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あの時から、そのままにしてきたこと~七層の大天守の復元

 4月に桜を見に鶴ヶ城へ行ったとき、満開の桜の後方に五層の天守閣が目に入りました。ファインダーを覗きながらズームレンズで画角を調整して何枚か撮影しました。そのとき、焦点をどこに合わせようか?と迷っていました。自分が写したいものは、桜なのか、天守閣なのか・・・。桜を見に来たのだから「桜」に決まっていますが、その日はなぜか天守閣が氣になったのです。ファインダーから目を外し、天守閣を眺めたとき、ある思いが蘇ってきました。20年ほど前に七層の天守閣をペーパークラフトで制作しましたが、短期間で仕上げたので80%の完成度でした。妥協して、そのままにしてことが、心の何処かに引っかかっていたのでしょう。天守閣の南側で撮影していたので、鉄門の後ろに天守閣が見えます。頭の中でイメージした七層の天守を現実の五層の天守に重ねていきます。黒い巨大な天守閣がオーバーラップしながら姿を現してきました。かつて、そこにあった荘厳で美しい姿が蘇ります。ここにあるべき城の本当の姿は、七層の天守なのだと訴えてくるかのようなエネルギーの強さです。よし、七層の天守を復元しよう!
 歴史を辿ると、蒲生氏郷は、会津の黒川城を若松城(鶴ヶ城)に改め、文禄元年(1592年)に七層の大天守を持つ荘厳で巨大な城を築きました。秀吉の命により、東北地方の要所であった会津の地を任された氏郷公でしたが、大坂、京都から遠く離れたこの地では「天下人の夢が叶わぬ・・・」と悲しんだといいます。氏郷の類まれな才能に秀吉は氣づいていたのでしょうか。天下人への夢が絶たれた無念を晴らすため、この築城に新たな夢を込めていたに違いありません。残念なことですが、慶長16年(1611年)の会津大地震により天守が破損して傾いてしまいました。その後、寛永16年(1639年)に加藤明成によって、五層の天守に改築されたのです。その名残は、石垣に見ることができます。七層の天守を支える石垣は、五層の天守には大きすぎるため、石垣上部に空間があるのです。今の五層の天守も、そんな違和感をもたせない絶妙なデザインセンスがあり、私は好きなのですが・・・。
 私が80%の完成度のままで制作をやめていたのには理由がありました。当時のペーパークラフト制作の際、七層の天守を再現するために石垣の寸法を誤魔化していたのです。五層の天守を航空写真などで確認すればわかりますが、どの層も正方形です。しかし、石垣は長方形なのです。東西方向は七層分にピッタリのサイズなのですが、南北方向は短く六層分しかないのです。この石垣の上に存在した天守がどのようなものだったのかと考えたとき、3つほど可能性があると思いました。①最下層は東西の壁面は七層分の幅で、南北の壁面は六層分の幅と同じ②上から見たとき、天守の各階層が長方形③特殊な屋根の形状。どれが正しいのかを判断する資料が乏しく、あえて迷宮入りさせていたのです。新たな資料が見つかるわけもなく、あれから月日だけが流れてしまいました。今回、花見に出かけて氣づかされたのは、わからないからやらずに済ませるのではなく、「答えのないものに答えを出してみろ!」という人生の課題提示だったのかも知れません。
 復元するにあたって、②はPCでシミュレーションしたとき、美しく見えませんでした(笑)また、加藤氏が五層に改築したとき、築城して間もない建築部材を再利用しないはずがありません。文献によれば、地震後に上の二層が破損して傾いたとあり、五層分は無事だったわけです。破損したのは上の二層とありますが、物理学的に考えれば巨大な力がかかる最下層だと思われます。そう考えれば、再建された五層は、七層の天守の上から五層分で造られたのではないか・・・。石垣部分に空間ができるのもこれで説明がつきます。さらに、五層の天守を見たとき、特殊な屋根の形状はなく、③の特殊な屋根も候補から外れるはずです。あくまでも想像ですが・・・。残るは①のみ。これが最も可能性の高いものですが、美しい荘厳な天守閣が現れるのか。制作してみなければわかりません。そもそも蒲生氏郷公は、なぜ石垣を四辺等長にしなかったのだろうか?氏郷公になったつもりで制作すれば、その答えも見えるかも知れませんね。(つづく)

会津若松市の観光資料より

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