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『学校の怪談』/塔野陽太

好きな映画をいつでも、どこでも観れる時代になった。

だけど、他のコンテンツも同様に、「いつでも、どこでも」を手に入れてしまった。
そんな過多の時代だから、僕らの時間は、必要最低限のものを追うだけで、あっという間になくなっていく。そして、それでもまだ残る貴重な時間さえも、何かにじっくりと時間をかけることが怖くて、短くて軽いコンテンツで埋めてしまう。
そうやって消費した無駄な時間を集めれば、毎日とは言わなくても、2日に1本くらい映画が見れてしまう。
でも、そんなことを改めて考えると、人生の有限さみたいな、とてつもなく巨大な恐怖がチラついてしまうので、考えないためやはり、「ボナペティート」と言いながら作ったパスタを見せてくれるイタリア人の動画を次々と見る。


僕が子供のころ映画はまだ遠かった。
サブスクなんてなかったし、TSUTAYAのカードも持っていなかったので、最新の映画を観るには、少ない小遣いを叩いて映画館に行くか、テレビの放送を待ち録画するしかなかった。
観たい映画を観ていた、のではなく、観れる映画を観ていた、という表現があの頃を表すのに最も適している。

そんな中で、自然と繰り返し観ることになったのは、親や兄の手で、VHSやDVDに焼かれた映像だった。
好きな分野についてのみ異様な細かさを発揮する我が家の性向がしっかりと反映され、ドラえもん、ポケモン、クレヨンしんちゃん、コナンの映画は第1回から揃っていたし、『世にも奇妙な物語』も随分とバックナンバーがあったように思う。

DVDには、父親がオリジナルのラベルを作って印刷していた。
そうやって作られたDVDたちが同じファイルの中に、映画かテレビ特番かの区別なく仲良く収納されていたから、劇場版『結晶塔の帝王エンテイ』と同じくらいテレビ特番『ライコウ雷の伝説』を観たし、ドラえもんが春にやっていた1時間スペシャルも繰り返し観た。

映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ジュマンジ』みたいな、実家にある映画代表みたいなものに加えて、『ジャイアント・ピーチ』とか『ピーターと狼』とか『リンダ・リンダ・リンダ』もよく観ていた。当時はそれらが映画の王道だと素朴に信じていたが、今思えば親父の刷り込みだ。まぁ実際面白かったから文句はない。



子どものころ観ていた映画で、一際印象深いのが『学校の怪談』シリーズだ。

『グーニーズ』の系譜に連なるジュブナイルもので、シリーズの4作がそれぞれ独立した映画となっている。ただし、主演をはじめ、役者が共通だったりするので、頭の中でごちゃ混ぜになる。
「気になるあの娘」とか「兄弟がうざい」、「男子と女子」みたいな小学生特有の問題意識を抱えながら、妖怪や幽霊から逃げたり、ときに立ち向かったりする彼らがとても愛おしい。
1~3までは、エンタメの度合いに差こそあれ、一貫して楽しく怖く、ちょっと寂しい。一方4は異質で、これだけは怖くてあまり観なかった。楽しさがぐっと抑えられていて、寂しさの割合が高い。シリーズを象徴する「テケテケ」という愉快な妖怪も4にだけは出てこない。



シリーズを通し独特なセリフが多く、兄弟でよく真似をしたものだ。以下代表的なものを。
(つまり、ここからはネタバレです。そしてもちろん、どのセリフがどの作品のものかはちょっと分からないです。)

「鼻くそおにい。」
両親の再婚でできた義理の兄貴のことを、鼻の下のホクロを理由にこう呼び続ける女の子が登場する。

「お相撲さんにサインもらっちゃうぞ。」
だから、私も連れてっての意の言葉が続く。女の子が好きな男の子に駄々をこねる際のセリフ。意味不明。

「そー、ピーなの。」
笛で会話する少年に校長先生(お化け)がかけた言葉。

「返して、私の時計。」
この後、校長先生(お化け)の首は伸びる。

「廊下は走るわ。掃除は中途半端だわ。漫画ばっかり読むわ。大声は出すわ。以下略」
この後、この用務員は蜘蛛人間インフェルノになる。

「みんなおかしいよ。」
イントネーションが独特でやたら耳に残る。シーンとしてはかくれんぼの最中に、ある災害が発生し、鬼である自分だけが生き残ってしまう、というもので、面白おかしく真似でもしないと小学生の時分には重すぎた。

などなど。

ストーリー自体はもう薄ぼんやりとしか覚えていないけれど、先のセリフの他にも、顔がスイカの花子さん、ベートーヴェン、メガネをかけた巨人の足、ヤンキーが作る魔法陣等印象に残っているキャラクターや場面は多い。
もちろん、前田亜希の可愛さについても触れないわけにはいかないが、今回の趣旨から逸れるので割愛する。



とにかく、この映画シリーズは、自分の中であまりに当たり前に存在していたので、後に同級生たちの多くがこのシリーズを通らずに育ってきたということを知った時、軽くショックを受けたのを覚えている。
そしてショックを受けつつ、少し得意な気分になったことも。
当時からオリジナリティに拘っていた僕は、意識せずに観ていた映画によってそれが強化されたことが嬉しかったのだ。

何故観ていたかと問われれば本当に、「家にあった」からとしか答えられない。
しかし、それが結局、今の僕のどこかしらを形成している。

「いつでも、どこでも」で溢れかえった、つまり、家にあるかどうかに関わらず、すぐアクセスできる今は、一見するとあらゆるコンテンツとの距離が近くなったように思える。
しかし、限りある大きさの部屋の中にあったDVDのパッケージと、無限に広がる画面上に並ぶ爪ほどの大きさの画像とでは、やはり絶望的に違う。
そして何よりも、そうやって全てのコンテンツと等距離に、つまり、自分と世界との境界面が「真球」のようになったとき、自分の大きさに変わりがなければ接することのできる世界は最も狭くなってしまう。
凸凹で不完全であればあるほど、多くの部分で世界に触れることができるのは、様々な掃除用品を見れば分かる。


僕らの時間は有限だから、


何かを贔屓して手元に手繰り寄せ抱きしめなければ。

その分、何かを遥か彼方へと冷たく追いやらなければ。

それを繰り返し、凸凹になって、世界と複雑に絡まなければ。

そして、自らと異なる凸凹を持つ人間と出会い、摩擦し熱を生まなければ。


その熱こそが生きる意味なんじゃないかって、つるつる人間たちに問いたい。



そしてこれを読んでいるつるつる人間たちの中でもし『学校の怪談』シリーズを観ていない人がいたら、1~4まで観て、好きな作品があったらそれだけを繰り返し観て、凸凹人間になってください。



書き手:塔野陽太
テーマ:忘れられない映画

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