は総勢20名程度で、膨大な仕事量の割には人手が不足気味であったため、このような少人数部局や、1年生しかいない部局が数多くあった。中には「局長」ただ1人しかいないという部局もあり、実は広告局も、もう1人の広告局員が7月上旬に辞めてしまったので、1人だけの部局になってしまった。

広告局の仕事としては、委員会が発行している「駒場祭プログラム」(当日に行われる企画の場所や時間、その内容などが紹介されている冊子)に掲載する広告を、色々な企業にお願いして集めてくるのがまずあげられる。広告掲載の見返りとして企業に広告料を納めてもらい、それを駒場祭運営費にあてるのだ。また他には、大学卒業生に賛助依頼をして、駒場祭開催の賛助金を集めたりもした。このような内容から広告局は、駒場祭委員会の中で唯一お金を集める部局とも呼ばれていた。

僕が広告局として一番最初にした仕事は業務方針をたてることであった。6月下旬の総会で、そもそも何故広告を取るのかというところから始まり、どういう広告をどのように集めていくのか、特にどのような値段で契約するのかという方針を他の委員に説明し、それを決定した。

次に企業に送るための送付資料を一式作成した。この頃僕は既にCruising Partyを経てパソコンの基本的な使い方をマスターしていたので、委員会室のパソコンを使って、昨年度の資料をもとに今年版の資料を作成した。また暇にまかせて、「New Advertisement Wave~新たなプログラム広告を目指して~」などという冊子を作成したりもした。

冊子を作ってみようと思ったのは、7月上旬の「クラスサークル代表者会議」で委員会が発行した「Almighty」という冊子の影響だろう。駒場祭委員会では、駒場祭に参加したいというクラスやサークル向けに、「クラスサークル代表者会議」(通称「CC代」)という会議を駒場祭前に5回(7月上旬、9月上旬、10月中旬、11月上旬、11月中旬)、駒場祭後に1回(12月中旬)行うのだが、その会議で「Almighty」という冊子を配布していた。このAlmightyには委員会からの連絡事項や注意事項、その他企画を行うに当たっての様々な資料集が掲載される。

この冊子の作成ならびにCC代の準備は、部局に依らず全委員で行う委員会主要行事の1つであった。まずはAlmightyを編集する担当を決め、その担当にそれぞれの部局が企画参加者に知らせたい原稿を書いて渡す。担当はそれらをPageMakerというソフトを使って冊子の形式に編集する。編集が終わったらプリンタでB5版の紙に打ち出し、校正を経て印刷に移る。

印刷はゲスプリンターと呼ばれていた印刷機を用いて行った。ページ数が40近くになるので、印刷する紙の量は10(枚)x500(部)にもなる。B4版の紙の両面に印刷するので、一枚の紙にはB5版にして4ページが載ることになる。よって40ページの冊子だったら10枚の紙が必要になるのだ。このようにページ数がちゃんと4で割れる数にしておくのも、編集の重要な仕事である。今度はその10種類の紙を、ちゃんとページ番号順になるように重ね合わせる。これをまぶし(丁合)と呼ひ、まぶし機(丁合機)と呼ばれる機械で行った。

まぶしがおわると製本である。製本用ホチキスを使って、ページの真ん中2カ所を針で止める。そしてそれを真ん中で折る。これを500回繰り返し、ようやくAlmightyの作成作業は終わる。

Almightyがつつがなく完成するかどうかは、委員の性格(原稿を締め切りまでちゃんと出すか)と編集者の性格(原稿をきちんと取り立てられるか)、そしてそのスキル(どれだけ速く編集を行えるか)によるのだが、これらが全て最悪の状況に回ると、CC代当日の朝9時になっても印刷がまだ行えないことがある(ちなみにCC代の開始は午後1時半)。第一回CC代でのAlmighty作成はここまでの事態にはならなかったが、それでも印刷が開始されたのは午前2時ごろであった。いうまでもなく、CC代前日から当日にかけて僕は大学に泊まった。他にも10名程度は泊まっていたと記憶している。

印刷から製本までは、慣れと運さえあれば2、3時間で行うことができる。運といったのはその日の湿度や気温によって印刷機とまぶし機の機嫌が異なるからだ。最悪の場合だと数枚に一度は重送(複数枚の紙がくっついてしまい、結果白紙が紛れこんでしまうこと)が起こり、その度にその白紙を抜かなくてはいけなくなる。この作業には膨大な時間が費やされる。

しかし慣れがあればこのような重送を防ぐことができる。それにはさばきと呼ばれる、紙と紙との間に空気をいれる技術が必要である。他にも特殊な技術がいくらかあるが、ともかくこれらの技術を習得すれば、印刷機とまぶし機の機嫌を損ねることなく作業を行うことができるのだ。

