スーパーネットストーカー 第一章 悪魔のマジック 4
県警本部の相談室は狭くて窓もない閉じられた空間だ。もっともその方が話す方も聞く方も気が散ることも無く集中できるのだろう。
小さな机を隔てて座っている小野村は丸顔でずんぐりした体型だ。童顔であることも手伝ってかなり若く見えるが、多分四十代の後半くらいだろう。納得のいかない話になると、額に皺を寄せて首を僅かにかしげる仕草を見せる。いまもそれを見せた。
「行くところのパソコンがすべてウイルスに感染していて相手がそれを監視している。そう言われるんですか。そういう相談は今まで受け
たこともありませんし、聞いたこともありません。だから確たる証拠がない以上何も言えません」
「確たる証拠とは何ですか。攻撃者である発信元を特定するということですか。もしできるならやってください。そちらの仕事でしょう」
話し始めてすぐに小野村が私に対して距離を置く姿勢が感じられた。頑なに壁をつくってそこから中に入れない、そんな冷たさを感じたので、次第に苛立ちがつのってきて言葉の上にもそれが現れた。
「それは現象を確認しないうちには・・・」
「だから何度も申し上げているように、私の使っているノートパソコンを預かってください。ウイルスがどうしても取りきれないので、打ち込む情報は筒抜けです。すぐにハイジャックしてくるかもしれません。だからそのパソコンで架空の名前で新規のメールをつくるなり、ドキュメントや映像ファイルを保存してみるなりして、どんな現象が起きるか確認してもらえませんか。外のパソコンでも情報が取られてゆくことについてはもう何も言いません。判断保留で結構です」
警察の立場上、個人情報を使うことに抵抗があるのだろうか。それでも新規メールの作成くらいはできるだろう。それをしないのは、最初から壁を作っているとしか思えない。
「一般的な話になりますが、このIPアドレスからやられたという証拠がなければ事件化できないわけです。この時間にこの不正なプログラムが実行され、使用者本人が意図しない、その実行プログラムによってこのファイルが消されたという一連の流れです。IPアドレスの情報を特定するのに半年かかることも珍しくはありません」
そう言って、聞きもしないのに過去の事件のことを引き合いに出してくる。時間切れを狙っているのか、無駄話ばかりだ。彼の話を遮るように言った。
「パソコンを預かって現象を確認してもらえば、そこから攻撃者のIPアドレスをたどる作業もしていただけるものと思っています」
もちろん彼らがそれをするとは思っていない。あり得ないが、仮にしたとしてもいろんな意味で状況は何も変わらないことを、この時点でもぼんやりとであるが予感していた。ただ色眼鏡で見ているであろう彼の態度が気に障った。
いま起きている現象を認めて欲しかった。私はパラノイドではない。正直に事実だけを語っている。それを認めた上で、しかし警察には何も出来ないというのなら、多分それは筋の通る話だろう。
彼はまた額にシワを寄せて、今度は上目使いに視線を虚空に泳がせた。
「ヤフーやGメールのメールが削除されたりパスワードが変えられたりする件でも言われていましたが、ヤフージャパン側のサーバーに侵入しているのではないかと。実際ヤフーメールのログイン履歴にも不審なログイン記録は見当たらないのでしょう。もしそうであればそれはヤフージャパンの問題にもなりますし、楽天銀行のログインパスワードが変えられていれば楽天銀行にも侵入している可能性もあるでしょう。侵入されている側の被害届が出なければわれわれも動きようが無いんです。この場合は楽天銀行側、それにヤフージャパンとかアマゾンです」
「ちょっと待ってください。システムエラーも外部からの侵入も認めてないのに彼らがいったいどんな被害を受けたと言われるんですか。すべて損害は私の方に生じてるでしょう」
無性にのどが渇いた。ここを出たらコンビニに飛び込んで冷たいジュースでのどを潤そう。早く出たい。きっと私はいま場違いなところにいるのだ。
「アマゾンやヤフーオークションで古本や中古品を売ったりすることがいまの私の唯一の収入源ですが、その注文確認メールが勝手に削除されて本の発送が出来なかったこともあり、利用者の評価が落ちてしまったこともありました。これも立派な被害でしょう」
実害としての金銭的な被害と言うなら、HTMLやCSSを学ぶことから初めて、その後に二年近く苦心惨憺して作り上げたふたつのWEBサイトが、ハッカーによってつぶされている。小野村にはそのことも伝えてあった。ひとつのサイトは完成度も高くグーグルやヤフーでも短期間のうちに上位に表示されていた。
私も自営業者として生きている。何かやろうと思えば必ずホームページを制作することが必要となる。サイト制作のある程度の技術は持っているが、作れば必ずつぶされてしまうだろう。
だから今は羽をもがれてしまった鳥でしかない。
メールが作れない。SNSも利用できない。ネットでクレジット決済もできない。ネット社会から半分抹殺されてしまったような状態にあるのに、それでも私の被害は無視されるのだろうか。
