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俳句の鑑賞《56》


じやんけんに負けし手が泣く空つ風

村上鞆彦句集「遅日の岸」P.118

季語:空つ風(三冬・天文)

もちろん大人であっても、「じゃんけん」をすることはありますが、ここでは、小学校高学年ほどの、少年の景が浮かびました。
「じゃんけん」をするに至った理由はわかりませんが、そうとう気合を入れての勝負だったのでしょう。「負けし手が泣く」と、まるで他人事のような措辞でありますが、かえって、負けたの悔しさと、哀しみを強調しているように思えます。

季語「空つ風」がまた、良き味を出していて、暫く、風にあたっているうちに、仕方ない、と改めて前を向く少年も見えてくるようです。


切株の根の生きてゐる霙かな

村上鞆彦句集「遅日の岸」P.119

季語:霙(三冬・天文)

切株を見ていると、その切株が、まだ立派な木であったときの様子を、ついつい想像してしまうことがあります。
かつては堂々と生きていた切株、今は、少し残念な姿ではありますが、その切株から、新芽が伸びていたりすることもよくあります。
そう、しっかりと「根は生きて」いるのです。

そんな切株に、霙が降りかかります。しっとりと黒く艶めいて、霙を受け止めている切株。そこに命を見出した作者の繊細さに、とても惹かれます。


風を生むフラダンスの手春隣

津川絵理子句集「夜の水平線」P.132

季語:春隣(晩冬・時候)

フラダンスの、あの波のような腕と手、指先のの動きは、正に「風を生む」ようであると、はっといたしました。
そして、滑らかな温かさを纏った動きは、これから春を迎えようとしている、冬の終わりにぴったりであります。読み手の私にも、フラダンスの手が送り出す、あたたかな風が届きます。

明るい陽だまりのような、レッスン会場も目に浮かびます。


三人の舞妓別るる余寒かな

津川絵理子句集「夜の水平線」P.134

季語:余寒(初春・時候)

フラダンスに続いては、舞妓。季語は、春にはなったものの、まだ残る寒さの「余寒」。フラダンスの句の纏う雰囲気とは、かなり違った印象です。

お座敷の後、或いは、舞台の後でしょうか。京都の春には、まだかなりの寒さが残っていて、三人の舞妓も、きりりとした緊張感の中で、それぞれの道に散って行くのです。
しんとした美しい景であります。


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「南風」村上主宰と津川顧問句集の「俳句鑑賞」の経緯はこちらの記事に。
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