今ではこんなことも書けるほど熟練した(といっても上にはまだたくさんの達人がいる)僕だが、当時はもちろんこんなことは全然分からなかった。先輩方の作業を横から見、逆に横から教えてもらいながら一つ一つの作業を行った。かなり新鮮な経験だったが、かなり眠かったのを今でも覚えている。

ともあれこのような冊子作りの方法を覚えた僕は、それからことある度に冊子を作成していた。New Advertisement Waveもその表れで、この他に授業のレポートを冊子形式にして提出したりもした。この癖は今でも直っていなく、今までに僕が作った冊子は数しれない。

*

7月の下旬から、プログラムに広告を掲載してくれる企業を求めてTEL入れを開始した。広告掲載をお願いするには、まず企業にTEL入れをして事情を説明し、その後詳しい資料を一式担当者に送る。それから企業側がその内容を審議して、その結果を後日TELか郵送で駒場祭委員会まで知らせてくれるのだ。

しかしこのTEL入れ、例年掲載してくれる企業はすんなりいくものの、新規開拓をねらうとまず95%はその場で断られる。「私どもの会社はそのようなことは行っておりませんので...」とか「本年度の予算は既に決まっておりますので...」などという言葉を僕は何度聞いたことだろうか。それでもめげずに電話をかけていると希に「それでは資料を送っていただきませんか」と言ってくれるところがある。そしたら即座に郵便局に行って資料を送る。しかし資料を送っても、実際に広告を掲載してくれる割合はかなり低い。

7月の下旬僕が行ったTEL入れは、とりあえず去年掲載してくれたところ、それから新規に10社ほどだ。けれどもその10社は全部断られた。しかたないので資料は、去年掲載してくれたところにしかその時は送れなかった。

8月上旬は、僕は東京にはいなかった。山形と、山梨と、秋田にいた。それは里帰り、マラソンサークルの合宿、葬式という行事が重なっていたからだ。結果10日間で40時間(平均1日4時間)は電車に乗っていた。さすがに疲れたものだ。

しばらく旅はごめんと思ったので、お盆の時期は帰らず大学で仕事をすることにした。といってもこの時期は企業も休みが多かったので、広告局のもう1つの仕事、大学卒業生への賛助依頼の準備を進めることにした。

まずは卒業生の名簿を整理した。昨年までの名簿はMS-Access95というデータベースに保管されていたのだが、今年用に新しいデータベースを作った。僕がAccessというデータベースに触れたのはこの時が初めてだったのだが、その話は別の項で詳しく触れるとしよう。

その後賛助依頼の文章を作った。昨年のをベースに、僕なりにアレンジした覚えがある。それから文章を送るのに必要なものをリストアップした。封筒、タックシール、振替用紙がたくさん。そう、たくさん。改めてリストアップしてみると、以外と色々なものが大量に必要で、かなり焦ったものだ。注文するにもお盆中なのでどうしようもない。結局それらの手配は全部8月下旬に行った。

8月中旬は、委員会の人たちも皆お盆休みだったようで、僕の他に委員会室にいたのは同じ1年の1人くらいだった。その人はいつも(夜も)委員会室にいることで有名な人で、僕はそれまではさほど話をしたことはなかったのだが、あることをきっかけにとても仲良くなった。というのは、当時(今でも)委員会では漫画のセリフを微妙に変えて面白おかしくするという「切り貼り」という行為がはやっていたのだが、暇がてら僕がある漫画を題材に切り貼りを作っていたら、横からその人が参加してきて、色々な切り貼りを作り出したのだ。その人はよくもまあというほどすごい(専門用語でグロい)切り貼りを作っていたので、僕は普段無口なその人の意外な一面をかいま見た思いがした。しかしそんな思いをしたのは当の本人もだったようで、彼は初めて気づいた自分の意外な才能を試したくて、その後も色々な切り貼りを作るようになった。

8月下旬になって他の委員も帰ってきたころに、駒場祭のキャッチコピーが決まった。それは「Stop to Start~立ち止まる瞬間」というもので、僕が考えたコピーであった。7月に広報局でキャッチコピーの応募をしていた頃、委員の人も是非という話があったので、僕は高校3年の時に書いた「立ち止まる場所」という文章をもとに、Stop to Startというコピーを考えてみた。'S'topと'S'tartという、'S'で始まりしかも相反する意味を持つ単語をtoでつないでみて、「立ち止まって出発する」という意味をもたせようと試みたのだが、文法上あっているのかはわからない。委員の僕の案だったのでなんか悪いなという思いもあったが、決まった時はやはり嬉しかったものだ。

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