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不良に憧れた優等生の話

優等生として過ごしてきた

成績は、公立なら上のほぼ上、私立なら中の上くらい、
性格も人当たりが良く、大人から目をつけられたり叱られたりするようなこともほぼない、
ある意味「面白味のない」優等生というアイデンティティというべきかレッテルを貼られ、そのキャラ付けのまま生きてきた気がする。

今でも、関わりの浅い人には「優秀だね」「優等生だ」「しっかりしている」と正直聞き飽きたようなお褒めの言葉を頂き、物足りなさを覚える。
逆に、私の不器用具合を笑ってくれる友人たちとの方が居心地がいい。

本来だったらきっと、貶されるより褒められる環境の方が居心地がいいのだろうが、自分にとってはそうではなかった。

これが完璧だとしたら、もうどこにも進めない

今の自分がそのままで十分だと言われてしまったら、あなたにとって私はのびしろ0ミリの烙印を押された人間になってしまう。
生きている限りずっと不完全な自分に対して、十分なことなんてなくて、それを「あなたは十分だから」と言われた時、そこには
世間からの需要≠私の進みたい方向
という図式が成立してしまい、身動きが取れなくなる。

私の失敗を笑って、支えてくれる人たちのところにいると安心するのは、
自分が不完全であることを認めてもらえていると感じるからだろう。
上辺だけで浅はかな持ち上げや褒めを喰らうより、よっぽどこちらの方が自分にとっては嬉しい。
このままではいられないのだから。

方向性を間違わずに「不良」に憧れる

授業を効率よくサボり、宿題の解答を私にせびってきたクラスメートに対して、
世間一般の正解生徒像にはまることなく自由奔放で大変結構だ、と感じていた部分もあった。

上京してきた友人が、「実は地元では危険なもの(あえて伏せるが、粉とか?)の売買がその辺で行われていた」なんて話をしてくると、
優等生・完全無欠みたいなキャラクターを売りにしてしまった人間からすれば、なんて刺激的なんだろう、と感じてしまうほどであった。

自分の取り扱われ方は、ある意味「無菌状態」にいたような感覚だった。
人間が生きていく中で、体に悪いであろう物質を口にしてしまうことはありうる。カビだったり、砂埃のそうだし、あとパンの焦げとか?
それでも人間の体はその一撃の悪物質では死なないようになっていて、生命は本当に良くできているなと思う。
無菌状態で優等生に育てられてしまった自分は、挫折や失敗、危険なことの真の危険さ、が摂取不足だ。

「人生の悪物質(=できたらしたくない苦労の類)」を、ここからの人生で積極的に摂取していくことが自分にとって大事なのだろうと思う。
多少の菌の侵入があっても、それだけで死に至らないために、免疫をつけてそれを分解処理できるだけの力やメンタルが自分にはまだ足りない。

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