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【#1】アインシュタインの初期の人生:学生時代の苦悩、初期の職歴、結婚と離婚そして浮気

革命的な物理学者、ノーベル賞受賞者、永遠の学び手であるアルベルト・アインシュタイン。彼の名前は世界的に知られていますが、その才能が芽生え、結実した道のりは一直線ではなく、意志と情熱が織り成す独特な旅路でした。

ドイツ:不器用な子供から革新的な思考家へ

1879年、ドイツ南西部のウルムの静かな町に生まれたアインシュタインは、その生涯を通して常に問い続ける子供でした。家族は電気関連の事業を営むユダヤ人で、アルベルトが幼い頃にミュンヘンへと移住。ここでアインシュタインの心は、音楽と数学に魅了されました。母のヴァイオリンの旋律は彼の心を動かし、一生涯ヴァイオリンへの情熱を灯す火花となりました。

幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題なかったのですが、言葉を出すのには時間を要しました。一方で、数学への彼の探求心は、家族の友人であり医者でもあったマックス・タルムートから大いに刺激を受けました。タルムートは彼に自然科学や数学の世界を開き、その奥の深さと魅力を理解させました。

アインシュタイン一家はユダヤ人ではあったものの、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかったため、アインシュタインは5歳から3年間、ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通いました。しかし、ミュンヘンのリートベルクギムナジウムの伝統的な教育方法は、アインシュタインの自由な発想を束縛し、学校への彼の不満を増幅させました

1894年、父と叔父の会社が行き詰まり、その結果、新たな商業的な機会を求めて一家はイタリアのミラノに引っ越すことになります。ただ、当時高校生だったアインシュタインは、大学進学のために高校の卒業資格が必要でした。そこで、高校を卒業するために、アインシュタインのみドイツに残ることになります。

スイス:再出発と学びへの無尽蔵な欲求

しかし、軍国主義的なドイツの伝統的な教育はやはり、自由主義的なアインシュタインには合いませんでした。その結果、ノイローゼになってしまいます。結果として、医師からノイローゼ等の診断書をもらい、アインシュタインはドイツを離れミラノの両親の元へ戻りました。当然と言えば当然ですが、学びのスタイルの合わないドイツへは戻る気はしません。そして、新たな人生の舞台としてスイスを選びました。

ドイツの学校を去ったアインシュタインはスイスの連邦工科大学への進学を決意。しかし、ドイツのギムナジウムを卒業していなかった彼は、まず大学進学の資格試験を受ける必要がありました。試験には落ちてしまったものの、彼の数学と物理学への優れた能力は認められ、スイスのアールガウ州立学校の上級に編入することとなりました。

このアールガウ州立学校はドイツのギムナジウムとは対照的に、自由で開放的な教育環境を提供していました。ここで彼は信頼できる友人たちや尊敬する教師たちと出会い、真剣に学びました。とりわけ、理科の教師フリッツ・ミュールペルダは特に影響力があり、アルベルトの自由な精神を称賛しました。

また、アルベルトが下宿していたヴィンテラー一家との交流は、彼の成長に大きな影響を与えました。この一家は自由で温かい雰囲気を持っており、アルベルトはその一員として大切にされました。後にアルベルトの勧めで妹のマヤはヴィンテラー家の息子、パウルと結婚しました。

アルベルトはこれらの経験を通じて、自分の人生を学問に捧げることを決意しました。そして、1896年にアールガウ州立学校を卒業し、彼は自身が望んだチューリッヒ連邦工科大学に入学しました。この大学はヨーロッパでも最高の大学の一つで、多くの有名な教授が在籍していました。ここで彼は、彼の仲間であるグロスマン、コルロス、エーラト、ミレバとともに学び、さらなる学問の探求を深めていきました。

初期の職歴とプライベート:難局を乗り越えて

アインシュタインが大学を卒業したのは、スイスのチューリッヒ工科大学でした。しかし、学校での彼の行動や態度が教授陣から評価されず、卒業後すぐには仕事を見つけることができなかったのです。そこで彼は家庭教師や代用教員として働き、自身の生活を支えました。それでも、彼は物理学者になるという夢を持ち続け、それを追い続けました。

