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『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』/べこべ

こにゃにゃちわ。なまもののまま こと べこべ です。静かなままに名前を移ろわせます。こだわりがないのがこだわりです。よろしゅうたまのんす。

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僕は漫画を除いて、年に一冊も本を読まない。本は年に数冊買う。数ページ読んで、この本が読みたい気分になる、その時を待っている。積読ではなく、待読(まちどく)。言葉にすると、前の人が読み終わるのを待っているように思えるので、どう考えたって自分は悪くないのだ。
積読に良いも悪いもないけれど、「待つ」という受け身の姿勢は良くないことが多い。情報や娯楽が受動的である現代において、芸術とは最早、それに対する姿勢が自発的であることから始まるように思う。
仮に、自発を芸術の前提とした時、本という言語表現による芸術を前にして、怠慢でいる僕は、その土俵にすら上がれておらず、また、その事実にも素直に納得してしまう。待読(たいどく)は、芸術になり得ない。積読ほどの言葉遊びもないような言葉が、湯桶読みのままでいられると思うな。反面、積読は、「積む」という行為を自発とするなら、芸術とみなす余地はあるのかもしれない。
仮とするには、いささか刺さりすぎてしまうので、僕の弁護として、趣味が多いあまり、本の順番が未だに来ていないだけ、という屁理屈を残して、この話はkindleの上に平積みしておく。

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さすれば、読みたい本とはどの漫画か、となりそうなところ、僕が秋にこそ読みたい本とは、本をあまり読まない僕の知る数少ないカテゴリーにどう当てはめてみようか模索してはみたものの、つまるところ、漫画ではなく、「創作」と題された数十の掌編と長篇エッセイが載せられたそれは、書籍化されたブログであった。


名を『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』という。


著者の乗代雄介がどのような作家であるだとか、そんな背景も露知らず、僕とこの本の接点は、たった数十秒のみだった。それは、youtubeで誰かと誰かが対談する中、誰かが「最近、面白い本みつけて~」と始めた話、それのみだった。
この「誰か」には意味がない。本当に思い出せなくて、探し方も分からなくて、何も情報を載せられない。作家同士のラジオ、のような2、3時間ある配信をなんとなく再生し、シークバーが押ささってしまった先に、この本の話があった。ほんの数分の会話だろうに、その数分を待つこともなく、「なんか笑えるんだよね~」という言葉を聞いて、迷うことなく購入していた。
動画に出ていた作家を追いかけているわけでもなく、当然、信頼もなく、しかし、そこに躊躇はなかった。当時の僕は、この本が読みたかったわけではない。僕は、その時の衝動をこの本に押し付けているだけなんだ。その無責任は、三ヶ月に数ページという遅々とした速度では拭えない。続かない衝動を形あるものに背負わせて、その衝動をゆっくり楽しもうとしているだけなのだ。あまりにも理不尽で、どこまでも自分本位である。
ただ、それを任せてしまいたくなる本でもあった。いま読み終えている六つの「創作」は、どれもがたのしい。僕の生み出したい脱力感がそこにあり、本に対して、初めて「読んでいたい」と思った。


「読みたい」という衝動は、残念ながら、僕の持つ他種多用な衝動に勝ることが今まで一度もなく、今後もないのかもしれない。経験がない分、衝動との出会いは期待しておいたまま、それでも継続的な欲求が生まれた、という喜びは他にないものである。妬みにならないこの静かな憧れを抱えたまま、毎週、毎月、三月毎に、また飽きもせずに読み続ける。
北海道における夏と冬に比べて、推しも貶しもできない秋という曖昧な季節によく似合う、読みたいわけではないが読んでいたい、僕にとってどこまでも曖昧なこの本を、曖昧なまま読んでいたい。読み続けていることすらも、面白がりながら。


春は当然、存在しない。


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書き手:なまもののまま(べこべ)

テーマ:秋に読みたい本

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今週のテーマは『秋に読みたい本』
明日、木曜日は「竹原 達裕」が更新します。

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