「楽天銀行口座のログインIDとパスワードが先方に知られているなら、不正送金とかそういうものがなされていないのは何故でしょうか」
「金銭的な被害が出れば警察が真剣に対応してきて、そうすれば今後の嫌がらせがやりにくくなると考えているのかもしれません。そのあたりはわかりませんが、とにかく相手は金銭的な目的ではなく嫌がらせすることがすべてです。ネットストーカーとでも呼ぶべきでしょうか」
カードには保険がかけてあるので、不正利用があっても原則としては利用者に支払い義務は生じない。しかし気づかないままカード会社への通告が遅れた場合は例外だ。二ヶ月以上前のものは不正利用されて身に覚えのない引き落としがあっても、調査対象外となって支払い義務が生じる。利用明細はWEB上からいつでも確認できるから、それを怠った利用者側に落ち度があるという論理だろう。
しかしカード会社に登録したメールは絶えずパスワードが変えられていく。一度でも変えられてしまえば不安になってまた新しいメールアドレスに変更することになるが、それもまた数日のうちに同様の被害に遭う。だから、たとえ新しい連絡用メールアドレスを作っても、それを使っていて相手に検知されてしまえば、同時にこちらの居場所を教えてしまうことになる。
だから三枚のカードの登録メールアドレスは開いていない、と言うよりそのアドレス自体を覚えていない。
カード会社のWEBサイトにログインしてもそれはハッカーの知るところになる。ログインすることさえ出来ないから不正出金などの確認はもっぱら電話で行っていた。海外に出ているときはスカイプを利用して掛ける。だがそのスカイプさえもパスワードが変えられて利用できないことが多々ある。
今ではどのカードもショッピングの利用限度額を最低のラインに設定しているが、それでもハッカーはクレジットカードの番号を知っているので、いつ不正利用されてもおかしくない状況だ。しかし警察の論理は、名も無い個人が被害者になる場合、あくまで金銭的な実害に固執するのかもしれない。
彼はまた話を元の方向へ戻した。
「もしあるとすれば、嫌がらせはエアアジアのサーバではなく図書館のサーバから侵入しているはずです」
サーバーというのはインターネットのネットワーク上で、他のパソコンの要求に応じて機能やサービスを提供するコンピューターのことだ。ここに侵入されればそのサーバを使っている個々のPCへの侵入、ファイルの閲覧、通信の傍受などが可能になってしまう。しかし小野村はいったいなにを根拠にそう言うのか。両方のサーバに侵入している可能性だってある。
「図書館のパソコンに不正侵入したなら、そのすべてのパソコンがおかしくなるはずでしょう。パソコン数台で一個のIPアドレスを持っているはずです」
今度は個別のパソコンへの侵入に話が飛んでしまう。しかしネットワークに関しての知識がほとんど無い私にも小野村が言っていることが、子供だましの逃げ口上であることがなんとなくわかった。それは後で予想どうり全く根拠の無いことだということがわかった。
話がすこし専門的になってしまうが、彼が言うのはもちろんグローバルIPアドレスというインターネット上の住所のようなもののことだ。それは図書館にあるパソコンの使っている、図書館の中という限られたネットワークのなかだけで有効なIPアドレスと対応させているが、その割り当ての仕方を知らずに語れない話だ。数台で一個のグローバルIPアドレスを使うこともあれば、パソコン一台ずつに割り当てることもあり得る。
しかしいずれの場合にしても、ひとたびウイルスが入ってしまえば、ハッカーは任意の一台を選んで攻撃することはもちろん、どんなことでもできる。セキュリティをわずかでも知る者には、常識的な話だが、素人ならそれで黙らせることができる。
「それと先ほどの話ですが・・・・」と彼は私が口を開こうとするのを遮るように、今度は前の話を蒸し返してきた。それは自宅のノートパソコンを街の喫茶店のWIFIやネットカフェなどの有線でつないで使っても同じ結果になってしまうということに関連して、パソコンには個々にMACアドレスという一台ずつに固有の番号があるから、それで識別されるのかもしれないと私が言ったことを受けてのことだ。
「MACアドレスは永久に変わらないと言うわけではない。書き換えることだってできます。それに世界に向けて発信されているわけではない」
また話を逸らそうとしているのだろうが、しかし返答自体がピンと外れで支離滅裂になってきている。
「MACアドレスを変更するソフトがあることは知ってます。でもそんなことは関係ないでしょう。いま言ってるのはハッカーが侵入すればMACアドレスを確認することは可能だということです。確認手段として特定のパソコンのチェックは可能です」
こんなかみ合わない話を続けていても意味がない。枝葉末節は切り離して話を核心に持って行った。