その夢を叶えるための一歩目は、特許局での職でした。これは大学の友人のつてを通じて手に入れた仕事で、彼はそこで様々な発明品の特許出願を審査していました。この仕事は彼の夢である物理学者とは違うものでしたが、その中でも彼は自分の時間を物理学の研究に注ぐことができたのです。

そしてその結果、1905年には4つの論文を発表しました。これらの論文は物理学の世界で大きな注目を浴び、彼の名声を確立する一歩となりました。

奇跡の年

1905年、アインシュタインが特許局で働きながら発表した4つの論文は、「ブラウン運動について」、「光電効果について」、「特殊相対性理論」、そして「質量エネルギー等価則(E=mc²)」について述べたものでした。この一連の論文は、物理学の歴史に大きな影響を与えることになりました。

まず、「ブラウン運動について」の論文では、微粒子が液体中でランダムに動く現象(ブラウン運動)を統計学的に説明しました。これにより、原子や分子という微視的な存在を間接的に証明し、物質の微視的な構造理解に寄与しました。

次に、「光電効果について」の論文では、光が電子を打ち出す現象(光電効果)を説明し、光が粒子的性質を持つことを示しました。これにより、後の量子力学の発展につながり、1921年に彼がノーベル物理学賞を受賞することになります。

「特殊相対性理論」の論文では、物理法則はどのような状況でも一定であり、光速はどの観測者にとっても一定であると述べました。これは、時間と空間の観念を根本から覆す革命的な理論でした。

最後に、「質量エネルギー等価則(E=mc²)」の論文では、物体のエネルギーEはその質量mと光速cの二乗との積で表されると述べました。これは物質とエネルギーが等価であることを示す画期的な理論で、原子力発電や原子爆弾の開発につながりました。ただし、アインシュタインは平和主義者で自身の理論が戦争に使われていたことを知り衝撃を受けます。

このように、特許局で働きながら発表した4つの論文は、それぞれ異なるテーマについて述べていましたが、それぞれが物理学の世界で大きな注目を浴び、アインシュタインの名声を確立する一歩となりました。彼のこの年を「アインシュタインの奇跡の年」とも呼び、その後の科学の発展に多大な影響を与えました。

プライベート

アインシュタインはスイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学の卒業生でした。しかし彼の学生生活は決して平坦なものではありませんでした。当時の恋人であったミレヴァ・マリッチに対し、「助手になれるのは間違いない」と手紙に書くなど、彼は自身の将来に自信を持っていました。

しかし、現実は彼が思い描いていたものとは異なりました。学生時代には頻繁に授業をサボり物理学部長であるハインリッヒ・ウェーバーとの折り合いも悪かったため、卒業後の職は見つからず、一時期は家庭教師や代理教員として食いつないでいました。

転機は1901年に訪れました。友人の父親の口利きにより、スイス特許庁の職に就くことができたのです。生活が安定した彼は、2年後には恋人だったミレヴァと結婚しました。結婚生活の中で彼は重力の相対性についての研究を開始し、その後の輝かしい研究者としてのキャリアを築き上げていきます。

しかし、彼の結婚生活は決して順風満帆なものではありませんでした。1919年、アインシュタインはミレヴァと離婚します。彼は研究に専念したい一心で、その為には結婚生活が障害になると考えていました。

そして、もう一つの大きな要因として、彼の女性関係の問題がありました。アインシュタインはその頃、義姉であるエルザと数年間の不倫関係にありました。彼はエルザへの情熱的な愛情を、多くの手紙に綴っていました。

アインシュタインは、ミレヴァと離婚するために、まだ獲れてもいないノーベル賞の賞金を譲ると約束をしてしまいます。離婚が成立した後、彼はエルザと再婚します。そして1921年、驚くべきことに彼は宣言通りノーベル賞を受賞します。

結び

いかがでしたか?前回の記事がアインシュタインの生涯を描いたのに対し、今回はアインシュタインの初期の人生について書きました。前回と多少内容が被っている部分はありますが、より詳しく書いたため、読み応えのある内容だったと思います。

私は、彼の人生は気持ちに対する正直さで彩られているように感じました。自分の中の考えや、好奇心、感情に驚くほど正直なのです。そのため、プライベート面で問題が生じたりもしますが、それゆえの結果なんだと思います。

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