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『雨滴は続く』/塔野陽太

2022年2月、作家の西村賢太が急逝した。

彼の小説をすべて読んできたわけではない、不勉強な読者でありながら、そのニュース映像を見たとき妙にしんみりとした記憶がある。
作家としてはメディア出演が多く、画面越しに見る強烈な個性には不思議な実在感があった。むろん他の出演者たちも皆実在しているはずだが、自身の貧乏時代を語る彼の言葉や笑い方には、死が身近にある人間特有の力強い生がにじみ出ていたように思う。
彼は私小説作家であった。彼の多くの小説の主人公は北町貫多という、彼自身の分身が担っている。「根が猜疑と邪推の塊にでき、曲解と歪んだ忖度の名手にもできてる貫多」の自己中心的で、怠惰で、後悔や恨みに塗れた日々には圧倒的なリアリティがあった。
小説内で語られたことをそのまま作家自身の身に起こったことだ、と混同するのは私小説の読み方として恐らく間違っているのだが、彼の作品の場合、どうしても重ねてしまう。
その結果、北町貫多と西村賢太とがそれぞれ強烈に、そして同時にその境界を曖昧に、僕の中に存在していた。
その両人が同時にいなくなってしまった、というのは単に同時代の著名人が死んだ、以上の意味と寂しさがあった。


『雨滴は続く』は西村賢太の未完の遺作だ。

出版されたことは知っていたが、なんとなく気が重く手を出さずにいた。だが、この度所用で(つまりこの記事のために)、何かしら本を新たに読む必要があり、ならばこの機会に、と台風が接近する中、本屋に買いに向かった。
短編中編が多い彼の作品群の中でも異例の長さで、本屋の棚の中でそのブルーの分厚い背表紙はひときわ目を引いた。


その背表紙を眺めながら、やはり西村賢太の作品はタイトルがいいな、と改めて思った。
暗く、時折紛れ込む露悪的な文字の並び。

『二度はゆけぬ町の地図』『小銭をかぞえる』『腋臭風呂』『どうで死ぬ身の一踊り』『棺に跨る』『疒(やまいだれ)の歌』『羅針盤は壊れても』『膣の復讐』…。


そして、『雨滴は続く』。今までのタイトルに比べ、なんとなく前向きな気がする。それにこの三連休によく似合っているじゃないか。


雨音に混じってお湯が沸騰する音が聴こえる。僕は本を読むときはもっぱらインスタントコーヒーを飲む。西村賢太の小説はタバコとかコーヒーとか、嗜好品と相性がいい。


遺作だと意識しているせいかいつもより丁寧に読んでしまう。
独特の語彙と表現が生み出すリズムが心地いい。「女旱り(おんなひでり)」なんて単語、西村賢太の小説以外で見たためしがない。いつもと同じように自嘲的で、恨み節な主人公の語りの中に、いつにない自身の文筆への自信が垣間見えて愛しい。


物語は、北町貫多の身に、ある希望の光がさしたところで、(未完)と書かれ唐突に幕を閉じた。未完だから「あとがき」もない。

「あとがき」と「玄関フード」は似ている、と思う。「玄関フード」がピンとこなければ、サウナルームの入口にある二重扉でも、宇宙船のエアロックでもいい。つまり、二つの空間が大きく異なる性質を持ち、そこを行き来する者がいるとき、その二つの空間が直接衝突し混じってしまうのを防ぐために、中立地帯を作る必要がある。
小説と現実世界にとっては「あとがき」がその中立地帯だ。
だから「あとがき」なしで終わったこの小説は少しだけ、現実世界と混じってしまったような、つまり、北町貫多が本当に実在してしまったような、そんな取り返しのつかないことが起きた気がした。


読了後、本から目線を移した先には、読む前に外された帯があった。そこには「さらば、北町貫多!」と書かれている。
あぁこれで新作はもう読めないんだ、と思った。
だが、すぐに思い直した。先述のとおり西村賢太の不勉強な読者である僕には、まだまだ未読作品があるのだ。「両人が同時にいなくなってしまった」なんて感傷的になる必要はまるでなかった。まずは、未読の西村賢太作品を、北町貫多の日々を楽しめばいい。


そして、全部読み切ってしまってから、改めて、偉そうに寂しがればいいのだ。



台風が過ぎたのか雨が上がった。それでも屋根の縁から、木々から雨滴は続いている。





書き手:塔野陽太 
テーマ:秋に読みたい本


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