「私がいままで言ったことは、例えば外のパソコンを使って作ったメールのパスワードが変えられたり、どんな場所であってもパソコンがハイジャックされてネット決済が出来なかったり、そういうことは全部可能でしょう。Y市のパソコン、いやこの県下のものを含めた中国、近畿圏の一部まで伸びているかもしれない、そういう大きなエリアのパソコンがボットネットの中に組み込まれていることに間違いないと思います」
小野村は再び視線を上のほうに泳がせ、一息ついてから言った。
「それは関西空港でつくったメールのパスワードが変えられてしまったことを踏まえて言っておられるのですか」
「大阪市内のネットカフェでもおかしなことがありましたし、フォーマットしてOSを入れ直したパソコンを関空の国内線出発ロビーにある無料のPC有線ケーブルに接続して二度ほどウインドウズアップデートをやりました。到着した海外の空港で再びアップデートをやろうとすると、エラーメッセージが表示され、ウインドウズアップデートそのものができなくなったこともあります」
ウイルスはOSのアップデートを妨害することも多々ある。
「しかしボットであるなら、そんなに大きな範囲まで広がっているのに何故ウイルス検知ソフトにひっかっかってこないのですか」
彼のその疑問は、今までの根拠の無いものやピントの外れたものではなく、理にかなっているように思われた。
ウイルス対策ソフトを開発、提供している事業者は、ウイルス検知のために、日々ウイルスサンプルを収集して、ウイルスの特徴を定義したファイルを作成し、一般ユーザーはネット上からアップデートしてゆくというかたちで、彼らから絶え間なくこの新しい定義ファイルの提供を受けてゆくようになっている。
近畿圏まで伸びているような大きな規模で広がっているなら、当然ウイルスは事業者に採取されて定義データベースに入ってくるはずである。もちろん定義データベースが提供されるまでの時間的なずれはある、しかしいままで長きにわたって検知されないできているのは確かにひとつの疑問にはなる。
今ならWEB上にも答えはあふれかえっているのだが、残念ながら当時はまだその知識というよりも情報が無かったからだ。そのとき私は彼の質問に答えることができなかった。
小野村の質問に限らず、様々な疑問に答えが出されるまで三年以上の時間がかかった。というのも後で警察もあてにできないこともわかり、すべてに打つ手が尽きてしまったため、ネット世界を含めて、日本での一切の社会生活から一時的に身を引いて、充電期間にするつもりで、既に述べたように二年ちかくの間、タイやミャンマー、スリランカなど上座仏教の僧院に滞在して瞑想修行していたからだ。
この間ネットを使用する機会は非常に少なかったが、全く無かったわけではない。しかしセキュリティ関連の情報を検索することなどは一切無かった。たまに帰国しても書店でもそんな関係の本には目を通さなかった。古いラップトップは売り払ってしまい、新しい中古のものを買い直したが、ほどなくこれにも侵入され、以来ネットに接続させることは控えるようになった。インターネットは、主にネットカフェだけを利用していた。すべてを忘れてしまいたかった。
しかしそのわずかなネット上の時間のなかでもハッカーは嫌がらせを継続し、メールの削除やパスワードの変更を怠らなかった。しかし悪さする機会がめっきり減ったことでストレスが高じたのだろう、自宅でパソコンをいじっている八十ちかい母親に嫌がらせを始めた。
母にはちょっとした障害があり、握力が弱い。指でひとつずつキーボードを叩いて長い時間をかけてメールを完成する。その打ち終えたときを狙ってページが元に戻り、打った文面は消えてしまう。ネットサーフィンさえフリーズさせて妨害したりした。NTTの有料パソコンサポートにアドバイスを求めたことがさらに傷つく結果となり、以来、母は一切パソコンさえ触らなくなった。私がこのハッキングハラスメントのことを告げたとき、インターネットは人を堕落させる、と彼女は言った。
スリランカで日本製の中古ノートパソコンやハードディスクドライブを売ってみたりしたこともあったが結局、商売にはなり得なかった。三年余りしてからインドに入り、南インドの或る聖地で土地を借りて有機農法をやりながら、薬草の研究を始めた。そこで日本で未だ知られていないインドの伝統的な農法や伝承医学を学ぶことは、私にとって大きな喜びとなった。
ハッキングはその間も止むことは無かった。しかしすべてを失った身にとってそれは以前ほど大きな問題ではなかった。そしてネット上で再びこの嫌がらせについて調べ始めたときにひとつの事実に気づいた。それはたしかにひとつの衝撃であったが、あのとき小野村が投げかけた問いに関連することでもあったし、私が置かれている真の状況をはじめて知り得ることにもつながった。
数年の間に劇的な変化が訪れていた。情報がネット上に頻繁に顔を出すようになった。いつの間にか「それ」はサイバー犯罪の中でも最も危険なものの筆頭にあげられ、このネット世界ばかりか、政治、経済、社会システムまでもその崩壊を招きかねない重大な危機として取り上げられ始めていたのだ。
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